優しい光、不器用な甘さ昼下がりの午後、私は探偵社から出てヨコハマの街を歩いていた。社長が猫と戯れていたり、治が女性を口説いていたり、賢治が老人会の手伝いをしていたり、社長が猫と日向ぼっこを……って、あれ、これはさっきも云ったっけ。とまぁ、この時間帯は比較的事件事故が少ないから各々が自由に過ごしていた。
私は洋菓子店を訪れていた。乱歩さんが地方の依頼から戻られるから、美味しいお菓子を用意しておかないと。沢山のお菓子が入った袋を抱えて店を出ると、少女の怒ったような声が耳に入った。
「くれーぷ食べたい!」
「駄目だ。直帰すると云った」
「やだ!やちよ食べるもん!!」
近くに停まっていたクレープの移動販売車の前で、女の子が保護者であろう人に猛抗議していた。人集りができるほど人気なようで本人達の顔は目視できなかったけど、余程食べたいみたい。
女の子の名前はやちよちゃんって云うんだね。近くに住んでるのかな?
「あたたがわさんのいじわるぅぅ!!」
あたたがわさん。何処かで聞いたことがあるような名前に、足を止めてやちよちゃんの方を振り返る。人の流れが途切れた一瞬、私の目に黒い外套の華奢な背中が映りこんだ。
「駄々を捏ねるな。行くぞ」
「やだぁ!!」
「それなら、私が見ててあげようか?」
乱歩さん宛のお菓子の中から、ひと口大のドーナツが詰められた小さな袋を取り出し、視線を合わせて手渡す。やちよちゃんは拗ねたような表情から一転、きらきらと目を輝かせて大きな声でお礼を云った。
「お礼云えて偉いねぇ」
「いぇへへ……あたたがわさん!見て!まんまるのどーなちゅもらった!!」
ゆるゆると頬を綻ばせて、あたたがわさん___やつがれの元へ駆け寄った。やつがれは食べ過ぎるなよと釘を刺して、やちよちゃんの頭に手を置く。
「何故貴女が此処に」
「一寸買い物にね。それで、如何する?子供の面倒見るのは得意だよ」
私とやつがれの顔を交互に見るやちよちゃんを他所に話が進む。任務は夕方迄には終わらせること、探偵社には連れて行かないこと、やちよちゃんは異能力者だから目を離さないこと、食べ過ぎないよう見張ること。
やつがれが幼子の世話をするだなんて驚きだけど…なぁんだ、しっかり保護者してるじゃん。気付かぬうちに頬が緩んでしまったみたいで、やつがれに訝しげな目で見られてしまった。
「初めまして、柳生伊織です」
「みやしろやちよです!いおりしゃんは、あたたがわさんと仲良し?」
「うん、やつが…芥川とは仲良しだよ〜」
「そうなんだぁ!」
やつがれと仲良しな人ということで信頼を得られたみたいで、てちてちと近くに寄って来てくれた。可愛いねぇ。八千代ちゃんのような純粋な子がマフィアに所属しているなんて、と心の何処かで思っていたけれど、それは私の身勝手な意見でしかない。彼女自身はやつがれと居るのが幸せなのだろう。だってほら、仕事へ向かうやつがれに手を振る時でさえ、こんなに愉しそうにしている。
「八千代ちゃんは何かしたいことある?」
「おしゃんぽ!」
「散歩か!行こう行こう!迷子にならないように手を繋ごうね」
手を差し出せば、はぁい!と元気よく返事をして私の手を握り返してくれた。先刻渡したドーナツは、帰ってから皆で食べてねと云うと、可愛らしい鞄に大事そうに詰めていた。
「あたたがわさんねえ、いちゅもまいごになるんだよ」
「そうなんだ。じゃあ探すの大変だね」
「しょうなの。だからやちよがおててつないであげるの」
「ふはっ、芥川ってば迷子かぁ。八千代ちゃんは優しいね」
やつがれが迷子という衝撃的な言葉を口にする八千代ちゃん。思わず吹き出してしまったけれど、当の本人は誇らしげだ。
ヨコハマは事件事故が絶えない。だからこそ、幼子の笑顔を見るとより一層癒されるし頑張ろうと思える。八千代ちゃんは私達の光そのものだね。
暫く歩いて、お花が沢山咲いている処へ行ったり、お腹を空かせた八千代ちゃんに一つだけだよとドーナツを食べさせてあげたりした。黄色のダリアが気に入ったようで、管理人さんから少しだけ貰って髪に挿してあげたら大喜びしていた。
「…眠い?」
「眠くないよ、やちよまだあるける…」
そろそろやつがれの仕事が終わるであろう時間帯。八千代ちゃんの歩く速度が落ちてきた。声をかけると舌っ足らずな言葉が返ってくる。
「あーあ、八千代ちゃんのこと抱っこしてみたいなぁ。抱っこさせてほしいなぁ」
駄目かな?と尋ねれば、小さく頷いていいよと云ってくれた。沢山歩いたから今夜はぐっすりだね、やつがれや樋口が少しでも楽できるといいけど。
何かお話してあげたらすぐ寝付くかな。そう考えて選んだのは“シンデレラ”だ。彼女くらいの歳の子はお姫様好きでしょ?話し始めると、少しずつ首がこくりこくりと揺れ出した。頭を撫でれば、大人しく私に頭を預けて擦り寄ってくる。
「シンデレラかわいそう…でも、あたたがわさんが、たしゅけてくれるから…きっとだいじょぶ」
シンデレラが義母や義姉にいじめられる、物語の冒頭部分。八千代ちゃんはぽそりと小さな声で呟いた。
「芥川が?」
「うん…たいていやっちゅけて、おりひめとひこぼし会わせてくれるの……だからシンデレラもしあわせなれるよ…」
きっと七夕の話だね。大帝やっつけるってのも、やつがれは本気で云ってるんだろうなぁ。やつがれらしいと云えばらしいけど。八千代ちゃんもやつがれを心から信じてるみたい。
「そっかそっかぁ。芥川は強いもんね」
こくりと頷いて、小さな手がきゅっと私の服を掴んだ。
まだ幼くて、小さくて、壊れてしまいそうな子。だからこそ心配させる訳にいかないし、危険な目に遭わせるなんて以ての外だ。やつがれにとって八千代ちゃんは、生きる意味なのかもしれない。
「芥川が居るから、八千代ちゃんも寂しくないんだね」
実はその逆かもしれないけれど。すぅすぅと寝息を立て始めた八千代ちゃんを抱え直して、やつがれとの待ち合わせ場所に急いだ。
✻✻✻
「お疲れ様。八千代ちゃん寝ちゃってるけど大丈夫?」
「有難う御座います。構いませぬ」
鞄と、すっかり眠りについた八千代ちゃんを預ける。服も手も仕事後とは思えないくらい清潔で、細かいところまで八千代ちゃんに対する気遣いが見て取れる。八千代ちゃんが寝ている為か樋口に電話をして迎えの車を呼んでいた。
「何時もやつがれが面倒見てるの?」
「僕が八千代を保護した故。仕事が外せぬ場合は樋口、若しくは黒蜥蜴が」
「へぇ…皆忙しいでしょ。大変じゃない?」
「…出来る限り、八千代に合わせるようにしています」
何それ、激甘じゃん。治の教育を受けたやつがれの事から、子供に対してもかなり厳しいのかと思ってた。驚きが隠せない。礼儀作法とか教養に関してはそれなりに厳しいんだろうけど、これは甘いどころの話じゃないねぇ。
「幼子に孤独感を抱かせてはならぬ」
「……うん、そうだね」
やつがれの一言に、私はそう返すしかなかった。保護される迄八千代ちゃんがどんな生活をしてきたのかは判らないけれど、それを抜きにしてもやつがれの云うことは最もだ。首領の命とはいえ八千代ちゃんを大切にしているのが伝わって心がじんと温かくなった。
「私でよければ手伝うから、何時でも連絡しなよ」
涎を垂らす八千代ちゃんの口元をちり紙で拭く。涎を垂らすなとやつがれは頬を抓っていた。やつがれの外套の衣嚢に電話番号の書かれた紙を突っ込む。マフィアを抜ける時に携帯変えたからね。此方の連絡先には追加してあるけどやつがれは知らないだろうし。
「八千代ちゃ〜ん。今日は愉しかったよ、有難う。また遊びにおいで」
「…んぅ…あそぶ…」
目を擦り乍ら返事をしてくれた八千代ちゃん。頭を撫でると幸せそうに笑ってまた夢の世界へと入っていった。
「またね」
やつがれのことをよろしくね、八千代ちゃん。小さな小さな背中に、心の中でそう呼びかけて身を翻した。
✻✻✻
「いおりしゃん居ないぃ!やちよ置いてかれたあぁぁ」
「伊織さん…今から此方には来れませんか」
「流石に今は無理かなぁ。それに拠点行ったら私殺されちゃう」
ぐっと言葉に詰まるやつがれは、語尾にかけて声が小さくなってる。かなり悩んで電話してくれたんだね。なぁんて、夜泣きした八千代ちゃんの声を聞き乍ら、深夜二時を回った時計を眺めた。