世界の車窓から◇
「なあ、まだ蔵木と土屋田には内緒だけど」
そう言いながら深夜のカフェコーナーの自販機のボタンを押して、雪村は振り返る。
「俺、もうすぐ銀行辞めるんだよ」
「え、なんで」
ブラックにもほどがある仕事だが、雪村が辞めたがっているようには見えなかった。
雪村は少し屈んでペットボトルのミルクティーを取り出すと、昼間に向き直った。
「長い休みが欲しくなったから」
世界中を旅するんだよ、と雪村はにこにこして言う。
「絵葉書を送ろうか?」
絵葉書なんか現代に存在するのかよ、などと思いながら昼間が黙っていると、雪村が瞳を覗き込んできた。
「そんな顔するな」
雪村はそう言うとそっと目を伏せて、少し背伸びをする。
「今まで楽しかったよ。ありがと、昼間」
唇に柔らかいものが触れて、静かに離れていった。雪村がなんでそんなことをしたのかは、さっぱり分からなかった。
それからしばらくして、雪村は本当に去ってしまった。
大きなバックパックを背負った後ろ姿が空港に吸い込まれていくのを車の運転席の窓から見送ってもう随分経つが、絵葉書なんて届いたためしはない。
◇
「アイツ、今頃何してんだろうなあ。いきなり辞めちまうなんて」
ある日の昼、カレーの鍋をかき混ぜながら土屋田が遠くを眺めて呟いた。
「昼間、お前も薄情なもんだよな。雪村とあんなに仲良かったくせに、最終日に涙のひとつも流さねえで」
「泣くわけねえだろ」
涙を流したのなんか、小学一年生くらいの頃、三歳上の姉に理不尽にボコボコにされたときが最後だ。同僚が辞めたくらいで泣くわけがない。
でも、あんなに仲が良かったくせに、と土屋田が言う程度にはつるんでいたつもりだった。少なくとも、昼間は。
その日の夜、一週間ぶりに帰宅する途中でコンビニに寄ったら、この間まで隅の方に追いやられていたホットドリンク類のスペースが、どんと一列いっぱいに拡充されていた。
真ん中あたりには、青や白のラベルのミルクティーがたくさん並んでいる。
もう冬か、と心のうちで呟いた。空港で見送ったときの雪村は、半袖を着ていた。
雪村は冬が好きだった。コンビニで売っているミルクティーの種類が増えるから。「本当は店に飲みに行けたらいいんだけどな」と言っていたこともあった。もしかしたらあの時にはもう、辞めることを考え始めていたのかもしれない。
雪村はよく喋るタイプだが、喋ることと喋らないことは明確に分けている人間だった。
今は世界のどこかで、好きなときに好きなものを飲み食いする生活をしているんだろう、などと考えながら自宅の玄関を開けたとき、ポケットのスマートフォンが短く振動した。
取り出してみると、見慣れた緑色のアプリアイコンの隣に『真』という名前が表示されている。驚きすぎて、思わず左手のコンビニ袋を落としてしまった。
「やべ、麻婆丼なのに。クッソ、あいつのせいだわ」
雪村の名前の下には『写真を送信しました』とある。ポップアップをタップするとトーク画面が現れ、一番下には電車だか列車だかの画像が表示されていた。
画像をタップしてさらに拡大すると、青緑とオレンジのカラーリングの、いかにも外国といった感じの列車が殺風景なホームに停まっている。
なんだこれ、と思っていると、続けて『カナディアン号』とただひとこと送られてきた。
「カナディアン号……カナダの列車ってことか? つかカナダってどの辺だっけ」
ネットで検索して、世界地図上でカナダの位置を確認する。
「カナダでか。カナダのどこだよ、これ」
どこ、とすぐにメッセージを送ったが既読になったのは数日後で、おまけに返事はなかった。
それからしばらくした頃、帰宅すると玄関前に大手通販サイトの段ボールが置かれていた。最近買い物をした覚えはないが、宛名は確かに昼間の名になっている。
部屋に入って、なぜかプレゼント仕様になっている包装を開封すると、中からは青い球体が出てきた。
「地球儀っつうんだっけ。これ」
日本の真ん中あたりをつついて、適当にくるりと回してみる。
袋にはもうひとつ、小さな赤い丸のシールがびっしり並んだシートが入っていた。
「ガキの頃に学校によくあったやつだ……」
包装にくっついていたメッセージカードには、『カナダ・スールックアウト』と印字されている。
「なんか分かった気がすんな。腹立つけど」
昼間はスマートフォンで『スールックアウト』と検索し、四苦八苦しながら地球儀でそのおおよその位置を探し出すと、赤いシールをそこに貼った。
そして写真を撮り、地球儀とシールを送ってよこした本人に送信する。
するとすぐに、画面に『大変よくできました』という桜の形をしたスタンプがポンと音を立てて現れた。
「やっぱ腹立つなコイツ」
◇
「ヨシお前ら、集まれ。今日の飯はすげえ旨いぞ」
エプロン姿の土屋田が得意げに昼間と蔵木を呼んだ。
「コレが何か賭けません?」
「あー、汚ねえ餃子?」
すると土屋田が目を釣り上げて菜箸を振り上げる。
「ぶっ殺すぞ。ポーランド料理のピエロギだよ。俺とポーランドに謝りやがれ」
「ポーランド……ドイツの隣か」
昼間がそう呟いた瞬間、土屋田は皿を取り落としそうになり、蔵木も大きな目を更に大きく見開いた。
「昼間、お前、なんで……」
「どうして昼間がポ、ポーランドの位置を知ってるか賭けません?」
二人が明らかに動揺している。
「驚きすぎて噛むのやめろ。俺だってそのくらい知ってるわ」
「だってお前、ついこの間まで群馬県の場所だって知らなかったじゃねえか」
「群馬は誰も知らねえよ」
果たして、ピエロギとかいう料理は驚くほど旨かった。
昼間の部屋の地球儀のヨーロッパ地域は、もう半分くらいが赤いシールで埋まっている。
◇
雪村という男は、優しいようでいて実のところ身勝手で、鋭いようでいて結構ズレている。そんなところが昼間の内面の隠れた凹凸に妙にうまく嵌まってしまって、気づくといつも主導権を握られていた。
そしてどうにも納得がいかないが、地球の反対側にいるらしい今でさえ、何となく昼間を支配している。
つい先ほど送られてきたのは、緑色の小さな列車、森の中のような風景、それから大きな滝のパノラマ写真の三枚で、画像検索したらイグアスの滝というブラジルの観光スポットらしかった。先週はコスタリカから派手な色の建物が並ぶ街並みと珍しい鳥の写真を送ってきたところだというのに、本当に元気な奴だと思いながら、昼間はまた地球儀にシールを貼る。
雪村から再び連絡が来るようになって半年近く経つが、送られてくるのはすべて風景とか、列車やバスから見える街並みの画像、地名、それとよくわからないスタンプだけだ。
それ以外の向こうの近況だとか、こちらの様子を尋ねるような言葉はない。ましてや、電話なんてただの一度も。
人間は声から忘れるとかいう話を聞いたことがあるのに、雪村の声はまだ脳内でそっくりそのまま再生できる。
ひとりでいるとよく思い出すのは、雪村が銀行を辞めると昼間に打ち明けてきたときのことだった。
『ありがと』と、あのとき雪村は言った。
「……バカじゃねえの」
寝転んだベッドから脚を伸ばしてローテーブルの上の地球儀を軽く蹴った。青い球体が、機嫌良さそうにくるくると回る。
たった一度だけ触れた唇の感触もまだ覚えている、多分。
◇
銀行を辞めてからしばらくプラプラしていたら、ティッシュ配り時代の先輩に人手が足りないからと頼まれて、キャバクラの黒服を始めた。
サービス業は嫌いだから長く続けるつもりはないが、今は時代が変わったらしく夜職の世界も面倒な上下関係はほとんどないし、割り切ってしまえば労働時間が短いのは楽だった。
店に入る時の面接で店長に「風紀はダメだよ」と気持ち悪いくらいの笑顔で念を押されたのにはイラついたが。
嬢の半分は担当ホストの太客になるために働いているので黒服など塵か何かだと思っているが、もう半分は頭の弱い世間知らずで、自己肯定感が低いから少しでも親切にされると相手が誰でもすぐ寝てしまう。
黒服の中にはそういう女につけ込み、店の目を盗んで好き放題やっている人間も実際にいる。
昼間はどうせ昼職には就けないから夜の仕事をしているだけなので、そういうことに興味はなかった。嬢は単なる店の商品であり、昼間にとっては何の価値もない物だ。
仕事終わりに裏口から店を出ると、嬢のひとりがカツカツとビールを鳴らしてこちらに向かってくるところだった。
「ユイくんだ。お疲れさま」
どーも、と形だけ頭を下げると、嬢はにっこり笑顔を浮かべて距離を詰めてきた。香水に混じって酒の匂いがする。
「私はいまアフター終わったとこ。お店に忘れ物しちゃって戻ってきたんだ」
はあそうすか、と適当な返事をしてすれ違おうとすると、ぎゅっと腕を掴まれた。男だったら殴っているところだ。
「ユイくんて、よく唇触ってるよね。癖?」
嬢は油を塗ったみたいに光る自分の唇を指差した。
「知らね。無意識」
「ふふ、だから癖じゃん。かわいいよね」
女が背伸びをして顔を近づけてくる瞬間に察知はしていたが、手を上げられないという意識から反応が遅れた。気づいた時には、唇に女のベッタリとしたそれが押し付けられていた。
胃液が込み上げるのを感じて、あ、ヤバいと思うのと同時に路地裏に駆け込んでうずくまり、思い切り吐いた。
「えっ、ちょっと……最悪なんですけど……」
背後では嬢が本気のドン引き声で呟いている。
マジで最悪だわ、とぼやきながら手の甲で口元を拭った。嬢は何かごちゃごちゃ言ったあと、店に入っていった。
しばらく動く気にならないので、ビルの外壁にもたれてスマートフォンを取り出す。
仕事の時間帯に届いていた雪村からのメッセージを知らせるポップアップが無邪気に浮かんでいた。
タップすると、白・赤・青の三色の車体の列車と、鉄橋を走っているときに撮ったと思われる砂漠地帯の風景の画像。それから最後には『雲の列車!』と記されていた。
はあ、と大きなため息が出る。胃酸にやられた喉がちりちりと痛んだ。
『帰ってこねえの?』
昼間から文字を送ったのは、初めてカナダの列車の画像が送られてきた日以来だった。
すぐに既読がついたが、返ってきたのは、感情の読めない笑顔を浮かべたウサギのキャラクターのスタンプひとつだけ。
それが、雪村からの最後の連絡だった。
◇
雪村から連絡が来なくなって、数ヶ月が経った。気づけば、この間巡ってきたばかりの夏が終わろうとしている。
「どっかで死んでんじゃね?」
殺しても死なないような奴ではあるが、万が一本当に死んだとして。
──俺がそれを知る可能性はまずないわけだ。
家族でも恋人でもなければ、友達と呼べる間柄だったのかもわからない。一方的に支配され、一方的に振り回され、そして一方的に解放されただけだった。
「マジで腹立つわ、あいつ」
昼間は数ヶ月ぶりに、赤い丸が並んだシートを手に取った。シールを1枚剥がし、地球儀で日本列島を正面にもってくると、『東京』の二文字の上にそれを貼る。残ったシートは全部ゴミ箱に放り込んだ。
そして眠くもないがベッドに潜り込んで目を閉じ、今夜はもう寝るのだと決め込んだその瞬間、インターフォンが鳴った。当然しばらく無視していたが、来訪者はしつこく連打している。
殺すぞ、と思いながら仕方なく起き出して乱暴にドアを押し開ける。
「わ、びっくりした」
「……!」
玄関先でにこにこと昼間を見上げているのは、相変わらずのプリン頭の雪村だった。
お邪魔します、と言って、立ち尽くす昼間を押し除けるように入ってきた雪村は、バックパックを降ろしてふうと息を吐いた。
「いやあ、疲れた。昼過ぎに日本に着いたばっかりなんだ。ここに来る途中でスーパー銭湯に寄ってきたけど、やっぱり湯船って最高だな」
「……」
「数日前まで、中国の山岳地帯で恐竜の化石を掘ってたんだよ。ちょっとしたツテでビザが取れたから長居しちゃってさ。電波もないところで、食事も保存食ばっかりだっけど楽しかったな。ほら見て、ちょっと日焼けしただろ」
雪村はくるくると表情を変えながら饒舌に喋る。
「お前も銀行辞めたんだって? 帰りのフライトの前、土屋田に用事があって連絡した時に聞いたんだ。俺にも教えてくれればよかったのに」
「……」
黙り込んでいる昼間を見て、雪村は目を瞬かせた。
「どうした、なんか拗ねてる? もしかして、お前も旅行に行きたかったのか?」
「は? 行きたくねえし」
すると雪村は少しだけ眉を下げて、肩をすくめた。
「そっか、残念だな。俺はすぐにまた海外だ。昼間も時間ができたことだし、せっかくだから一緒に行ったらどうかと思ったんだけど、仕方ない」
「……く」
「?」
雪村が、首を傾げて昼間の顔を覗き込んできた。
「やっぱ行く」
昼間の返事を聞いた雪村は、にこっと笑う。なんの曇りもない顔で。
「うん、行こう行こう。次は北欧に行くんだ。スウェーデンのストックホルムから北上する寝台列車に乗るんだよ。寝台列車は楽しいからな。ノルウェーのナルヴィクっていう終点で降りて、夜はオーロラを見るんだ。昼間って都会っ子だから、星すらあんまり見たことないだろ? そういう奴がオーロラ見るとさ、綺麗すぎてトんじゃうらしい……って、お前、なに泣いてるんだ?」
「さあ……強いて言えば悔し泣き……?」