本気の園芸出会い編(シャアシャリ)ラ、ラ、ラ……
歌が聞こえた。
外階段の手すり越しに下を眺める。小さな中庭の中心で、華奢な少女が黄色いワンピースを翻しながら歌っている。
下ろした長くまっすぐな黒い髪、褐色の肌。そして高く高く澄んだ歌声。
この少女の姿を見かけ、そして声を聞いた人間は。余程急いでいるか歌がきらいかでなければ、足を止めてほう、と目を丸くして。それから彼女の歌に聞き惚れるだろう。
その場に置いた途端ぱっと場が華やかになり、場の空気を支配するだけの存在感は彼女にない。少女より派手で美しいものはここには幾らだって存在するだろう、なんといってもキー局の本社ビルなのだから。
それでも、冬の湖にぷかりと浮かぶ一羽の白い鳥のような。見ている側が音を立てれば飛んでいってしまい、容易く失われる世界を、彼女は持っているように思えた。
しかし、わざわざ吹き曝しの外階段を通っている此方の目的は実のところ彼女ではない。視線を彼女から動かして、中庭に据えられたベンチへ。
いる。
白いジャケット、白いパンツ。そして真っ赤なシャツ。
冬の弱い日差しですら跳ね返してきらきらと輝く金の髪。顔の半分を覆うサングラス。表情のうかがえぬ顔を少女に向けて歌を聴く青年。
今日も居た。
決まった曜日の、決まった、ほんの少しの時間だけ、少女はここの中庭で歌っている。
そして少女が歌うとき、そばのベンチには、この金の髪をもつ青年が座っていることがある。
少女と同じ年頃の少年と一緒であったり、同じ金の髪をもつ女性と一緒であったりもするのだが。今日はひとりであるようだ。
今日は良いことがあるかもしれない。思わず頬を緩ませる。
はじめて彼と話したのは半年以上前だ。
まず、長期間帰国のできないとある調査隊に放り込まれ、任務を終えて帰ってきたら大学の研究室に籍がなかった、という衝撃の不幸から事ははじまる。
送り出してくれた室長の手続き上の過失、本人の死去、間をおかずよりにもよって室長と反目していた人間が学長に就任してしまったという事実。全てが悪い方にしか噛み合っていなかかった。きっちり私物が返却されたことだけは相手が政敵の弟子とはいえ公私に私怨は持ち込まない新学長の優しさと見るべきか。
丁重に保管されていた段ボールいくつかを抱え、調査隊への参加で金が無く、職までもついさっき失った私はぽいと世間の荒波に放り込まれてしまった。
とにかく生活のための資金を稼がねばならなかったのだが、時期が悪かった。研究者という仕事は潰しがきくようできかない。フルーツバスケットをリンゴと言われてもモモが鬼気迫る顔で、私はリンゴ! バラ科なんで! と叫びリンゴの席へ即座に尻を突っ込むような、全身全霊でやり続ける椅子取りゲームの世界である。3月に入ればめぼしい仕事はほぼ埋まっていて、空いている席などありはしなかった。
そんな時、故室長の奥様が、内定者が急病になったということで、キー局の契約社員の仕事を紹介してくれた。
あなた気象予報士さんの資格をお持ちよね、と。おそらく夫の不手際で職を失った男を哀れんでくれたのだと思う。
資格はあるがテレビカメラの前で話すなどとうてい出来そうにない。しかしこれを断っては仕事の心当たりはない。
とぼとぼと面接を受けに向かい、時間を一時間間違え、早く来てしまった上に迷った。泣きっ面に蜂である。
テレビ局というものはゲリラなどに占領されにくくするため、わざと導線を複雑にしてあるらしい。目当ての部屋はどこだとうろつき回り、とある人影のない階段のそばにある扉のドアノブに手をかけたところで、遠くから駆けてくる足音がした気がして。
ふと閃いた。
昔から勘が良かった。こうしろ、と直感に従うと大概うまく事は運んだ。今回もそのような気がして、扉を開いて、目の前にいた誰かの腕を掴んで。そのまま二人で扉の影に隠れる。
「少佐ァ! 撮影は押してるんです、逃げ隠れしても無駄ですぞ!」
太い胴間声。数人の男がばたばたと駆けていく足音。
人の気配がしなくなってから、止めていた息を吐いて掴んだ腕をぱっと離す。
「あの」
しまった相手が女性だったりしたら私は完全な不審者だ。訴えられたら負ける。
冷や汗を流しながら隣を見れば、案外近い位置に弧を描く青い目があった。
「助かった、礼を言おう。……私が来るのがわかっていたのか?」
今時では珍しい、古風な話し方だった。
「いえ、勘、といいますか……」
癖のある明るい色の髪、名のある俳優でもこれほどまでの造りはそうは居るまいというほど整った顔立ち。背はこちらより少し低いようだ。成長途中の若木、もしくは群れを作らない大型の猫科肉食獣を思わせる、しなやかな青年。
「勘か」
弾む声音が、面白い、と言外に語っている。視線が私の下げている外部来局者用のパスへと落ちる。
「それでは私も勘で返そうか。あなたは迷子かな」
「……おわかりですか」
「助けてもらった礼だ、案内しよう。どこに行きたい?」
面接の行われる部屋を伝えると、青年はジャケットのポケットから手帳を取り出し、さらさらと図面を描き始めた。
この複雑な局の構造をそらで覚えてでもいるのだろうか。何者だろう、この青年は。
「この通りに行けば五分で着く。急いでいるのだろう? ……幸運を君に」
破り取られた手帳のページを開いたままの右手へ押し付けられる。
来たときと同じくらい唐突に。ひらひらと片手を閃かせ、青年は出てきた扉の向こうへ去っていった。
そのあと受けた面接はなぜかトントン拍子に進んで契約社員としての採用が決まり。
私はお天気お兄さんとして、平日夕方の番組にある天気予報コーナーを担当することになった。
それが彼と話した最初で、おそらく最後。
次に彼を見掛けたのは5月半ば。慣れない仕事に四苦八苦しつつ、なんとか当日の原稿のたたき台を作成し、生放送が始まるまでの空き時間で珈琲でも飲もうかと局内にある喫茶室に向かおうとして。
また迷った。私は勘の良いだけの男だと自称することをもう止めようかとも思った。
そしてうっかり開けた扉が普段使われていない中庭の見渡せる外階段のもので。
そこで歌う黄色いワンピースの少女と、彼女をベンチに座って眺めるあの日の彼を見つけたのだ。
彼だとすぐに分かった。驚くほどに優しい目をして、サングラス越しに少女を見つめていた。
少しだけ彼の姿を眺めて少女の歌を聞き、階段を降りて下の階へ。外階段は仕事場から喫茶室への近道なのだと気がついた。
その日の仕事はとてもうまくいった。予報は的中し、親しみを出そうとして考案してみたケロちゃん、というマスコットキャラクターのパペットも好評で。暫くしてから給与を上げると通達が届いた。
それから、よく外階段を通るようになった。少女が決まった時間にそこで歌うことを知った。少女と一緒にいる人間はその時々でさまざまだが、金髪の彼の姿を見掛けた日は決まってよいことがあった。
だから、今日もきっと良いことがあるに違いないと、いつになく浮かれた気持ちで。手すりに体重をかけて少しだけ身を乗り出して。
目が合った。
少女へ向いているはずの顔がまっすぐ此方を見上げている。サングラス越しに、あのきらきらした青い瞳が私を射抜いている。
盗み聞きのようなことをしていた後ろ暗さはあった。
だから軽く会釈をして、不審に思われぬようゆっくり階段を降りて。喫茶室に向かおうと、して。
「待ってくれ」
よく通る声。
あの日は私が腕を掴んだ、今度は逆だ。
白いジャケットに包まれた肩が上下している。はあはあと息をつきながら、青年は私の顔をじっと見つめ、それから視線をゆっくりと足元まで下げてまた上げて。うん、と頷いた。
「ああ、間違いない。君だ」
何がでしょうか。
「大佐」
踊るような足取りで、黄色いワンピースの少女がやってくる。青年は愉快そうに片眉を上げて、私を視線で示す。
「彼だと思わないかね」
少女は深い緑の目をしているのだと、そのときはじめて気がついた。
何処をみているのか分かりにくい不思議な瞳がおそらく私をじっくり見分し、そしてふふ、と微笑む。
「大佐の目はお確かですわ。ええ、この方。ぴったり」
「ララァが言うならば間違いはないな。よし、君、時間はあるか」
夕方の番組出演までは、準備の時間を考えて猶予はあと一時間といったところか、と思っていたら口が勝手にそのことを告げていた。
「ならば来てくれたまえ、すぐ済む」
大佐と呼ばれた青年は私の手を掴んだまま引いて、駆け出す。ララァはゆっくり来てくれ、と背後の少女に言い置いて。
こんな速さで駆けたのは、体育の授業があった高校生の頃以来か。人の多い局のはずなのに、青年が人気の少ない道を選んでいるのかそれとも偶然なのか、誰ともすれ違いはしなかった。
第七スタジオ。
ここはドラマの撮影などに使われる比較的大きなスタジオではなかったか、と乏しい局内の知識を思い浮かべるか浮かべないかのうちに、青年が片手でその扉を開け放つ。
「なんだ、ずいぶん早かったじゃないか、ふだんギリギリまで戻らないのに」
「シャアが早く戻るなんて、雨でも降るんでしょうか」
金髪の青年と同じ年頃であろう黒髪の青年と、栗色の髪をした少年がそれまでしていた談笑を止め、揃って顔を見合わせる。
全力疾走のせいで息が切れ膝は笑っている私の手をそれでも離さず、涼しい顔をした金髪の青年は我関せずで一声、監督! と叫んだ。
「次の話に出てくるニュータイプのキャラクターに、私は彼を推薦する」
キャラクター? 推薦?
なんのことだかさっぱりわからない。息はまだ整わないし、心臓は耳元にあるのかと思うほどにどくどく鳴っている。
青年がくるりと振り向き、私の腕をぱっと離す。そしてまだ名乗っていなかったな、と思い出したように言った。
「シャアだ。シャア・アズナブル。貴公の名前を教えてくれ」
貴公。いつの時代だ、と思いつつも、青年の纏う雰囲気にはそれがとても似合っているように思えた。
「シャリア・ブルと申します……」
荒い息の中でなんとか返すと、青年はまるでそれが既に決定事項であるかのように、或いは神のように。右手を差し出して傲慢に告げる。
「宜しく頼む、シャリア・ブル大尉」
その手を何の疑問も挟まずに掴んでしまったのは。きっとこれも、私のいつもの勘、というやつであったのだろうか。