深傷に桜 ドクドクと音が鳴っているのかと錯覚するくらいの流血に、意識が朦朧としながらも医務室に向かったのを覚えている。その時の当番はちょうど瑞で、顔色を変えてこっちに向かって行ったことまでは覚えている。その後に意識がぷつりと切れてしまったけれど。
「〜…はこっちに!」
「清潔な布をもっと持ってきて!」
ドタドタと騒がしい長屋で目が覚めた。また誰か怪我をしたのかと。これ程まで喧騒が響く現場を見るのは数回目か。最初は隠岐継が寝かしつけてくれたなぁ等とうつろうつろしてる時に、丁度思い出していた相手の名前が出てきた。
「ここから先は私がやる。瑞くんは休んでいなさい。」
「…でも、隠岐継くんが……。」
「休むのも、保健委員の役目だよ。健康に1番気を使ってこその保健委員だ。」
「っ、はい。ありがとうございます。失礼致します。」
隠岐継?
寝ぼけていた意識が一瞬で取り戻され、頭が真っ白になる。隠岐継の身に何があったのか、嫌な汗が身体中を伝う。
長男と言う身だからか、少し無理をしてしまう性質なのは周知している。しかし、あの喧騒と隠岐継に何か関係が?そう思うと、寝付ける気など更々無かった。
本当は二組ある筈の布団が敷かれていない今日の夜。隠岐継は未だ帰っていない、となるとやはりさっきの…
「ッ!」
いても経ってもいられずに、医務室へ走る。医務室までの少しの距離が、一厘程走った位に遠く感じた。
「っ、失礼します!!」
息が上がりながらも、保健室の扉を開けると、少しの血なまぐさい匂いが鼻腔を擽った。
純白な布が何枚も真紅を塗り込めた様に真っ赤になっていて、目を疑った。その真っ赤な布は、誰の血を吸い取ったものなんだ?目を見開いてその布の隣で喘いでいる人物に視線をやる。
「隠岐継…!!」
瞳孔が嫌でも開いたのを感じた。全力で走って酸欠気味だった呼吸が、更に荒くなる。
だって、「安全な忍務だから」と柔らかい表情をして早朝に経ったのだ。四年生の実習は五年六年と比べると明らかに簡単なもので、怪我をして帰る生徒など殆どいない。隠岐継なら尚更傷を負っては帰ってこないだろう。このレベルの忍務で、隠岐継が怪我をして帰還したことなど一度もない。
「桜里くん?だったかな。確か隠岐継くんと同室の…。」
水をたっぷりと含んだ布を絞りながら、桜里に話しかけるのは保健委員会の顧問であるカトリーネだった。
「すまないね。私も先程瑞くんから報告を受けた所だったんだ。真っ先に君に伝えるべきだったね。」
私もまだまだ教師として未熟だよ。と苦笑いすると、桜里が首を横に振る。その様子にカトリーネが目を伏してありがとう、と微笑むと、隠岐継くんの容態は急変しないと思うよ。と身体を拭きながら答える。
「結論から言うと、隠岐継くんは助かる。」
そういうと、桜里は全身の力が抜けたようにしゃがみこんだ。先程目が合った時に要件を全て見抜かれていたようでドキリとしたが、あながち間違っていなかったのかもしれない。
「〜はぁ……良かった…。」
「出血こそ酷いけど、治る傷ではあるよ。保健委員会顧問の私が言うんだ。安心して欲しい。」
しかし、隠岐継の前額部を触ってから、微笑んだその口元が少し固く結ばれた気がした。どうしたのだろうと桜里が口を開く前に、カトリーネが唾を飲み込んで、只、と口を開ける。
「桜里くんには酷な話になるけれど、いつ目覚めるかはわからないんだ。高熱も出ているし、明日か、数日後か、一月後か…。正直検討がつかない。1週間前後は保健室で看るけれど、それでも目覚めなかった場合は…。」
そこから先ははい、と返事をしたのだけは覚えている。カトリーネ先生が何を言ったのかは完全には思い出せなくて、只目覚めますように、とこればっかりは神を祈るしか無かった。どんなに腕利きの医者でも、高級な薬を使っても、落とす命は落とすのだと。この残酷な忍者社会において齢13にてこの事実を嫌でも知る羽目になるとは思わなかった。
「…もう夜も深い。明日も授業があるからできるだけ休みなさい。下がってよろしい。」
「ねぇ桜里。大丈夫?あんま寝れなかったんじゃない?」
ちょっとクマできてる。と自分の目元を指差すのは日向に照らされている金髪がよく映えているランサスだった。四年生の合同訓練の時間に一人なのは初めてで、それが隠岐継がいないことを肯定しているみたいで嫌だった。瑞以外の三人は隠岐継が昏睡状態というのは知らされていないらしい。無理もない、なんせ保健室に縁もない、怪我など知らない三人なのだから。
『合同訓練だって、またランサスとロノは満点なのかなぁ?』
俺たちも頑張らなきゃね。と微笑むあの顔は、今は苦痛に悶え苦しんでいるのが耐え難い事実だった。瞼を閉じると鮮明に思い出してしまう。鮮血を帯びた布と血なまぐさい匂い。そして苦痛に顔を歪めて呻くだけのあの光景。
「…里、桜里ってば。」
「……ぁ、あぁうん。聞いてるよ。」
ハッとしてランサスの方を見ると、明らかに心配している顔が見えた。何も知らない「フリ」が得意で、よく察して意図を汲み取ってくれるのがランサスだ。僕の不調なんてとっくのとうに気づいているに違いなかった。
「…息も荒くなってる。保健室行く?それじゃ合同訓練とは言え立派な訓練だし、そのまま受けたら桜里が怪我しちゃうよ。」
「ッ保健室だけは駄目!」
思わず声を荒げると、やっぱりね。とランサスはため息をつく。その声を聞いた桜里は思わず口元を塞いだ後に、ランサスの方を睨んだ。
「……カマかけたね?」
「怒車の術、成功〜♪と言いたいところだけど、流石に他人事でもないよね。あの騒ぎは俺達の部屋にも届いてたよ。桜里の部屋に届いてるってことは、医務室の当番だった瑞は当然としてエメリだって気づいてる。」
エメリは意外と直感に優れてるから、なんなら俺達より早く物事の本質に気づいてたかもね。と零すと、桜里はランサスに向けた目線を逸らして、こめかみを押さえた。
「僕、ランサスのそういう所嫌い。」
「どういう所?言ってくれないと分かんないなぁ。」
「察してる癖に無駄にカマかけてくる所。」
何の捻りもない悪口を言うと、お気に召したのかあははと笑い始めた。冷静沈着成績優秀。しかし性格は難ありの男だ。いや、難ありと思っている人の方が少ないかもしれないけれど。そういう「善人」のオーラを出すのが非常に上手い人物なのだ。ランサスという男は。
「隠岐継。いつ目覚めるか分からないんでしょ?…でも、隠岐継が隣にいなくて悲しくなってる桜里を置いていく訳にもいかないと思うから、大丈夫だと思うけどね?」
これはただの俺の勘だけど!じゃ、また訓練で会おうね。そう言ってランサスはロノの方に向かって行く。完全に言い逃げされてしまった。悔しいがランサスの言う通り、隠岐継がいないからか寂しさと少しの怒りが常に出ている気がする。忍者であるもの気を出してはいけないと言うが、最早出さざるを得ないのだ。四年間も一緒だった仲間が大怪我を負って昏睡状態に陥っている場合は。
「はぁ……。」
このため息は空へと飛んでいき、隣にいる筈の人物の耳には届かない。
四年生、つまり上級生には実習という物が存在する。四年から始まり、五年、六年と学年が上がるにつれ実習の頻度は増えていき、六年生にもなると実習しかなくなり、忍術学園を数日空けることも珍しくはない。
勿論、その度に受ける傷だって増えていくだろうし、跡が残る傷は、勲章と謳われるだろう。でも、
「目が覚めない傷なんて、勲章でもなんでもないよ…」
視界が淀む、今隠岐継がいないこの部屋は一人部屋だ。また独りを実感して嫌になる。
心を少しでも鎮めるために作っている千羽鶴も、図書室で読み続けている医学書や薬草に長けた本も、目覚めなければ意味が無い。もう隠岐継は一週間近く目を覚ましていないらしい。日付感覚も狂ってきた。
「…医務室に行こう。」
寝付けない時は隠岐継の顔を見てから寝るのだ。もうこれは習慣じみた物で、どうにも癖は抜けずにいない。
からからと医務室の扉を開ける。寝息もあまりたてずに寝るのは昔からずっと変わらない。その姿に思わず笑みが零れる。まだ千羽には程遠い和紙で作った鶴を置いて、隠岐継の前に座る。
「今日はエメリくんも鶴折りを手伝ってくれたんだ。桜里くんも元気になると良いねって、僕があんまり寝れてないのバレてるみたい。やっぱり直感が鋭いよね。無意識に意図を汲み取ってくれる時もあるし、瑞くんと相性が良いのもそういうのがあるからなのかなぁ。」
今日起きたことをつらつらと話す。ロノがお見舞いの品を持ってきてくれたこと、ランサスが相変わらず痛い所を突いてくること、先輩や後輩までこのことは既に知れ渡っていて、皆から励ましの言葉を沢山貰ったこと。
「ねえ、これだけ皆が隠岐継のこと心配してるんだよ。」
またぽろぽろと雫が零れてくる。僕ってこんな涙脆かったんだ。二人いる筈なのに、やっぱり一人分の声しか聞こえなくて、柔らかい声で相槌を打つあの心地良さがなくて、どうしたって寂しい。
「早く目覚ましてよ。馬鹿…。」
「…誰が馬鹿だって?」
涙でぼやけた視界が、それを手で拭う誰かによって開かれていく。
「…隠岐継?!」
「何その幽霊でも見たみたいな反応。」
本物だからね?と微笑む姿は、頭の中で想像していた隠岐継よりもずっと柔らかくて、拭ってもらった視界からまた雫が溢れる。
「あはは、ひどい顔。俺どのくらい寝てたの?」
「一週間」
「…一週間?!うわ〜、ぐっすりだった訳だ。ごめんね?」
僕の頭を申し訳なさそうに撫でて、待っててくれてありがとう。と言う隠岐継は、憎むに憎めない。憎める筈が無かった。
「バカおきちゃん…次無茶したら地獄まで追っかけるから…。」
「怖い怖い。反省してます…。」
カトリーネ先生呼んできてくれる?と言う前に桜里が隠岐継を優しく抱きしめる。
「…おかえり、隠岐継。」
「…うん、ただいま。」
医務室には、しっかりと二人の声が響いた。
「はーー、これまた立派な傷跡がついたね?」
ランサスが隠岐継の傷跡を見つめる。痛くない?今はあんまり痛くないかな。等と会話のキャッチボールを弾ませていると、瑞が口を出す。
「逆にこの位置で怪我をしてかつ多量の出血をして生きてるのが不思議なくらいなんだよ。」
「保健委員が言うと説得力が凄いなぁ。あはは、まぁ生き長らえて良かったよ。」
隠岐継のアイデンティティである八重歯を出して笑うと、ランサスが悪い顔をした。…嫌な予感がする。
「まぁ、隠岐継が目覚めなかったら桜里も生き長らえなかっただろうしね〜?」
「ねえちょっと!ランサス!」
「え?なに?面白い話?」
必死にランサスの口を掴むと、どこからともなく声がした。
「桜里くん、隠岐継くんがいなかった間ずっと寝不足だったもんね!」
「エメリくん…。」
「?」
瑞がエメリの肩をぽん、と叩く。隣には笑いを堪えているランサスとやっちゃったな〜という表情が全面的に出ているロノと、
「…………」
照れている隠岐継。
「えっ、お、おきちゃ」
「あっ、あー!ちょっと用事思い出した〜!カトリーネ先生のところに行かないと〜!」
早口でそそくさと行ってしまった隠岐継にぽかんと口を開けるしかできなくなった僕に、笑い涙を拭ったランサスが桜里の肩を掴む。
「まぁ、恋愛成就成功おめでとう?」
「馬鹿にしてる?」
こっちの道のりはまだ長い。