知らない女 タイに来るのは1年ぶり2回目だ。
タイの暑さは沖縄の暑さとは違うが、やはり南国は肌に合うから、来るのは楽しみだった。
もちろん、久しぶりに恋人に会えるのも。たまにする電話ではそっけないだのなんだのと文句を言われているが、会えばそれなりに情熱的だと自負している。
しかし今回の休暇を取るためにここひと月は激務に追われ、フライトでは隣のサラリーマンの酷いいびきで一睡もできなかった。
そう、宮城は疲れていた。三井が帰宅するのは夜だろうから、先に部屋に荷物を置いたらマッサージに行って、適当な店でカオマンガイを食べて直ちに部屋に帰り、寝る。テーブルには『起こしたら殺す』というメモ書きを置くのも絶対に忘れない。とにかく疲れているのである。
治安のいい日本人エリアの真ん中にある、プール付きアパートメントの前でタクシーを降りる。三井も日本ではごく普通の庶民向けアパート暮らしなのに、東南アジアの駐在員になればこんないいところに住めるのだから羨ましいものだ、とエレベータに乗り込んだ。
7階に降り立ってスーツケースをガラガラと引き、三井の部屋の前で立ち止まる。
少し離れた壁際に、ボブヘアにワンピース姿の小柄な女がひとり俯いて立っていた。家の鍵でも忘れたのかな、と思ったが、どうしてやることもできないから見なかったことにする。俺には一刻も早く休息が必要なんだという強い意志を持って鍵穴に合鍵を差し込んだ、その時である。
「ーーーーー?」
後ろから突然声をかけられて、宮城は飛び上がった。
振り向くと、先程のボブヘアの女が真後ろに立っていて、宮城の顔を覗き込むように見上げていた。
「ーーーーー?」
女はまたタイ語らしき言語で何か質問してくる。宮城は小柄で浅黒の外見から、タイに来るとほぼ100%の確率でローカルに間違えられるのである。
「Excuse me」
英語喋れればいいけど、と思って返答してみると、女は一瞬目を見開いたあとに、ああ、という顔になった。
「あなた、どうしてこの部屋の鍵を持ってるの?」
比較的流暢な英語で女は問うてくる。黒くて大きな猫目で、なんだか有無を言わさない迫力があった。
「え…彼氏んち…だから?」
日本では絶対に口にしない台詞だが、正直言ってちょっと言ってみたかった。自分の発した"boyfriend"という単語にちょっと感動してしまう。
「彼氏…あなた、彼の恋人なの?」
猫目の女はこてんと首を傾げる。
「そうだけど」
すると、女は一歩前にずいと進み出た。宮城は思わずのけぞる。
「奇遇ね。私も彼の恋人なの。それから」
女は一度言葉を切って、腹に手を当てて再び口を開く。
「お腹にいるのは彼の子ども」
話をしましょ、と女はにっこり笑って言った。
宮城はたっぷり10秒考えて、返事をした。
「とりあえず、マッサージ行かねえか…?」
繰り返すが、宮城は疲れているのである。
この人は妊婦だけど大丈夫かと、受付にいた南国の湯婆婆みたいな老女に念のため尋ねたら、妊娠初期はほぼ関係ないし、適さないツボは外すから問題ないと言われた。
アパートのすぐそばにあるこのマッサージ屋には、前回タイに来たときにも2度ほど来たことがあった。この湯婆婆は英語も日本語も話せる。
宮城と猫目の女は、ラタンベッドが二つ並んだ部屋に通された。
女は足ツボマッサージのみ、宮城は全身のコースである。ボウルとタオルを持ったおばさん二人が部屋に入ってきて、それぞれに施術を始めた。
「ツヨメ?ヨワメ?」
「強めで」
おばさんが喋れる日本語はそのくらいらしく、女に向かって宮城について何か尋ねたようだった。
「あなた何歳?だって」
「29」
女が通訳すると、おばさん二人が何故だか感嘆の声を漏らした。
「もっと若く見えるって」
「それ喜んでいいのか? そっちは、いくつなの」
「22。大学生だよ」
「マジかあ…」
あの野郎、ほぼ犯罪者じゃねえかと脳内で能天気に笑う三井を蹴飛ばす。
先ほどから女は腰掛けたベッドに華奢な両手をついて、大きな目で観察するように宮城を眺めている。
「話そうって言ってたけど、何話すの?」
仕方なく宮城から話を振った。
「あなた、きょう日本から来たの?」
「さっき着いたばっか。で、あんたに会ったってわけ」
女は肩をすくめた。
「可哀想に」
「そーね」
可哀想かどうかはともかく、災難であることは間違いがない。
んーん、というような声をあげて女が伸びをする。腹はまだ薄く、言われなければとても妊婦とは分からない。
「この人、すごく上手。今までの足ツボで一番」
「そうなんだ」
「あなたのほうは?」
「怪力でいい感じ」
女は宮城に施術しているおばさんに何か話しかけ、二人はしばらく言葉を交わした。
「あなたすっごく健康でしょって言ってる。びっくりするくらいどこも悪いところがないって。日本人て必ずどこか凝ってるから、珍しいみたい」
「それだと俺がバカみたいじゃねえかよ…」
たぶん花道とかもどこも凝ってねえぞ、なんていうことはここで言っても仕方がないので黙る。
「あなたってさ、何度も浮気されてるの?」
女は憐れんでいる風でもなくそう問うた。
「俺が知る限りは初めてだけど。なんで?」
「私のことを知っても、全然驚かないから。元々信用してないの?」
「あー、信用はしてないね」
「あはは!どうして?」
女は何かツボにハマったらしくけらけらと笑っている。
「…どうしてだろ」
今まで浮気されたことはないと思ってきたし、金にだらしないわけでもない。昔のことを後悔しているから、宮城が殴ろうが蹴ろうが絶対反撃してこない。一般的な観点から見たら、良い彼氏、なんだろうと思う。だから三井を信用していないのは多分彼のせいではなくて、宮城の性分に起因する。
「いつから彼と付き合ってるの?」
「俺が大学出てからだから、4年…や、5年くらいか」
高校時代から知っている男同士で記念日なんか祝ったりしないから、何年目かなんて普段は考えもしないので即答できなかった。
「長いのね。だから合鍵ももらえるんだ」
「……」
「私ね、彼の部屋に行ったことはないの。いつも彼が私の部屋に来るだけ。前に彼が寝てる間に手帳をこっそり見たことがあって住所は分かってたから押しかけたの。子どもができたって話さなきゃいけないのに、突然会ってくれなくなったから」
「へえ…」
自分の恋人の悪事を聞かされるのは何ともいたたまれないものである。三井がこの女と会わなくなったのは、自分が日本からやってくる予定があったからなのか。それとも何か別の理由があるのか。いずれにしても、未来ある学生を妊娠させている時点でクズでしかない。
足ツボマッサージを終えた女は、うつぶせの宮城のすぐ横にスツールを持ってきて腰を下ろした。変な距離感の女である。
「日本て、同性婚はできるの?」
女は、サービスのスイカに齧り付きながら言う。
「無理無理。てか別にしたくもない」
「じゃあ、彼のこと私にちょうだい。私と赤ちゃんと一緒にいたほうが幸せになれる」
会話の内容はそれなりに重たいのだが、女がスイカを口いっぱいに入れてもぐもぐと咀嚼しているので、どうも深刻さが足りない。おかげで宮城もいまいち真剣に悩むことができなかった。
「それはあの人に訊いてみて。俺が決めることじゃねえし」
「そうね。そのために待ってるんだもの」
女はスイカの皮を屑籠に放り込むと「あなたこれ食べる?」と言って、返事も待たずに宮城の口にマンゴーを突っ込んできた。
マッサージ屋を出て歩き出すと、女が宮城のシャツの裾をくいくいと引いた。
「午前中からずっと部屋の前にいたからお腹空いてるの。フルーツじゃ全然足りない。何か食べましょ」
何がいい?と訊かれたのでカオマンガイと即答した。良いお店知ってるよ、と女は得意げに笑い、日本人エリアの中にありながらローカル感あふれる小さな店に案内してくれた。
「やっとご飯食べられる…!」
女は嬉しそうにテーブルの下で足をバタバタとさせている。
「てか午前中から待ってたとかマジか?このクソ暑い中無茶すんなよ、怖えな…悪阻とかねえの?」
宮城の妹は妊娠中ずっと悪阻の続く体質で、産むまで具合が悪そうだった。
「今のところない。うちのママも軽かったらしいから遺伝かな」
「よかったな」
しなくていい苦労をする必要はない。特に女は、と宮城は思う。
テーブルの向こうで女が頬杖をついて宮城をじっと見て、それから少し唇を尖らせた。
「あなた、いい人ね。彼より優しい」
「いや、どこが…」
女は視線を斜め下に落として、小さなため息をつく。
「私ね、彼がゲイかもって思ったことはあったの。クラブでボーイを買ってるって噂も聞いた。でも、どうしても好きで、諦められなかったんだ。方法なんて何でもよかった。女の子と付き合うことはできるんだから、子どもさえできれば、私のものにできると思ったの」
今日初めて、女の目に涙が滲んだ。
「やっぱり間違ってたよね」
妹がいるせいか、年下の女の涙には弱い。どうにもいたたまれず、テーブルの上のペーパーを取って、目尻からこぼれ落ちた涙を拭ってやる。
「間違ってるとか、ないんじゃねえの。あんたにはあんたの感情があるし、あの人にはあの人の言い分があんだろ」
「あなたは?」
ぐす、と鼻を鳴らして、女が宮城を見上げた。
「あなたの感情は?どうしたい?」
考えてもみなかったことを訊かれて、言葉に詰まってしまった。
「俺は別にどうなっても…」
そこまで答えかけて、宮城は口をつぐむ。
──そうだろうか?本当に?
もし三井がこのかわいくてちょっとクレイジーなタイ・ガールと一緒になって子どもを育てていくと言ったら。
何年か後に赴任期間が終わって日本に戻るとき妻子を連れ帰って、地元の仲間に紹介したりなんかするのだろうか。そのとき俺は平気なフリをして「三井さんに似てなくてかわいいですね」なんて言ったりするのだろうか。
まあそれはそれで仕方ない、のだけれど。
やっぱり数発はぶん殴ってやろう、と決めて宮城は指をポキポキと鳴らした。赤ん坊から父親を奪うことはできないから殺すわけにはいかないが、最低でも大事な差し歯は入れ直しにしてやる。
カオマンガイの後に屋台でナムケンサイを食べて、そろそろ帰ってくる頃かと二人で三井の部屋に戻ってみると、ちょうど三井が玄関ドアから外を覗いてきょろきょろとしているところだった。
「あ、やっぱ帰ってきてた」
三井もこちらに気づいてサンダルばきで外に出てくる。
「お前どこ行ってたんだよ?スーツケースだけ玄関に放り出してあって姿が見えねえから心配したろ」
宮城はそれには答えず、少し後ろに立っている女のほうを振り返る。
「アンタさ…あんまり人でなしなことしてやんなよ」
三井が女を見て、目をぱちぱちとさせた。
「誰だよ?その子」
「は?この期に及んでシラ切るとかマジで人間として…」
宮城が呆れてそう言いかけた時、女が宮城の肩をつついた。
「ねえ…この人は誰?」
「えっ?三井さん…てかあんたの、彼氏…じゃねえの?」
すると、女は驚いたように首を振る。
「違う。私の彼、もっといい男よ」
「は?これよりいい男ってどんだけだよ?ってそうじゃなくてさ…え、別人?」
宮城の取り乱した様子に、何だよ何喋ってんだよと三井が騒ぎだした。
「彼はもっと年上だもの。でもこの住所…部屋番号も合ってるのに」
女は小さなショルダーバッグから1枚のメモを取り出し、宮城に見せてくる。
「おい、俺未だに英語さっぱり分かんねえんだって。何話してんの?この子誰なんだよ?」
三井が二人の間に割り込んでくる。
「うるせえ。それよりこの住所どこ?」
宮城は女の手からメモを奪い、三井の眼前に突きつけた。
「半年ぶりに会った恋人にうるせえはねえだろ、まったく…見せてみろ」
三井はメモを受け取ると、そこに記された住所をたどたどしく読み上げた。
「ああ、このマンションなら一本裏の通りだぜ?名前が似てるからよく間違えられるみたいだな。あっちも日系企業の社宅になってんだよ」
「……!」
ここじゃないって、と女に説明すると、女は「嘘でしょ…」と額に手を当てた。
「ごめんなさい。本当に、あなたにどう謝ったらいいか…」
「俺はいいけどさ。やっぱ今からそっちに行くの?」
「もちろん」
女は迷わず頷く。
「えー…なんか心配なんだよな…一緒に行くかあ?乗りかかった船だしさ、って英語でなんていうのか知らねえけど」
男に逆上でもされたらと思うと、一人で行かせるのは心配だった。
「大丈夫。家に入らないで外で話すことにするから。色々ありがとね」
「いいって。とにかく気をつけろよ」
すると女はにっこり笑って、両腕を伸ばしてきた。そして「ねえ」と口を開く。
「あなた、幸せにならなきゃだめだよ」
次の瞬間には、ぎゅっと抱きしめられていた。花の蜜みたいな甘い香りが宮城の鼻をくすぐる。約束してね、と、耳元で優しい声がした。
横では三井が呆然と口を開けている。
タイ・ガールは、くるりと身を翻すと、ひらひらと手を振って去っていった。
しん、と場が静まって、宮城と三井は顔を見合わせる。
「お前…俺の目の前で女といちゃつくってのはどういう了見だよ?そもそもなんで着いて早々女引っ掛けてんだ?」
「それがさあ…」
「お前な!そんな展開ならまず疑問を持て!少しは俺を信用しろ!」
部屋に入って宮城から経緯を説明された三井は、目を釣り上げている。
「いや、よくある話かなって」
「ねえよ!少なくとも俺に限っては。お前が来てくれんのを楽しみに一度も風俗行ってねえどころか、ここ一週間はオナ禁に成功してる男だぜ?浮気なんかするかよ」
三井は偉そうに胸を張った。
「何すかソレ。かっこいいのか悪いのか分かんねえよ」
すると、三井は「え?」というようにきょとんとした顔になり、こう言った。
「お前の彼氏なんだから、かっこいいに決まってんだろうが」
宮城の胸の奥に、何かがトスッと音を立てて刺さった。
そうだ、この人ってこういう人なんだよな、と思いながら、厚みのある身体をそっと抱き寄せる。バカだし考え無しで宮城を怒らせることは多々ある男だが、ただの一度も"この人を失うかも"という不安にさらされたことはない。
「お前がそうやって喜んでるときに大人しくなって抱きついてくんのが一番好きだわ。すげえかわいい」
頭上から幸せそうな声が降ってくる。悔しいけど俺も幸せだわ、とひとしきり噛みしめ終わると、宮城はドンと三井の胸を突き飛ばした。
「じゃ、俺寝るから。おやすみ」
「え…今のはする流れじゃなかった…?」
「2時間だけ寝るから静かに待ってろよ」
追ってくる三井をリビングに押し戻し、寝室の鍵をガチャリとかけた。扉の向こうからは大の男が泣き声ですがる声がする。
「宮城!待ってるからな!」
「分かったからでけえ声出すなよ」
全ては一回寝てからだ。
宮城はとにかく疲れているのである。