彗星とグミキャンディ 年季が入った天井に並ぶLEDが眩しい。
公共放送、番組制作部第二センター付近の廊下。慌しく人が行きかうことが多い場所であるが、何故か奇妙なほど人影が無い。
こうしてみると異世界に迷い込んだみたいだな、と月並みな感想を抱きながら進み、曲がり角でふと立ち止まる。
なんだろう。この先に進むと面倒なことに巻き込まれそうな予感がする。
けれどこの先に進まなければ「急ぎではないが番組制作部の課長に渡してくれ」と預かった紙袋を半日以上はもてあます羽目になる。それは避けたい。
仕方がないか、と足を進め、そして僕はこの選択を若干後悔した。
少し先に見えたのはピンと伸びた背中。きれいに結い上げた艶のある黒髪、上品なパンツスーツ。アナウンス部の女性だ。
彼女がこちらに背を向けて懸命に話しかけているのは、僕の目下の目的、番組制作部課長シャリア・ブル。課長職にあるのにもかかわらず、役者の経験と気象予報士資格を持ち、死ぬほど忙しいはずの通常業務とは別に何故か冠番組をひとつだけ持っていて、時間に追われ自分の生活がおろそかになりがちな制作部において「営業か広報じゃないか」と疑われるほど、派手ではないが洒脱な装いをしている。
詳しい経歴を出したら十人中五人はなんだこれはと首をかしげ、残りの四人はふざけているのか現実にこんなやつがいるかと怒り出されるような人だ。
なお残りの一人は大笑いする枠である。
「課長、お好きな食べ物は?」
僕が戻ろうか進もうか躊躇している間に、女性が一歩踏み込んだ。
さすがアナウンサー、発音が明瞭で美しい。
対する課長は口元だけで微笑む。
一見柔和で美しい笑みにみえるが目は一切笑っていない、という高度な技術である。初めて気が付いた時は怖くて思わず同僚である歌のお姉さんに助けを求めてしまい、別に気分を害してるわけじゃなくてああいう人なんだよ、エグザベ君は心配性だね、と笑われた。
「グミですね」
「グミですか」
「はい」
菓子である。
砂糖と果汁とゼラチンが主原料の正真正銘の駄菓子である。
ずいぶんと可愛らしいものが好きなんだなと思ったそのとき、課長の緑灰色の瞳が女性の背を通り越してこちらをとらえる。
「エグザベ君」
こんにちは、と愛想のよい口調が僕の名前を呼んだ。
「私に何か御用ですか?」
「あっ、はい。課長にお渡しするものがありまして」
紙袋を持ち上げて見せれば、課長は「では」とアナウンス部の女性に会釈して僕のほうへと歩いてきた。
差し出された掌に紙袋を差し出す。向けられる女性の視線が痛いが別に僕は何か悪いことはしていない、はずだ。
「ありがとう。エグザベ君、ところで君、甘いものは好きですか。これから少し時間あります?」
「人並みには、ですが。ミーティングが始まるまでなら少しは」
「それはよかった。では、ついてきてください」
長い脚が大股に歩む。慌ててついていくと、制作部の事務室に辿り着いた。
勝手知ったる城の為、遠慮なく入る課長の後ろから、おはようございます、と挨拶をしつつ入室。何やら机の前で話していたコワルさんとセファさんがおはようございます、を返してくれた。
課長の先導で着いたのは本人の仕事机だった。年季が入ったスチール製の袖机の上には、驚くほどに仕事上必要な資料以外のモノが無い。片付いている、というよりは無機質な印象があった。
白手袋を嵌めた手が、からり、と一番下の抽斗を開く。
「うわ」
思わず驚愕の声を上げてしまった僕は慌てて己の口を塞ぐ。しかし当の番組制作部課長は微塵も気にしていない様子で、ゆったりとした口調でもって「多いですかね」と言った。
「いや多いですって、駄菓子屋を開けます」
引き出しの中はカラフルなパッケージで溢れていた。サプリメント、知育菓子、輸入菓子、御当地もの。バラエティ豊かだがすべてグミキャンディ。
「あいにくグミしかありませんが、荷物を届けていただいたお礼です。どうぞ好きなだけ持って行ってください」
何なら勝手に開けて持って行ってもいい、と部内に言っているのに皆遠慮するんですよ、と本人は宣う。
けれど上司の机を開けて勝手に菓子を持って行こうと言う図々しい剛の者はこの時代においては希少価値だと思う。
「多すぎて選べませんか? ではこれとこれを」
押し付けられたパッケージは薄い長方形。「もげもげくだもの」とポップな文字が踊っていた。片方のオレンジ味はわかるとしても、もう一つのデーツ味はなんなのか。ナツメヤシなどというマイナーな果物をどうして知育菓子にしようと思ったんだ。その謎はおそらく永久に解けない。
「食べないのならなんでこんなにグミを」
「全く食べないということはありません、消費が賞味期限に追いつかないだけで。多いのは、皆さんにいただくからです」
まあいくら好物でもこれだけ多ければ消費が間に合いはすまい、と納得して、ありがとうございます、とグミを受け取る。
「課長、グミが好きなんですね」
「ええ、まあ」
あまり話を広げる気のない曖昧な返答である。
「エグザベ君は好きな食べ物、あります?」
「好きなものですか、改めて聞かれると迷いますね」
机の下段をそれで埋めるほど偏執的に好んでいる、というくらい好むものはない、と思う。
「なんだ、シャリアはグミを好んでいるのか」
唐突に、快活で深い調子の声が奥の応接セットにあるソファから響いた。
のっそり起き上がったのは金色の頭。
彫刻のような造作の腕がひょい、とソファの傍にあるローテーブルからサングラスを拾い上げて装着する。
「クワトロさん」
いらしていたのですか、と課長が振り向いて、誰も信じていない偽名を呼んだ。
まあ世間でもっとも知られたシャア・アズナブルとて、芸名であって本名ではないのだろうが。
五年前に人気の絶頂で突然の失踪。莫大な違約金は個人資産で全て賄ったとのまことしやかな噂がある。実際に違約金を巡ってのトラブルは確認されなかったそうなので本当なのだろうが、本当だったらだったでどれだけの金持ちなんだと背筋が寒くなる。
そんなこんなで夜空を横切って消えていく彗星のように業界から消えたはずが、先日なぜか公共放送の園芸番組というニッチ極まる枠で生存を誇示し、世間を混乱の渦に叩き込んだ台風の目だ。
「エグザベ君の好きな食べ物には私も興味があるな」
イケメンの突然の笑顔は心臓に悪い! と同僚から理不尽に怒られたときのことを思い出した。
確かに心臓に悪い。大ぶりのサングラスで顔の半分が隠れてなお満面の笑顔とわかる表情筋の使い方がすごいを通り越して怖い。
「何せ子供たちに大人気の体操のお兄さんだ、ぜひいちど話してみたいと思っていた。よければ私と今度食事でも」
言葉の意味をはき違えているのでなければ今僕は天下のシャア・アズナブルに堂々とナンパをされているのではなかろうか。
ソファを跨ぎ越えて距離を詰めてくるやたらと楽しそうな赤い彗星。速い、とうてい逃げられる気がしない。
助けてください、と口に出さずに傍らの課長に助けを求めると、課長が今度は袖机の一番上の引き出しを開きながらシャアへと向き直る。
「クワトロさん、甘いものはお好きですか」
「シャリア」
「僭越ながら、ここに近くのホテルのスイーツブッフェのチケットがありまして。お時間があるようでしたらぜひ私と」
「ほう?」
「春のテーマは「彗星とストロベリー」だそうですよ」
距離の詰め方がエグい。
シャアに負けず劣らずの速度で、課長がいつのまにか携帯端末を取り出しスイーツブッフェのページを開いている。
顔を寄せ合って見始めた二人組に、ではこれで失礼します、と言い残し、僕は素早く部屋を後にした。
三十六計逃げるにしかずである。
***
「ってことがあったんだけど」
エグザベ君、珍しいもの持ってるね。
ミーティングの終わり。僕の上着のポケットからはみ出すグミのパッケージにいち早く気付いた歌のお姉さん、コモリ・ハーコートが声を掛けてきた。
こういうわけでと経緯を説明したところ、かわいらしい顔がうわあ、とセンター街付近で調子っぱずれの曲を歌って陽気に踊る酔っぱらいを見るような表情を作る。歌のお姉さんを慕う子供たちには見せないほうがいい部類の顔である。
「エグザベくん、あのね。好きな食べ物を聞いて、グミ、って答えるのは、あなたから食事に誘われたくありません、って意味」
「えっ? ああ、そういう」
確かにグミではその先に何の展開もない。好きなんですか、そうですか、でお仕舞いである。体のいい断り文句だ。
「じゃあ課長は」
「お断りしてるんだろうね、たいていの人からのお誘い。通じない人から貰うんじゃないかな、グミ」
そういえば部がやる飲み会は来るし接待もやるけど、プライベートで誘おうとすると全敗だって聞いたなあ、と軽やかな声がつぶやく。
「じゃあ、クワトロさんを誘ってたのはもしかして僕に気を使って」
顔から血の気が引く。シャリア課長は物腰が柔らかそうに見えるだけで無茶ぶりの鬼だ、大きな借りを作ったとなると今後何を振られるか分からない。
「大丈夫、それは課長の実益を兼ねた趣味」
「趣味……?」
「「大佐」と遊びに行くの、大好きだから、あの人」
グミの袋を開けながら、きっとあとでエグザベ君にお礼を言いに来るよ、と彼女が言った通り、後日僕の携帯端末にクワトロさんと課長が仲良くイチゴのデザートをつついている写真が送られてくるということを、この時の僕はとうてい知る由もなかった。