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    円/ヒルマ

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    夏秋
    キリシマ兄が言い訳をやめる日の話
    兄弟過去編掲載前に支部に載せてたものそのままなので、何かとご容赦ください。

    #夏秋
    summerAndAutumn

    言い訳が長いにもほどがある1月も終わりのある明け方、目覚めたら隣で眠っていたはずの夏彦の姿はなくて、就寝時には確かに枕元の充電ケーブルに繋がれていたスマホも見当たらなかった。
    普通なら、シャワーを浴びているのだろうとでも思うところかもしれない。でも、そこは腐っても兄弟だ。妙な予感にベッドを出て玄関に赴いてみると案の定、夏彦の上着とスニーカーが消えていた。
    「あのアホ……」
    電話をかけてももちろん出ないし、メッセージを送っても未読のままだ。さてどうしてやろうかと思ったその時、思い当たった。夏彦は俺のワイヤレスイヤフォンを勝手に使っていて、いつもボディバッグの中に入れている。
    スマホでイヤフォンの位置情報を検索すると、10kmほど離れた海沿いにいることが分かった。俺の車は使っていないようだから、タクシーにでも乗ったのか、徒歩で行ったのか。
    「……クソガキ」
    俺は車のキーを手にして家を出た。自分が部屋着のままだと気づいたのは、車を出した後だった。

    時折スマホのナビに目をやりながら車を走らせている間も、舌打ちが止まらない。
    日の短い季節、午前5時の車窓はまだ真っ暗だ。あいつはなんだってこんな時間にフラフラしているのだと悪態をつきたいところだが、理由に心当たりはありすぎた。
    ──けど、俺が悪いんちゃう。どうにもならんことなんかこの世にいくらでもあるやろ。そもそも最初から……
    そんなことをぐるぐると考えているうちに気がついてしまった。こんなときでも、俺は悪癖から抜け出すことができない。

    ✳︎

    約二ヶ月前、連打されるインターフォンを訝しみながらドアを開けたら、そこには弟が立っていた。
    「入れろや」
    返事を待つこともなく、夏彦は肩で俺を押し退けて入ってくる。
    「なんでやねん、ちゅうか何や……その荷物」
    夏彦かは大きなスーツケースを引き、大きなボストンバッグを二つ担いでいた。
    「オフの間はこのへんにおることにしたんやけど、家あらへんから。後で段ボール類も届くから受け取っとけや」
    「ふっざけんな。金はあるんやから、チームに頼めばどうとでもなるやろ。それが嫌なら実家帰れ」
    「母ちゃんに悪いやろ? 腰痛いのに、俺が帰ると張り切るし」
    「ああ、まあ……それはそうやけど」
    息子二人とも早くに親元を離れたせいか、両親は俺たちが実家にいると尽くしすぎてしまう。父はまだ働いているし、母はこの数年腰痛に悩まされているので、俺も帰省は長くても数日に留めるようにしていた。
    行儀悪く靴を脱ぎ捨てて上がり込み、勝手に冷蔵庫を開けながら夏彦は言う。
    「迷惑かけるならカス相手に限るやん。リーマンなんて暇やろうからこっちの心も痛まへんし」
    「暇ちゃうわ、ぶっ殺すぞ。ちゅうかお前……」
    正月のこと忘れたんか、と言いかけたが、考えた末に飲み込んだ。
    「ん?」
    夏彦は、冷蔵庫から出したミネラルウォーターのペットボトルに口をつけかけたままわずかに首を傾げた。
    「や……なんもない」
    小さくそう答えた俺の顔を見た夏彦はハッと笑うと「荷物片しといてな」と言ってさっさと居室に入っていった。

    そんなふうに、始まりこそ夏彦らしく突然かつ横暴だったが、ふたりでの生活は滑り出せば案外どうにかなるものだった。
    プロの世界に入って三年、先のシーズンでは先発投手としてチームをリーグ優勝に導いた夏彦は、人間教育にも厳しい監督のもとで過ごすうちに多少の常識は身につけていたらしい。来て数日経つ頃には、ソファで寝ざるを得ないこと以外は俺の生活に支障はなさそうだと思えるくらいには器用に居候をやっていた。
    だからこそ、なぜ今さら来たんだという思いは拭えなかったが。

    振り返ってみれば、かつて俺と夏彦が不仲だった時期というのは、そう長くはない。その最中にいるときは永遠のようにも感じられていたが、それは単に、十代の頃は生きている世界が狭かったからだ。
    大学野球とプロに分かれた頃から、弟は格下の兄に抱いていた奇妙な執着を捨て、普通に接してくるようになった。だから俺も普通に接した。
    これからは『普通の兄弟』をやって、心配や迷惑ばかりかけてきた父母に少しは親孝行するのもいいだろう、なんて思ってもいた。
    だから、今年の正月に実家の自室で眠りの淵にいた真夜中、夏彦が布団に潜り込んできたときは本当に驚いたのだ。
    俺の顔の両横に手をついて見下ろしてくる夏彦は、あまり見たことのない真顔で「大声出すなよ」と囁いた。
    抵抗はしなかった。いくらなんでも掘られることはなさそうだったし、もし抵抗したところでプロの選手の体格に敵うわけもない。夏彦の手の中で二人がほとんど同時に果てたとき、心の内で、これはどうしようもないことなのだと誰にともなく弁明していた。
    最後に俺の肩口に顔を埋めた夏彦は、好きや、と呟くように言った。
    そんなんガキの頃から知ってるわ、と思ったが口にはしなかった。夏彦は俺の沈黙を正しく拒絶と受け取ったようで、静かに部屋を出ていった。
    翌朝は何事もなかったように顔を合わせて、その帰省が終わったら会うことも連絡を取ることもなかった。
    だというのに。

    夏彦が居候し始めてから一週間ほど経ったある夜のことだった。
    ソファでぼんやりとテレビのニュースを眺めていたら、夏彦が風呂から出てきた。
    頭にタオルを被った夏彦と目が合う。夏彦は何を思ったか俺の背後まで歩いてきて、ソファの背もたれに手をつくと、俺を見下ろした。つられて俺も首を逸らすと、逆さまの夏彦と再び視線が交わった。
    夏彦の顔がゆっくりと降りてくる。よく拭いていない髪の毛先から俺の頬に雫が落ち、それから唇が重なった。
    「……なんで今さら?」
    唇を離した夏彦を見上げて絞り出した俺の声は掠れていた。夏彦は背もたれに肘をついて、瞳を覗き込んでくる。
    「兄貴は昔っから往生際悪いし、自分が野球やってるうちは尚更『うん』て言えへんと思ったし」
    「……」
    こいつはやっぱり本当の馬鹿ではない、と懐かしい絶望を感じる。夏彦はそんな俺の顔を見て、ふうと短いため息をついた。
    「ええ加減、もう気ぃ済んだやろ。言い訳が長いにもほどがあるわ」
    図星を突かれて、急には言葉が出なかった。
    「俺にしちゃ、めんどくさいカス兄貴に辛抱強く付き合うたと思うんやけど?」
    「……お前、俺のこと大好きなくせにホンマ口悪いな」
    「兄貴は俺のそういうとこがかわいいと思ってる」
    「自分で言うなや」
    手を伸ばして、夏彦の髪から垂れる水滴を拭く。散々迷って、俺は結局口を開いた。
    「お前がおらんくても、生きていける思たんや」
    人生で、何度も何度も同じ決断をしてきた。そうするべき理由なら、いくらでも論うことができたから。
    「……カスやな。めっちゃカス。ホンマにカス」
    言葉とは裏腹に、夏彦からついぞ聞いたことのない、温いシャワーみたいに穏やかな声が繰り返し降ってくる。
    それがどうにも、好きや、そばにいてほしい、としか聞こえなくて、俺の長年の足掻きは全部無駄に終わったんやな、なんて思いながら俺は夏彦の後ろ髪に指を差し込んで、そっと引き寄せた。

    ✳︎

    あれから二ヶ月。当然頻繁に喧嘩をしながらも、それなりにうまくやってきたつもりだった。
    夏彦は一度手中に収めてしまえば扱いはさほど難しくなく、ごく稀に気が向けば、俺の言うことを素直に聞いたりもした。
    そうしてここのところは奇跡的に十日ばかりも喧嘩のない日々を過ごして、昨夜は昔の自分が見たら卒倒するような甘ったるいセックスをして、人間は変わるものだし慣れとは恐ろしいものだなどと思いながら眠りについたというのに、起きたらこれだ。
    夏彦はやっぱり夏彦で、俺は結局俺なのだった。

    イヤフォンの位置情報に従って辿り着いた場所で車を停め、防波堤から降りて砂の上に踏み出す。まだ暗い浜辺に見渡しながらしばらく歩くと、コンクリートの階段に座る大柄な人影が見えた。
    「何時やと思てんのやクソガキ」
    近づいて声をかけると、海のほうを眺めていた夏彦はこちらに視線を寄越した。
    「キャンプインの前に風邪でも引いたらどないんすんねん」
    「俺はカス兄貴と違って自己管理できてます〜。そっちこそスウェットのままやろが」
    「そうやねん。お前の上着貸せや」
    「体が資本のプロ野球選手に何言うてんの?」
    眉を顰めた夏彦の隣に腰を下ろす。思ったより潮風は強くない。
    「で? なんで家出したんや、夏くんは」
    十数年ぶりに口にした幼い頃の呼び名に夏彦は一瞬ハッとしたようにこちらを振り向いたが、すぐに海に視線を戻した。
    「まあ兄貴は元々カスやし? 俺さえ迷いがあらへんかったら、そっちがどんだけゴミクズメンタルでもええと基本は思てるけど」
    「鬼?」
    「いつまでしけたツラしてるんやろとか、いつになったら疑問持たんようになるんやろとか、考えることくらいあるわ」
    静かな声だった。夏彦なりに長い間傷ついてきたのだ。その傷が弱さとして表出しないだけで。たぶん俺はそれをずっと知っていたのに、知らないふりをしていた。
    「兄貴の真似してウジウジしてみたらなんか分かるんかな思て、こんなとこ来てみたけど。まあ、結局カスの心理はカスにしか分からんみたいや」
    あっそ、と吐き捨てて夏彦の爪先を軽く蹴ると、倍の強さで蹴り返された。
    「お前ってホンマ、俺のことばっか考えてんねんな」
    もちろん、揶揄うつもりで口にした言葉だった。でも夏彦は怒ることも笑うこともなく「当たり前やろ」と言って、俺のほうに向き直った。
    「もしかして忘れてるんちゃう?」
    「何を」
    「俺は、兄ちゃんのいてへん人生なんて一秒も知らんねんで」
    「……!」
    反射的に膝で立ち上がって、夏彦を抱きしめていた。夏彦は驚いたように一瞬身を固くしたが、すぐに身体の力を抜いてもたれかかってきた。

    冬の朝だというのにやけに穏やかな波が寄せては引いていくのを、夏彦を胸に抱いて眺める。
    「順番は逆になるけど、俺、お前より長生きしたろかな」
    「そうして」
    はるか昔、生命は海から生まれたという話をふと思い出した。
    ざわざわという波音が鼓膜に心地良い。
    その音が、夏彦が初めて触れてきたあの日なんかよりずっとずっと前、こいつが俺の弟として生まれてきた瞬間からもうすべては始まっていたのだと告げて、俺の長いにもほどがある言い訳をそっと終わらせてくれる。

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