Roeslein rot,Roeslein rot,
ごそ、と。衣擦れの音が聞こえた。
反射的に目を開く。のろのろと音の方向へ視線を向ければ、昨夜号泣しながら家に押しかけてきてそのまま泊まっていった友人が、客用の布団から抜け出すところだった。
「なあに、どうしたの」
ぼんやりした口調であまり目が覚めていないままに尋ね、そうして私は口を開いたことを若干後悔した。
爛々と光る目。猫でもないのに。人間の網膜の後ろにはタペタムがないから光らないはずであるのに。
「推しが出る番組、観るから、いっしょに見てって、お願いしたよね?」
こわい。本気でこわい。
「リアタイじゃなくても……あの番組朝の四時だよ……私はいつも録画だよ……」
「五年ぶりに戻ってきた推しだよ、リアタイしなくてどうするの! 初回は完全に不意打ちだったから見逃したけど!」
そう。彼女が金曜の夜にかなり酒の入った状態で酔っ払いながらこの狭いながらも楽しい我が家へ突撃してきたのは、いわゆる「推し」の出る番組を一緒に見てくれと私に頼むためだ。
「あの赤い人、そんな凄いんだ……」
「凄いんだよ!! というかあんたの推し、失踪するまでシャアとすっごく仲良かったんだから知ってるでしょ!」
「推ししか目に入って無くて」
あり得ない……シャアの高貴さと格好良さと美しさをスルーできるなんてあり得ない……と友人はブツブツ言うが、私にしてみればなんかすごい赤い人である。千葉県のマスコットの犬みたいな感じの。
第一印象は実は違うのだが、それをこの友人に言うとたぶんとんでもないことになるから黙っておこう。
「でももうあんたしかいないのよ、本気の園芸なんて朝四時から始まる園芸番組欠かさず見てたやつは……」
「だって推しが出るし」
私の推しはかつて天気予報のお兄さんをしていた。
一回だけドラマに出演したこともあったのだけれど、どうも実のところ彼は局の職員で、この五年で出世してしまったらしくとんと番組に出なくなった。唯一ナビゲーターとして出演を続けているのが、土曜朝四時から始まる「本気の園芸」という園芸番組である。
その地味ながらも硬派な番組に、先週激震が走った。というかトップニュースにもなったしたぶん社会現象になった。
園芸番組のせいで、月曜朝のニュースにて、街中で号泣する老若男女が続出と報じられるなどということを、誰が想像しただろうか。
シャア・アズナブル。
頂点に立つために生まれてきた男、赤い彗星と称えられたトップアイドル。
歌を出せばアルボードの一位をいつまでも独占し続け、舞台へ出ればチケットは売り出した途端に完売。出演した連続ドラマは未だに伝説。と先日泥酔した友人が熱く語っていたアイドルは、五年前彗星が地球圏から去るように、突然芸能界からいなくなった。
それが、先週土曜日。わたしの推し唯一の冠番組に、また現れたのだ。なんでかしらないけれども真っ赤なポルシェより赤い服装で、クワトロさん、という以前と違う芸名で。
出てきたときはへえ、そういえば推しは彼と仲が良さそうだったなぁと思ったくらいだったのだけれども。
月曜日に出社してみたらとんでもないことになっていた。上司も後輩も出入りの文房具業者のおじさんまでもシャアの話をしていた。こんなに社会に影響を与える人だったのかと驚いた。
そうして。1週間耳にタコができるほどシャアの名前を聞いたあと、トドメに中学生時代からの友人、なおかつ小田原から上京して同じく東京に住んでいる彼女が、私がシャリア・ブルを推していたと思い出して、金曜の夜に押しかけてきたわけである。泥酔状態で。
「ほんとに、出るかな、推し」
「番組表の予告に名前あるから出るでしょ」
23歳女の一人暮らしだ、そんなに広いところへ住めるはずもなく当然1K。推しを見るんだから完璧にしなくちゃ! と、気持ちはわかる理由で、栗色の髪をきれいに巻いてバッチリメイクまでして、完璧に身支度を整えた友人は相変わらず猫のように目を爛々と光らせ、小さめのテレビ画面を食い入るように見つめている。
「あと5秒、4秒、3秒、2秒……」
カウントダウンまでするようなことか? と思いながら、間の抜けたテーマソングを待つ。
ちなみに友人の右手はわたしの左手をガッチリ握っている。
「おはようございます、本気の園芸、ナビゲーターのシャリア・ブルです」
耳心地の良い柔らかな声。
今日も推しは美しい。うん。
蓄えた顎髭を牛の角みたいなキュートな形に整えているところが特にいい。変な形とか言ったやつには右手親指の腹側を夏中蚊に刺され続ける呪いをかけてやる。
「助手に昇格したクワトロだ」
シャア・アズナブル、もとい、クワトロさんが現れた。
そういう芸風なのか、今日も上から下まで真っ赤っ赤な衣装を着ているが、サングラスで隠していても分かる顔の良さと選ばれし体型で洋服をねじ伏せてオシャレな人として画面に君臨している。下手な人間が着たら寄席の芸人なのに。世の中とは理不尽である。
「昇格なので?」
「君が隣にいてくれるなら肩書はなんとでも」
「ふふ、光栄です」
あれ? なんか、これは。
和やかに話している。話しているのはいいけれど。この距離感は?
首を傾げたかったが、隣で友人が奇声を堪えながら下半身は動かさず上半身だけで悶えるという器用なことをやっていたので私は動かずにおいた。
隣に自分より狂っている人間がいると逆に落ち着くあれだ。
「今日のテーマは、初夏ということで、バラですね」
「バラか、実家で母が育てていたな」
「ではご経験者で?」
「育てていたのは母で手伝っていたのは妹だ、私は見ていただけだな」
「それでは詳しくご説明しましょう」
「宜しく頼む」
推しが画面外からひょいと鉢植えを取り出した。植えてあるのはバラだ。東京砂漠の片隅、鉢も置けない狭いベランダしか無いアパートに住む私とて、この番組を欠かさず録画で観ているのだ、それくらいは覚えた。
「今回育てる品種は、フランシスデュブリュイ、といいます」
「フランス語ということは、フランスのバラか」
「御名答。1894年にフランスで作出されました。古い品種です。四季咲きのティーローズで、花の形はロマンチック系のカップ咲きになります」
「花の形に名前があるのか?」
「よくある、これがバラ、というような形は剣弁高芯咲きといいます。かつては愛好家の間で剣弁高芯咲きでなければバラにあらずと言われるような時代もあったそうですが、今は色んな形の花がありまして、それぞれに人気があります」
「ほう」
くるりと鉢を回す推しの手元をクワトロさんが覗き込むとき、サングラスの隙間から綺麗な青い目がちらりと見えた。
友人はハンカチを口に当てて絶叫を堪えている。壁の薄い賃貸で四時に悲鳴を上げたら通報されかねないので、そのへんはよくよく言い含めてある。
バラの植え付けかた、水やりの仕方などを推しが淀み無く説明していく。クワトロさんは実家で育てていたというだけあって、ときどき質問を差し挟む程度ですんなり呑み込んでいるようだった。
それにしても今日の園芸の説明はあまりに一般的である。本気の園芸、というだけあって、変な分野にばかり突っ込んでいく番組であったのに。
クワトロさんに合わせているんだろうか?
「蕾が無いな」
「実はあるんですよ。……でも、摘まなければならないのです」
「何故そうするのかな?」
かな! かなっていった! かわいい! と隣から蚊のなくような声が聞こえた。気持ちはわかる。成人男性のかな、可愛い。
「これは新苗、という区分の苗でして。接ぎ木をして、伸ばし始めたばかり。1年目の赤ちゃんですね。四季咲きのバラは春と秋に咲くのですが、一般的には株に体力をつけさせるため、春の花はお預けで、蕾を摘みます。花を咲かせずに葉を繁らせて光合成をさせ、株を大きくする、という手段を取るのです。蕾が大きくなるとその分体力が取られますので、新芽の先端にある蕾を探します」
こんなふうに、と新芽の先を推しが摘んで、ぽきり、と小さく新芽を折った。
「慣れるとちょっと触れば蕾がわかるようになりますよ」
「君は博識だな」
「この番組もそこそこ長くやっておりますので……つっ」
穏やかな語り口だが、私にはわかる。
褒められて動揺している、推しが。
熱い鍋に触ったかのようにぱっと引いた推しの指先を、見せろ、とクワトロさんが引き寄せた。
「……このように棘がありますので、お気をつけください」
「血はでていないが……シャリア、もう少し安全な植物から始めようという気はなかったのか?」
やっぱり近いな?
この二人、ずっと距離が近い。
最初から肩はほぼ触れ合っていたし、今に至ってはクワトロさんが推しの掌を、至宝に触れるかのようにそっと掬ってためつすがめつ至近距離で眺めている。
そして何より、人と距離を取りがちで目を合わせることが得意ではなかったはずの推しに、距離の近さを嫌がっている様子がまるでない。
「…………実は、ですね」
「うん」
「このバラは、ダマスク香、という、バラの香水、これぞバラ、という香りに近い香りがするのです。それが、あなたの香りに少し似ていて、わたしの好きな香りなもので……」
成人男性がもじもじしている。可愛い。
それにしても、男性でバラの香水って難しそうなのに、それをさらっと付けておそらく似合ってしまうってなんなのだろうか。金輪際現れない赤い彗星か。
「ああ、よく使っているものか。あれはウードとローズがメインだからな」
「少しワインのような香りもいたしますよね」
「ふふ」
推しがすん、とクワトロさんの香りを嗅ぐ仕草をした瞬間、クワトロさんが柔らかく微笑む。
ぎゃあ、と声を上げなかった私を褒めて欲しい。
「このバラはどんな色の花が咲くんだ?」
「それは咲いてからのお楽しみですね」
「では秋か」
「はい」
近い距離のまま、内緒話でもするような調子で二人が会話する。
そのまま話題は病気や虫の防ぎ方に移り、ではまた来週お会いしましょう、と推しがいつもの調子で番組を締めた。
視聴者が育てた植物の写真の募集コーナーが始まったところで、ようやく混乱していた頭が落ち着いてくる。
五年前。たまたま乗り合わせた電車で、推しと通路を挟んで隣の席になったことがあった。
そのとき一瞬した良い香りがあった。ワインとバラとチョコレートのような。甘すぎず、嫌みでない香り。
あれはクワトロさんの香りだったのか。
「ねえ、フランシスデュブリュイって、何色の花が咲くんだろうね」
返事がない。
隣を見ると、友人は目を大きく開き、わたしの手を強く強く握りしめたまま気絶していた。
ぎゃあ。
悲鳴を上げてしまったが、上の階からも何か物を落とすような音が聞こえたし、窓の外からも何故か悲鳴が聞こえたから、あまり近所迷惑にはならなかったと信じていたい。