ヤプーパロ続き②「可愛がってたんだけどなァ……。逃げられちまったら不思議と熱も直ぐに冷めちまってよォ」
バツの悪そうに目の前の男は頬を掻いた。
恩人と同じ顔をしたこの男は驚くべき事に遥か未来からこの時代にやって来たらしい。彼と出会った時は酷く取り乱したが、暫く接するうちに恩人とは全く別の生き物だと思い知らされた。今ではもう彼の一挙一動に動揺させられる事もない。
偶々ローたちと出会って興奮気味に語る彼が言うには、男の名はロシナンテ。この時代には時間旅行で訪れていて、この大航海時代において遠い未来でも名を残しているらしいローのファンだと言う。
今も如何にローの事に詳しいか嬉しそうに語ってくるが、既にローにとってはそんな事どうでも良かった。……あるエピソードを除けば。
曰く、彼は以前ある〝ペット〟を飼っていたらしい。……昔、旅した地で偶然ローそっくりの野生の人間を連れ帰ったのだと。
人間をペットと称する事に虫唾が走ったが、彼が未来の天竜人だと知ってそれも合点がいった。天竜人だと知った時は思わず身構えたが、過去の人物に何かするのは御法度だと言う。以前それをして兄にいろいろと後始末をさせる羽目になり、次は無いと言い聞かせられているのだと言うので彼の話を聞くと決めたのだ。
……彼を見て、血相を変えて彼の元に這おうとしたとあるクルーと、彼の語るエピソードが賢いローの頭の中でしっかりと繋がってしまったので。
「可愛いかったんだけどなァ。必死に床を這って、こう……口をパクパクして。声なんか出ないから何言ってるかなんか分かんねェんだけどな」
ハハハと笑う男を尻目に側に控えるクルーたちに視線を向ける。例のクルーはジャンバールにしっかりと抱き抱えられていて、……いや、拘束されている。ローの指示だ。巨体のジャンバールに抱き締められると下半身が不自由で筋力も衰えている〝彼女〟では抵抗らしい抵抗も出来ない。ただ男に向かって必死に手を伸ばし、力無くあがいている。何かを叫ぼうとしているようだが、声も出ないその口は塞ぐ必要も無い。音にもならない彼女の叫びは誰にも届かず消えていく。
……それでも、彼女が騒ぐ様子はこの天竜人の目についたらしい。
「……さっきから騒がしいな。あの女、お前のペットか?駄目だぞ、躾はちゃんとしないと」
お前がそれを言うのか……ッ
ローはふつふつと湧き上がる怒りを抑えられなかった。
彼女が誰かも分からなければ、天竜人の感想なんてそんなものだろう。彼女は置かれていた境遇のせいで未だに服を着る事さえ強いストレスに感じるようで、ハートの海賊団しかいない時はもう何も身に着けさせていない。少しずつ服を着る訓練もしているが、あまり成果は芳しくない。好きで彼の言うペットのような扱いをしているわけではないのだ。
きっとその原因の張本人が誇らしげに人間の飼い方を宣っているが、ローにはもうそれを聞く気にはなれなかった。
「……なァ、もしお前のところから逃げ出した……そのローって人間が帰ってきたらどうする?」
男を遮ってローは口を開く。
ローのその問いに泣きじゃくっていた彼女がまたびくりと肩を震わせたのが見えた。
「あいつが帰ってきたらァ?」
男は視線を彷徨わせて少し悩んだ後、ケラケラと笑いながらあっさりと口を開いた。
「いやー、いらないな。そうだ!ロー‼お前にやるよ!そいつの名前もローって言うんだ。すごい偶然だろ?」
「……そうか」
もう振り返るまでもなかった。ジャンバールやペンギン、シャチ、他のクルーたちが慌てているのが伝わってくる。そちらに視線を向けなくても先の男の言葉を聞いた彼女がどうにかなってしまったんだと簡単に想像がついた。
ローは立ち上がり、機嫌の良さそうな男の前に立つ。……そして、静かに愛刀を抜いた。
「……それじゃあ、おれが貰うよ」
「え、」
そしてロシナンテの視界が暗転する。
次に目を覚ますとロシナンテは、使用人の男と共に首と胴体が分かれた状態で自分の船に転がっていた。
裸のローに自分のマントを被せると彼女を抱き上げて船を出る。未来から来た天竜人が乗ってきた船だ。ローは時間を渡る事の出来るこの船を使って〝ここ〟を訪れていた。
「……ここに見覚えがあるか?」
「……」
ローの問いに女のローは虚ろな表情のまま、のろのろと顔を上げた。
男に捨てられ、過呼吸を起こすほどに嗚咽を上げていた彼女だったが、暫く前からすっかり大人しくなっていた。それでも、落ち着いたわけではない。すっかり生気を無くしてしまったようにぼうっと虚空を眺めていた。それでも、船を出てぼんやりと辺りを見渡すと、やがて震え出してローの肩を掴んだ。まるで辺りの景色を視界に入れるのを拒んでいるようだった。その反応からどうやら彼女の見覚えのある場所らしいと分かり、ローは一先ず目当ての場所に辿り着いた事にほっと息を吐く。
ロシナンテを能力でバラし、それを人質に彼の使用人を脅して時間を超えた〝ここ〟へ船を飛ばさせた。ちゃんと目当ての場所へ来られるか一抹の不安があったが、彼女の反応を見るにちゃんとここはローの指定した場所のようだ。それが確認出来たので、使用人もロシナンテと同じようにバラすと同行させたペンギンとシャチを見張りに船に残し、ローたち二人だけで船の外へと足を進めた。―――ローの故郷のはずの地へ。
ここは山の中腹のようだった。少し開けたところで辺りの様子を見ると、山を降った先には海が広がっている。
とりあえず山を降りようと、生い茂る木々の中へと歩みを進めると、腕の中の彼女の震えが大きくなり、ローの胸に顔を埋めてしまった。
「……戻るか?」
「……ッ」
ローの問いに一度口を開いたかと思うと、直ぐに口を閉じて唇を噛み締める。彼女を船に乗せてから幾度も見た光景だ。彼女は意思表示と言うものが出来ない。最近ではやっと改善してきたかとも思っていたのに、また以前のように戻ってしまった。……前の主人との邂逅が原因だろう事は容易に想像がついた。こうやって無理矢理に彼女の故郷に連れて来た事に彼女は何を思っているのだろうか。ローとて、自分のエゴだという事は痛い程に理解している。それでも、叶う事なら彼女が奴隷として連れ去られる前に生きていた故郷に帰してやりたいと、そう思ったのだ。故郷で、彼女の家族の元で療養したなら彼女の状態も改善するのでは、という打算もある。
「……もう少しだけ頑張ってくれ」
彼女の顔も見ずにぎゅっと抱える力を強めて足を速めた。こんなチャンスは二度とないのだ。たとえ彼女が嫌がったとしても、可能性が低くても、少しでも何か彼女の手掛かりを見つけたかった。
「……ッ、あんた……」
そして、ローはその細い希望の糸を引き当てた。
山道を暫く歩いていると正面から男が一人やって来た。男はこちらに気が付くと呆然と足を止めて、目を丸くしてこちらを凝視していた。……いや、男だけでは無い。ローもまた男を見て目を見開いた。互いがそうなったのも無理はない。だって、男とローはまるで同じ顔をしていたのだから。
不可解な男にローは思わず臨戦態勢をとる。女のローを抱き抱える為、鬼哭は置いてきている。それでも、獲物が無かったとしても、こちらは群雄割拠の海で名を轟かせてきた。そうそう遅れをとるつもりはなかった。
「す、少し待ってくれ」
しかし、ローの警戒を余所に男はローのそんな姿を見ても構える事は無かった。慌ててポケットから何か小さな板のようなものを取り出して何度か指で撫でたかと思うと、それを耳に当てて喋り始める。
「……ラミ、悪いが暫く海で遊んでてくれ。……おれはコテージにいる。……いや、暫く戻らないでくれ。久しぶりの知り合いに会ったから落ち着いて話をしたいんだ」
どうやら板のようなものは通信機で、誰かと会話をしているらしい。あまりにも男が隙だらけなので、ローは力を抜いた。少なくともこの男は戦闘員ではないようだ。顔こそローと同じだが、必要以上に筋肉はついていないし、醸し出す雰囲気がまるで一般市民のそれだ。とても戦えそうにはなかった。
「……待たせた。話がしたい。ついてきてくれないか」
やがて男が板をポケットに戻すとローに話し掛けてくる。男の視線はローと、ローの腕の中の存在に注がれている。その視線に慈しむようなものを感じてローは彼が彼女の関係者だと確信を得た。
「ああ。おれも話がしたい」
先を歩く男についていく。腕の中で女のローが呆然と男を見ていたことに、ローは終ぞ気が付かなかった。
***
男に連れられ海に隣接するコテージに入ると、大きなソファが置かれた一室に通された。ソファに女のローを座らせると、彼女を支えるようにローも隣に腰を下ろす。
そっと女のローの様子を窺う。しかし、彼女は俯いてしまっていて表情は見えない。そんな彼女の肩を抱いてやり、ローは正面の椅子に座った男に目を向けた。
「……で、お前はなんなんだ。おれたちを知っているのか?」
責めるようなローの問いに男は答えあぐねているようだった。ローを見てから隣のローに視線を送り、一呼吸。そしてやっと意を決したように口を開く。
「おれは……、……おれは、アイ。そこの〝ロー〟のクローンだ」
男の言葉に女のローがガバリと頭を上げる。そして、真っ直ぐにアイと名乗った男を見た。そんなローを男はどこまでも凪いだ瞳で見守っている。
「……ぁ、……ぃ?」
「ああ、そうだ。アイだ」
女のローがアイに震える手を伸ばす。アイも立ち上がって彼女に手を伸ばした。女のローが必死に手を伸ばすものなので、ローは彼女を抱き上げてアイへと渡してやった。
「……ッ、……ぃ」
「ああ。おれも会えて嬉しい。よく来てくれたな」
アイがローを抱き締めたまま、優しく頭を撫でる。ローはそんなアイにしがみ付いて涙を流しながら、何かを伝え続けている。彼女が何を語っているのか、ローにはてんで理解できなかったが、どう言うわけかアイには伝わっているようで彼は懸命に開閉される彼女の口の動きに合わせて相槌を打ち続けている。その表情はどこまでも柔らかい。
「……そいつが何を言っているのか分かるのか」
「ああ。おれたち〝アイ〟はそういう風に作られている」
それだけを聞いてもローには何を言われているのかさっぱり分からない。ただ、クローンなどと不穏な言葉が出てきて眉を顰める。直ぐにでも問い詰めたかったが、アイに縋り付くローを見て口を挟むのを必死に堪えた。
「……おれは暫く外す」
「ああ、ありがとう。隣の部屋を使ってくれ。冷蔵庫の中のものは好きに口にしてくれて構わない」
初めて見せる彼女の姿にローは自分の疑問は二の次に、二人だけの時間を作る事を優先する。アイもローの気遣いを素直に受け取り、ローに一言返すと直ぐに女のローに向き直った。口元に穏やかな笑みを浮かべて彼女の〝言葉〟に耳を傾けている。それを確認して、ローは静かに部屋を後にした。
(……アイ、か)
ただ、彼の名前に覚えがありすぎて、ローは一人静かに唇を噛み締めた。
***
「本当はおれもローに与えられるアイの一体でしかないはずだったんだ」
床に座り込んで、身体に巻いていたマントも取り去ったローの頭を膝に乗せてアイは口を開く。ローはアイの方へ顔を向けてしまっているのでその表情は窺い知れない。規則正しく胸が動いている事から眠ってしまっているようだ。アイはそんなローの髪を愛おしそうに撫でながら、ローの疑問に答える。
「ローのおもちゃとして主人が用意したのが、おれたちアイだ。おれたちはローが望むがままに動くようにだけプログラムされている。本当は意思なんて持っていない。ただの人形だ」
それを聞いてローは眉を顰めた。目の前の彼に意思が存在しないなんて信じられなかった。
「でも、おれはまたそんなアイたちとも事情が違っていて」
ローの疑問は想定の範囲だったのだろう。ローが疑問を呈す前にアイは言葉を紡ぐ。
「アイとしての本能を植え付けられたところで、別の役目を割り当てられたんだ。……オリジナルのローの代わりだ」
アイ曰く、天竜人から聞いた通り、過去の人物に何かをするのはタブーで、それをあの天竜人は破った。その行動を無かった事にする為、ロシナンテの兄がローに宛てがわれる前のこのアイに、オリジナルのローの記憶と思考を本来のアイの本能に上書きし、まともな成人男性の身体に作り替えて、オリジナルの代わりとしてここに送り出したらしい。
「それでおれはこの山に一人で放り出された。……その時点で既におれはアイだった事を忘れていて、もう〝ロー〟でしかなかったから、行方不明になったおれを探していた警察に保護されて家族の元へと返された。そして、おれはさっきまでトラファルガー・ローとして生きてきた。……いや、トラファルガー・ローである事を疑いもしてなかったんだ」
受け入れるにはあまりにも悍ましい事実にローは顔を顰める事しか出来なかった。命というものを冒涜しすぎている。
「それでも、ずっと何か心に引っ掛かったものがあった。何か、自分には大切なものがあるような気がして。だから毎年、どこか引っ掛かり続けているこの山に足を運んでたんだ。……それが今日やっと分かったんだ。今日オリジナルに出会えて、やっとおれがなんだったのか思い出せた。……本当の(アイとしての)自分を取り戻せた」
そう語るアイは酷く満たされたようだった。ローには到底理解出来なかったが、彼にとってオリジナルの存在はとても大きなものらしい。
「……おれがこいつを拾った時、既にこいつはこんな状態だった。奴隷根性が根付いていて、足は動かないし喋る事も出来ない。こいつに何があったんだ」
ローの問いにアイは困ったように苦笑する。
「さぁな。おれには主人に連れ去られるまでのオリジナルの記憶しかないから。……アイってのは〝ロー〟に出会うまで真っ白なんだ。出会って初めて自分が何なのか、誰のために生み出されたのかを知るんだ。おれはローに出会う前に〝ロー〟になったから、ローの事はさっき出会ってからしか知らない。ローから話は〝聞いた〟けど、〝あの後〟あんたに拾われて、今はあんたが主人だと言う事しか聞いてない」
「……」
アイの言葉にローは頭を抱えた。やはりローにはそんな認識しか無かったのだ。……いや、ここを訪れる前に主人であった男に「貰うぞ」なんて言ったのが良くなかったのかもしれないと反省する。そんなローの心情に気がついたのか、アイはローに目を落としたまま口を開く。
「そんなに気にする事はない。……今のローには主人がいない方が辛いだろうさ」
アイが言わんとしている事もなんとなく理解出来てしまった。こんなになってしまったローが今更主人という存在無しで生きていけるとも思えなかった。
「……おれは出来る事ならこいつを故郷に帰してやりたくて、ここまで来た」
それでもローの望みは彼女に少しでも安らぎを与える事だ。叶う事なら人間性を取り戻して貰いたい。そのためにここに来たのだと訴えればアイは少し浮かれたように口を開く。
「ローが望むならおれが連れ帰って面倒をみてもいい。ローの側に居られるなら、おれはそれが一番いい。なんとか誤魔化して家族に合わせる事だって出来る」
「……」
「表向きにはおれが〝ロー〟のフリをしないといけないから、ローには寂しい思いをさせるかもしれないけど、出来る限りローの為に生きると約束する。だから、ローをここに残していく事は心配しなくていい」
余程オリジナルに出逢えてアイは嬉しいのだろう。彼女と生きるこれからを想像して嬉々として語る。そんな彼を睨み付けるように見つめながら、ローは重々しく口を開いて頭に過ぎったある選択肢を提示する。
「例えば、……あくまで例えばだが。おれがお前とこいつの精神を入れ替えられるとすればどうする?」
ローの提案にアイは暫く何を言われたのか分からないようだったが、暫くきょとんとローを見遣った後、呆れたように鼻で笑った。
「何言ってんだ。そんな事出来る筈がないだろう?」
「〝シャンブルズ〟」
やってみせた方が早いと、ローは自分の能力の一つである人格移植をアイとローに施した。二人の心臓がドクンと一際大きな鼓動を刻むと、今までローを膝に乗せて座っていたアイの身体が崩れる。そして、その膝の上にいたローがゆっくりと何が起こったか分からない様子で顔を上げた。
「……ぇ」
「おれの能力で精神を入れ替えた。お前は今、ローの身体の中に入っていて、ローの精神はお前の中に入っている」
突然の事にアイは驚いた様子で辺りを見渡した。そして、目の前で自分の身体が床に伏しているのを認めると今入っている身体を見下ろす。ペタペタと手で触って確かに自分が今この身体の主だと確かめている。
「……ぁ、……な、」
いろいろと言いたい事があるのだろう。しかし、長年まともに機能していなかったローの声帯は音を紡ぐ事をすっかり忘れてしまっている。よくローがやるようにアイははくはくと口を開閉させ、時折くぐもった声を漏らす。
「無理をするな。なんなら、筆談でも……」
「……ぃ、ゃ、だぃ……じょ…ぶ……だ」
暫く喉を鳴らすと、辿々しくもアイの口からは愛らしい声が零れ落ちてくる。ローはまともな彼女の声を初めて聞いた。
「ぉどろぃ、たな……、ん……ッ、こん、な事が、出来るなんて……」
やがてその声は掠れながらもはっきりしたものに変わってきて、ローはやはり彼女が声を失ったのは精神的なものだったと確信する。それならば、と今度はアイに足を動かしてみるように指示をする。……中身が変わったのだから、と少しの期待を込めて視線を送るが残念ながらアイの足はぴくりとも動かなかった。
「まぁ、それもそうか」
マッサージは毎日欠かさずやってきたが、今までずっと動かしていなかったのだ。たとえ中身がアイであっても長期間に渡り動かさず、筋力を失った足が簡単に動く筈がない。ローとアイがその結論に達し、顔を見合わせる。それなら仕方がないと二人は今後を話し合った。
「それで、どうだ?こうやってお前とローの精神を交換したならローは身体だけは元通りのはずだ。……お前さえ良いなら」
ローはそこで言い淀んだが、アイは正しくその先の言葉を読み取って笑みを浮かべた。
「ああ。おれは構わない。ローの望みを叶えるのがおれたちアイの使命だ」
「……そうか。あとはローの声と足だが……」
先のアイの様子からローの声が出ないのは精神的なものが原因だと確定した。足はまだなんとも言えないが、きっと望みは薄いだろう。そんな身体の不自由さ、……そしてローが心に負った深い傷、果たして身体だけは元の状態に戻れたとしてもそんな状態で以前のように故郷に馴染めるのだろうか。
「……ローは周りの人々にとても恵まれている。家族も、友人たちも。必ず彼らなら親身に支えてくれるだろうし、きっと彼らとならローの状態も良くなっていくはずだ。おれも全身全霊でローを支えるから」
ローとしてはローの身体に入り込んだアイは連れて帰るつもりだったが、どうやら彼はオリジナルから離れるつもりはないらしい。ローには到底理解出来ない感覚であったが、それがローのクローン(アイ)としての歓びなのだろう。たとえそれが植え付けられた本能であっても、ローを見つめる度に慈しむような微笑みを浮かべるアイを見るとローがそれを止める事は躊躇われた。
「……ああ。ならあとはこいつがどう判断するか、だな」
「ああ。ローが起きるのを待とう」
そうして、二人がローの目覚めを待っている時だった。部屋の扉がコンコンと叩かれる。
「……お兄様?帰ってるの?」
年若い女の声が響いたと思うとアイが慌て出す。
「ラミ、待ってくれ。立て込んでるんだ」
「……お兄様?声どうしたの?風邪?」
「ばか」
扉の向こうの相手にアイが女の身体になっている事も忘れて返事をする。それにローが苦言を呈すが、彼自身もここにローが二人いる事もおかしいので、急いで窓から外へと飛び出した。もう一人のローがいつ目を覚ますか不安だが、こちらのローとは体格が違い過ぎる。入れ替わるなんて手は不可能だった。ついでに床に倒れ込んだままのローとアイを能力を使ってソファに乗せていく。そこでアイが裸のままだと気が付いて、慌てて大きな〝ROOM〟を展開して隣のコテージからワンピースを拝借する。アイはローの意図を汲んで急いでそれを被った。大きめのそれは身体の不自由なアイでも何とか着れてほっと息を吐く。ソファの肘掛けに凭れるようにして、なんとか体勢を保った。
そして、ちょうどその時だった。ぎぃと音を立てて扉が開く。アイはローが目を覚さない事を願いながら、扉の向こうの相手を待ち構えた。
「もう、お兄様。何やってるの?お父様とお母様も心配して……」
入ってきたのはローの妹、ラミだった。どうやら一向に姿を現さない兄が気になってここへ来たらしい。入ってきた瞬間は口を尖らせて苦言を呈していたラミだったが、部屋の中にいたのが見知らぬ女性だと分かると慌てて口を閉じた。そして、アイと視線が交差しようとした時、咄嗟に逸らす。
「すみません!兄しかいないと思ったもので……」
「あ、ああ、ローならここに」
アイは仕方なく隣で眠るローを示した。最愛の兄がソファに横たわる姿を見て、ラミが思わず駆け出した。床に膝をついて兄の様子を確認している。やがて、ただ彼が眠っているだけだと分かるとほっとしたように息を吐いた。
「もう、お兄様ったら。心配掛けるんだから」
「……はは、疲れていたようだ」
アイは明後日の方を眺めながら適当に誤魔化した。苦しい言い訳だったが兄の無事が確認出来た今、ラミの興味はアイに移っていて、訝しげな視線がアイを貫く。
「私はトラファルガー・ラミです。ローの妹です。貴女は兄のお知り合いですか?」
「あ、ああ。おれ……わたしはアイ。ローの……知り合いだ」
咄嗟に口に出たのはそんな苦しい言葉だった。勿論、そんな言葉でラミが納得出来るはずも無く、相変わらずまん丸な彼女の瞳がじっとアイを見詰めてくる。
「ローとは古い知り合いなんだ。た、たまたま今日森で出会って、久しぶりなのもあって話し込んでしまった。……途中から余程疲れていたのかローがうとうとしてきてな。たった今、寝かしつけたところなんだ」
アイは必死に言葉を紡いだ。ローの代わりとして長年兄として接してきたのだ。こうやって誤魔化している事が心苦しくもあったが、アイとしての本能を思い出した今、ロー以上に優先するものはない。ローが目を覚ます前になんとか上手く切り抜けなければならなかった。しかし、そんなアイの心配も杞憂で、ラミはアイが思ってもなかった事を口にした。
「……もしかして、アイさんはお兄様がずっと探していた方ですか?」
「え?」
必死に誤魔化そうとしていたアイに返ってきたのはそんな言葉で、アイは思わず呆気に取られる。そんなアイに応えるようにラミが目を細めて言葉を続けた。
「お兄様、数年前の夏に行方不明になった事があるの。幸いな事に数日後、山の中で保護されて……。それから毎年、こうやってここを訪れていて。まるで何かに囚われているみたいに。……もしかして、それが貴女なのかなって」
「……」
ラミの言葉にアイはハッとする。
……気が付かれていたとは思わなかった。アイ自身、どうしてこの山が気になっていたのか理解したのはつい先程だ。たった数十分前までアイとしての本能など忘れていて、ただのトラファルガー・ローとして生きてきた。大学を卒業し、父と同じようにただ医師として忙しい日々を送っていた。それでも、毎年夏になるとどういうわけか心が騒ついて、気がつけばある時は一人で、またある時はこうやって家族や友人たちを誘って。毎年必ずここを訪れていた。ローとしての生が始まったこの場所へと。その理由が今なら分かる。アイは無意識のうちに尽くすべき主人、本物のローを探し続けていたのだ。
「お兄様、人前で眠るなんて滅多にないから。……貴女の側は安心するのかな。ふふ、二人きりで何をされていたんです?」
「それは……」
揶揄うように顔を綻ばせるラミにアイは顔を引き攣らせる。ラミが訝しんでいるようなものではない。自分たちはローの今後を真剣に憂いていただけだ。
「別に良いんですよ?お兄様と良い関係ならはっきり言っていただいて。アイさん、なんだか空気がお兄様そっくり。お似合いだと思うもの。……身内贔屓だと思われるかもしれませんけど、お兄様はとても素敵な方なの。胸を張って薦められるわ」
なんだかおかしな方向に話が進んでいて、アイは頭を抱える。ローは確かにアイの大切な人だ。しかし、ラミの考えているような関係ではあり得ない。
「いや、私とローは」
「ふふふ、そうなんですか?」
ニコニコと微笑むラミにアイは何を言っても無駄だと察し、息を吐く。しかし、アイとしてはこれからずっとローを支えて生きていくつもりなのだ。彼女の勘違いもそう悪いものでもないのかもしれない。
「あ……、……」
「アイさん?」
ローとの将来を想像して少々浮かれたアイだったが、一瞬何かに気を取られた。そして柔らかく微笑むとラミへと向き直る。
「……ラミ、少しここを外す。しばらくローを頼んで良いか?」
「それはもちろん大丈夫ですけど……。お兄様、全然目を覚まさないわ。そんなに疲れてたのかな」
ラミが兄に目を落とした隙に窓から顔を覗かせているもう一人のローに目配せをする。アイの合図に気が付いて、ローが頷くと次の瞬間アイは部屋の外にいた。アイがいたところには部屋の前の廊下に置いておった観葉植物の葉が落ちている。
「……あれ、アイさん?」
突然消えたアイに気が付き、ラミはキョロキョロと部屋を見渡した。しかし、どれだけ見渡してもラミとロー、二人の兄妹しかいない。そんなラミにアイは部屋の外から声を掛けた。
「それじゃ、ローを頼むよ!」
「あ、アイさん?……いつの間に外に出たのかしら。……ねぇ、お兄様」
ラミは眠っているローに話しかけるが、当然返事は無い。
「本当に不思議。アイさんにどこかお兄様みたいな雰囲気を感じるの。きっと素敵な方なんでしょうね」
眠るローにラミは優しい笑みを見せる。兄がこうやって無防備に眠る姿を見るのは久しぶりだ。兄の黒髪をそっと撫でる。普段は隈や眉間に刻まれた皺から人相が悪く見える兄だが、どう言うわけか今の兄はどこか頼りなく、ともすれば目の前から消えてしまいそうな儚さすら感じられた。
「……お兄様、どこにも行かないよね?」
数年前の悪夢を思い出す。急に兄の友人たちから連絡が来たかと思えば、兄が何処かへ消えてしまっていた。数日後、兄は無事発見されたが、その数日間生きた心地がしなかった。ラミたちの心配を余所にその間何があったか全く覚えていなかった兄はきょとんとしていたけれど、それからラミはいつかまた兄が消えてしまうのではないかとどこかずっと不安に感じている。兄が行方不明になったちょうど夏の時期に兄がここを訪ねる度にその不安は強くなり、ラミは度々この旅路に同行する事を強請った。いつの間にか父や母もついて来ることが増えたので、両親も同じ不安を抱えているのかもしれない。しかし、ラミと両親の心配はずっと杞憂に終わっていた。
……今日、アイという女性に会うまでは。
「……」
あの女性に決して嫌なものは感じなかった。それどころか彼女が醸し出す雰囲気はとても落ち着くもので兄が惹かれるのも自然と受け入れられたのだ。……それなのに。アイと顔を合わせてから胸騒ぎがする。まるで彼女が大好きな兄を遠くに連れて行ってしまうような。また、あの悪夢が呼び起こされるような。
「……お兄様。ラミ、嫌だよ。お兄様が遠くに行っちゃうの」
眠る兄に優しく覆い被さる。決して彼の手を離してはならない。
……なんとなく、そんな気がした。
***
「ロー、本当にいいんだな?」
アイの言葉にローは俯いたまま、こくりと頷いた。
あの後、アイが両親が呼んでいると告げてラミをコテージの外へと連れ出した。ラミは後ろ髪を引かれるように兄を見ていたが、大丈夫と自分に言い聞かせるように一度息を飲むとアイにローを頼み、外へと出て行った。
ラミを見送って、もう一人のローが窓から室内へ戻ってきた。彼もまたどこか遠くを眺めるようにラミが消えた方を目を細めて眺めていた。
また暫くすると、ずっと眠っていたローも目を覚ましたので、アイと身体を交換した事、アイの身体を使って元の暮らしに戻れる事を、アイが興奮した様子で説明した。残念ながらローは、アイの身体であっても足は動かせなかったし、声も出なかったが、家族の元で療養すれば快復する可能性もあるとアイは必死に説得した。
それでも、アイが何度ここで一緒に生きようと告げても、ローは唇を噛み締めるとふるふると力無く首を振り続けた。
ローは元の自分の身体に戻り、ハートの海賊団の元に帰る事を選択したのだ。
「本当に良いんだな?……家族の元に帰れるんだぞ?」
もう一人のローの言葉にもローは頷いた。それならば仕方ないと、ローは息を吐く。能力を使用しようと手を構え、〝シャンブルズ〟を行おうとする。しかし、その時隣でアイが声を上げた。
「どうして⁉ここには父様や母様、ラミやベポたちがいる!おれだって!」
ローの選択に納得がいかないようだった。無理もない。今のローは以前の見る影もない程に弱りきっている。療養にこれ程までに良い環境なんてないだろう。
「……、……」
そんなアイをローはじっと見つめている。アイがはっとしたように目を見開いた後、唇を噛み締めて震える拳を握りしめた。……ローがアイに何かを伝えたのだろう。
「……分かった。おれがローとして生きる。家族を悲しませるような事なんてしない」
それを聞いてローは自分を押し殺すように顔を伏せるとローに向き直った。それを確認してローは今度こそ〝シャンブルズ〟を行って、二人の精神を元に戻す。瞬間崩れ落ちた女のローの身体を支える。そして、慈しむように抱き寄せた。
「行くぞ」
「……ああ」
震えるローの身体を抱き抱えながら、呆然としているアイを促す。
早くしないといつまたラミがやって来てしまうか分からない。今のうちにこの世界から去らなければならなかった。
「……例えば、その身体は捨てておれの身体にローとおれの精神が共存するようには出来ないか?それなら、ローの思うままにおれが動く事が出来る」
乗って来た船に入るところでアイが縋るようにそんな事を言う。
「……どうだ?」
ローが腕の中のローに聞くと、ローはやはりふるふると首を振った。
「だ、そうだ」
「……そうか」
ローの返事にアイは項垂れた。そして、もうそれ以上何かを言う事は無かった。
「それじゃあ、おれたちは行く。世話になった。……もう会う事はないだろう」
ローの言葉を聞いて、アイはまた唇を噛み締める。彼にしてみれば、ようやく見つけた本能に刻まれた主人との別れだ。無理も無い事だろう。
「お前は、もういいのか?」
「……、……」
ローに促されて、ローがアイに視線を送る。それを受けてアイが声を張り上げた。
「……ッ、ああ!任せてくれ!おれがローだ、トラファルガー・ローだ!ローの代わりにしっかりとローとして生きてやる。ラミたちの事は任せてくれ。必ず守る」
それを聞いて、ローはぎゅっとローにしがみ付いた。……もうよいと言うサインだろう。ローはもう一度アイに目を遣ってから、船のハッチを閉める。そしてアイが見送る中、船はまるで最初からそこに無かったかのように姿を消したのだった。
***
「お兄様‼」
呆然と船が消えた場所を眺めていたアイの元に声が響く。ゆっくりとアイが振り向くと、血相を変えたラミがこちらへ飛び込んでくるところだった。
「……どうしたラミ?そんなに慌てて」
最愛の妹を腕の中に抱き入れてやると、ラミは嗚咽を上げながらローを見上げていた。
「コテージに戻ったら、お兄様の姿が見えなかったから。またいなくなってしまったんじゃないかって……ッ!」
きっとコテージから泣きながらローを探していたのだろう。すっかり赤くなってしまっている彼女の目元を拭ってやる。
「……そんなわけがないだろう?心配させて悪かった。……兄様はずっとラミの側にいるよ」
それが最愛の主人との約束だから。
ローは恥ずかしがる妹を抱き上げると、振り返る事無くその場を後にした。
恩人と同じ顔をしているだけの気に食わない天竜人に二度とここを訪れないよう約束させ、元の時間に送り返した。奴の船が消えるまでを見届けると、二人のローは帰路につく。待っていたペンギンとシャチは二人の雰囲気に何かを察したのか何も聞かず先に自船へと戻ってくれた。
ローは腕の中で俯いたままの彼女の背を励ますようにポンポンと叩きながらゆっくりと進む。そんな事、何の気休めにもならない事は分かってはいたが。
もともと天竜人の船は自船からそう離れていなかったので、間も無く見慣れたローの船が見えてくる。ハートの海賊団の面々は先に戻ったペンギンらから話を聞いているのか深く何かを訊ねてくる者はおらず、ローは心配そうにこちらを見つめるクルーたちに軽く声を掛けると真っ直ぐに自室である船長室へと戻る。
「……大丈夫か?」
ゆっくりと大事に抱えていた彼女をベッドに下ろすと、自身もまたベッドの端に腰掛け、彼女の顔を覗き込む。酷い顔だった。泣こうにも泣けず、時折唇がぴくりと震えたかと思うと必死に悲鳴を押し殺すように唇を噛み締めている。
あまりにも痛々しい彼女をローは優しく抱き締めた。彼女の不安定な呼吸がはっきりと伝わってくる。
「いい。いいから、……泣いちまえ」
ローのその言葉を聞いて、やっとローは震える口を開いた。
「……ぁ、……ッ、……ぅぁ、」
「ああ。大丈夫だ。ちゃんと聞こえてる」
「ぁ……、っ、……ぅ、ぁ……ッ」
ローの声無き叫びを必死に受け止める。残念ながら、ローにはアイのように彼女の言葉を知る術は持ち得ないが、彼女が如何に絶望の淵に立たされているのかは分かっている。どれだけ声を上げたいのか、泣き叫びたいのか、だんだんとローの背中を掴む力を増す彼女の震える手がそれを物語っている。必死にハクハクと口を開閉させている彼女は今、その音にならない声で懸命にローにその心中を伝えようとしてくれている。
「……ぁぅ、ぅ……、ぁ……!」
「ああ。……大丈夫だ。おれはずっと側にいる」
「……ッ、……ぁ、…………‼」
「……そう言えば、お前、本当に名前ローだったんだな。ごめんな。信じてやれなくて」
「……、……ぁ、…………っ、ッ、」
ローの絶叫がやがて嗚咽に変わるまでローは彼女を抱き締めて、時折相槌を打ちながらその声に耳を傾け続けた。全てを失うしかなかった彼女にローがしてやれる事なんて、そんな事しかなかった。それを懺悔するように、ローはただぎゅっと彼女を抱き締め続けた。
トントントン……
どれだけそうしていただろうか。船長室の扉が控えめに叩かれる。既にローの嗚咽が聞こえなくなってから少し経っていて、ローはそっと彼女の顔を覗き込んだ。……嗚咽こそ止まったものの相変わらず酷いその顔に生気なんか感じられず、ローに寄り掛かったまま虚ろな目で何処かを眺めている。
ローは彼女を改めて抱き締めると、扉の向こうに「入れ」と声を掛けた。
「し、失礼します」
おどおどと部屋に入ってきたのはシャチだった。どうやら食事の用意が出来たらしい。時計を見れば随分と時間が経っていた。自分は後で食べるとシャチに伝え、ローの分だけ持ってきてもらえるように頼む。既に用意をしてくれていたのだろう。間も無く、シャチはロー用の粥を持って来た。
礼を伝え粥を受け取り、シャチが部屋を出たのを見届けるとローに声を掛ける。到底食事が出来るような精神状態ではないだろうが、少しでも食べられるなら食べさせておいた方がいい。元々食の細い彼女は、最後に食事を摂ってから随分と時間が経っている。
少しでも彼女が食事しやすいように、ベッドの上から床へと移動する。そして自分に凭れさせたまま、ローは粥を一掬いすると、彼女の口元へと持っていく。
「……食べられるか?少しだけでいい。食べられるようなら少しでも腹に入れておけ」
「……」
ゆっくりとローが口を開き、匙を口に含む。匙の半分も口の中には入らなかった。それでも、ローは言われた通り粥をしっかりと噛み締めている。
「……そうだ。偉いぞ。……少しずつでいい。おれも手伝うから、ゆっくりお前という人間を取り戻していこう」
あの天竜人に出会って良かったと思えたのは、このローがしっかりと人間として生きた足跡が見えた事だ。今まで、あまりにも人間としての生を拒む彼女に苛立ちや悍ましささえ感じた事もある。しかし、それはあの天竜人に捻じ曲げられた結果であって、確かに彼女は一人の人間として生きていたのだ。家族がいて、友人もいる。普通の人間として。どこかよく知る面影を残した彼女の妹を見た時には、ローは眩しささえ感じた。それがあの天竜人によって奪われ全てを失った。自分という存在でさえ。……奪われる苦痛はローは痛いほどに知っている。
もう彼女は元の居場所さえ失くしてしまったが、そうやって生きていた過去があるならローの尽力によっては彼女の、あるいは彼の人生はまだまだ取り戻せるのでは、という希望が僅かながら湧いて来ていた。
「……ッ」
ローの言葉に彼女も何か感じるものがあったのだろうか。驚くべき事にローは決して今までに見せなかった行動に出た。
急にローから匙を奪い取ると自らその匙を使って粥を掬い、口に運ぶ。
一口、そしてまた一口。
「……ぅ、……っ」
しかし、ローは直ぐに匙を床に落とし、口を押さえたかと思うと苦しそうに咳をした。そして、その手と口の隙間からはどろどろと先程口にした粥が零れ出ている。呆然と彼女を見ていたローは慌てて彼女の手を取るとそのまま彼女の口元に添えて、もう片方の手で背中を摩る。
「大丈夫だ。頑張ったな。偉いぞ。……ほら、全部出していいから」
「……ぅ、……ぁ、……っ」
胃液と一緒に彼女が嘔吐した粥がローの手を汚す。いつかの事を思い出したのだろう。ローは自分の嘔吐物で汚れるローの手と顔を見て、ますます顔を青褪めると止めどない涙を流し続ける。
「大丈夫だ。気にするな。急かして悪かった。……ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。少しずつ頑張ろう」
「……っ」
ローの言葉は届いていないのか、ローはただ怯えて泣くばかりだった。そう広くない船長室にローが励ます声が静かに響く。
***
暗い闇の中でローは静かに目を開いた。隣には自分を抱き抱えるように、今日正式に主人となった男が寝ている。食事の後、ローの嘔吐物を片付けるとそのまま彼に抱えられ、ベッドで横になったのだ。
「……ぅ」
ローは腕だけで藻掻くと彼の腕から逃れる。そしてそのまま頭から床へと落ちると、ゆっくりと床を這って扉へ向かう。
「……ぅぁ、……っ」
そして、ドアノブに手を伸ばすも床を這うしか出来ないローの腕ではそれに届く事も出来ずに歯噛みする。……いつかもそうだった。無力な自分では扉すら一人で開けられない。じわりと涙の膜が張ってくる。
しかし、ローが目に涙を溜めていると、どういうわけかドアノブが勝手に下がった。寝ている船長の他には人の気配もないのにと不思議に思いながらもそっと扉を押すと、船長室の扉は簡単に開いた。不思議に思いながらもローはせっかくのチャンスを逃さないよう懸命に床を這い部屋を出て行った。
ローは進む。皆が寝静まった船内はとても静かだった。こうやって自由に一人で船内を進むのは初めてだ。幸いな事に、見張りの一人にも遭遇しなかった。
時間をかけてローは甲板まで辿り着く。運の良い事に船内の扉という扉は全て開いていて、階段こそ苦労したもののなんとかここまで辿り着けた事にほっと息を吐く。
「……ぅぁ」
明かりの無い夜の海は真っ暗だった。空には満天の星空が広がっているもののローの進む先を照らすには心元ない。ローは最後の道程を気をつけながら進む。全く動かない下半身はとても重くて、腕の力だけでここまで這ってきたローの息は既に切れていた。それでもローはただ一つの目的の為に進み続ける。
そして、さらに時間を掛けてやっとローはそこに辿り着く。甲板の先だ。
手摺の隙間から海を覗き込む。
星空の明かりが届かない水底は真っ暗で何も見えない。まるでぽっかりと空いた広い穴がローを飲み込もうとしているようだった。
「……ぅぁ」
真っ暗な闇を覗き込んで、不思議とローの口角は上がる。思わず身を乗り出して、その闇に手を伸ばす。深い闇は変わらずそこにあって、ローを歓迎している。
ザザン……ッと静かに波打つ漆黒の闇にローは見惚れていた。穏やかな笑みを浮かべて。まるでその闇に魅入られたかのように。じっと、じっと。
―――そして