ハローハロー、こんにちは 目の前を人が吹き飛んで行った。
比喩でなく、私の父親より背丈があるが祖父よりはやや小さい、くらい、つまりは大の男が宙を舞い、路地から通りに飛ばされて、地面へどさりと落ちて動かなくなった。
「ケガをしているわ、痛くはない?」
あたたかい体温。衣擦れの音。虹彩と瞳孔の区別が分かりにくい深い緑の瞳が至近距離で瞬く。抱き締められて庇われているのだと漸く理解して、思い切り首を横に振った。
きれいなひとだったのだ。2つに結わえた黒髪に、チョコレート色の肌。母よりいくらか年下に見える、細身で華奢な大人の女性。
「無事か」
「私は大丈夫ですけれど、この子はケガを……。あなたは」
「喧嘩の仕方も知らんごろつきだ、まあ暫くは立てんだろうよ」
女性の後ろから、白いスーツの男性が大股に歩いてくる。路地に差す僅かな陽の光、本物の太陽光を反射して輝く金髪がとても綺麗だった。
顔の半分を覆う大きな黒い遮光眼鏡をかけているから読み取りにくいが、年齢は私の父とそう変わらないくらいではないだろうか。
母は黒髪、父は茶髪。私の髪は母より明るい黒髪だ。生まれた国の元首であるアルテイシア陛下のような金髪に憧れて、どうして私の髪は金色じゃないのかと、小さい頃祖父に向けて駄々をこねてたいそう困らせたことを思い出す。
「む。ララァ、走れるか? 道の方に飛ばしたのはまずかったかな、どうやら騒ぎになりそうだ」
「私は平気です。この子は」
「私が抱えていこう」
落ち着いた声とともにふわりと身体が浮く。肩に担ぎ上げられたのだ。
わ、と声を上げそうになり、黙っていないと舌を噛む、と忠告された。
がくがくと身体が揺れる。迷路のような路地の光景が、自分で走るよりもずっと速い速度で過ぎていく。女性は、と首を後ろに向けると、あの細身のどこにそんな膂力があるのか不思議なくらいの速さを軽やかな動きで維持して、難なく男と私についてきていた。
「……ここまでくれば良いか」
やがて知らない通りに出て、男が立ち止まる。私をゆっくりと地面に下ろし、振り向いてさすがに息が上がっているらしい女性を気遣うかのような視線を遮光眼鏡越しに投げかけた。
「……ふう、こういうことも久しぶり。私、どきどきしてしまったわ」
「ララァがいいならいいが。……さて」
呆然と立ち尽くす私に、男が身を屈めて目を合わせる。
「遅くなって済まなかったが、怪我の具合は? あの男には何も盗られていないな?」
「え、あ、あの、大丈夫、です……ものは、盗られてません」
怪我を見せてみろ、と張られた頬をじっくりと検分されて、骨と歯は問題ないがこれは腫れるな、と呟いた男性がララァ、と女性に向けて声を掛ける。
「はい」
ララァと言う名前であるらしい女性が腰のポーチからメントールの匂いのする薄くて白いものを取り出した。流れるような動作でそれを受け取った男性は、私の頬を綺麗なハンカチで拭ってから、それをぺたりと貼り付ける。湿布のようだ。
父が昔話していた、殴られて怪我をしていた時に祖父から絆創膏をもらったという話を思い出した。
そして親切にしてもらったらすぐお礼を言いなさいということも。
「あ。あの! ありがとうございます」
「怖かったでしょう」
気遣うようにララァが背を撫でてくれる。
どうだろう。怖かった、のだろうか?
この国には、というより、地球には。祖父に連れてきてもらった。
地球から一番離れたサイド3で生まれた私には見るもの聞くことすべて面白くて、知らない地球の国の土地勘も何も無い街で、うっかり祖父と逸れてしまって。どうしようと途方に暮れていたさっきまでは確かに心細くて怖かったかもしれない。
だんだん街並みが煤けてごちゃごちゃしてきたな、と思ったら、下卑た笑みを浮かべた柄の悪そうな大人の男に腕を捕まれて路地に引き込まれそうになって、抵抗したら殴られて。
驚いてうごけなくなって、引き摺られかけたところで目の前の女性が割って入ってくれて。そして金髪の男性の蹴りで男が吹き飛んだあたりは、驚きが勝ってしまってそこまで怖くなかった、ような。
「ずいぶん肝が据わっている」
何も言っていないのに、面白い、と男性が笑う。ときどき祖父もこういうことがある。私が言う前から考えを当ててくるようなことが。
「うん? ……君は」
男性の眉が顰められた。
「どうかして?」
「どうもしないさ。格好からすると旅行者だろう、終戦してからずいぶん経つとはいってもこのあたりはまだ治安が安定しない、物見遊山ならあのような繁華街に入るのは勧めないぞ」
「あの、私がぼうっとしていて、迷ってしまって」
「それは大変だわ。何処からいらしたの?」
「わからなくって、わたし、地球、はじめてで」
「まあ、宇宙からのお客様」
ララァが何処か懐かしむような、憧れた何かの断片を眺めるような目をした。
「お祖父様といらしたのね。きっとあなたのことを探していらっしゃるわね」
え、と。息を止める。
この人も、わたしの考えたことが分かる?
「ララァ。あなた、わたしのおじいさんと、おなじなの?」
さっきまでは別のことに驚きすぎていて気が付かなかったけれど。ララァからは、とても強い力を感じる。これほどまでの力は祖父以外では見たことがなかった。もしかしたら、祖父よりも凄い、のかもしれない。
「あら、あなたもそうでしょう?」
「わたしは……そんなに出来がよくない、から」
父母はともに軍人で、ニュータイプと呼ばれるひとたちだ。父はモビルスーツのパイロット、母は情報将校。私もニュータイプとして優秀だろうと期待され、けれどもそこまでの力は発揮できた試しがなくて、いつもがっかりされてしまう。
せいぜい、人より少し勘が良いくらい。そんなに便利なものじゃない。祖父みたいになんでも見通せるし心も読めるなら、こんなところで迷子になんかなってない。
「父上母上とその祖父とやらは、便利になれとも出来がよくなれとも言ってこないのだろう?」
「それは、そうだけど」
「なら良いんじゃあないか。無責任な期待に応えようとすると身を滅ぼすこともある」
「なんだか、滅ぼしたことがあるような言い方」
「そんな時もあったのかもしれないな。自分どころか世界ごと」
煙に巻くような言い方をして男性は笑う。サングラスの隙間から見えた青い瞳は、地球の空の色をしていた。
「あなた」
「ああ」
ララァが男性に声を掛けて、男性は屈めていた腰を伸ばす。
すんなりとした腕が、通りの先の方をすっと伸ばした指で示す。
「いいこと? ここの道を真っ直ぐ行って、最初の十字路で右に曲がってちょうだい。そこで会えるわ」
「会える、って」
「君の祖父が呼んでいる。行きなさい」
「角を曲がるまでは見ているから、大丈夫よ」
もしかして、わたしを騙そうとしてる? とも考えたけれど。この二人は悪い人には見えない。
ほんとうに、あの先に祖父がいるのかもしれない。
「あの、本当にありがとうございました」
一度礼をしてから、二人に背を向けて言われた方向に歩き出す。最初の十字路は案外離れていない場所にあった。
「シャリア・ブルに宜しく」
深い声がした。
道を曲がりながら振り向くが、長身の男性と小柄な女性の姿は、影も形もなくなっていた。
「ああ! 探しましたよ」
石畳を叩く靴音。コートを閃かせながら走ってきたのは、見慣れた長身。
「おじいさん」
祖父、というには少し若いし、血もつながっていないのだけれど。身寄りのない父の後見人のような立場から、おじいさん、と呼んでいるひと。わたしのもうひとりの家族が、そこにいた。
「頬はどうしました、痛みますか」
「ちょっと、ぶつかって……。そんなに痛くはないよ」
殴られたとは言いたくない。祖父にはお見通しかもしれないけれど。
「……手当は誰に?」
「親切な人が助けてくれたの。そうだ。おじいさん」
シャリア・ブルって誰?
そう聞くと、祖父は水色がかった緑の瞳を大きく見開いた。
いつも沈着冷静な祖父にしては、とても珍しい表情だ。
「……昔の、友人です。そうですか、この国にいたのですね」
たいさ、と。薄い唇が音を出さずに息を吐いて。静かにそう動いた。