解夏【一】
雪村の瞳は、不思議な色をしている。
青っぽく見えたり、緑に見えたり、光の加減で暗い灰色になるときもある。どこかで見たことがある色のような気はするが、その色の名前を昼間は知らない。冬の空気みたいに冷たそうだとも思うし、夏に食ったら美味そうだとも思う。
いまは夏で、ふたりは窓を開けたまま、シーツに溶け込むみたいに静かにセックスしている。昨日までの殺人級の暑さがふいにおさまった珍しく涼しい明け方で、雪村が「窓を開けてしたら気持ちよさそうだろ」と言ったから。
いつどこでどういうふうにするとか、昼間は全然関心がない。だから、雪村の提案とか要望に対して基本的にNOと言うことはない。雪村はいつだか「お前は精神的マグロだな」とか言って笑っていた。結構な言い草だが、あながち間違いでもないと思う。
網戸から吹き込む朝の風が肌を撫でていく。「あ」という小さな声の後に、雪村の体が震えて、昼間の二の腕に少しだけ爪が食い込んだ。
ゆっくりと瞼が開いて、不思議な色の瞳が昼間をじっと見るから、昼間もじっと見返す。
「俺の目の色、気になる? もっとこっち来て、よく見てみて」
雪村の手が昼間の後頭部を引き寄せた。
「地球みたいな色だろ?」
ああそれだ、とすっかり腑に落ちた。緑で、青で、灰色で。これは、地球みたいな色なのだ。
「だから俺の目を見てるとき、昼間は宇宙にいるんだよ」
「……」
いつも雪村の話すことの三割くらいは、昼間には理解できない。でも、それでいいし、それがいいと思っている。
【二】
「おかえり。よくやった」
玄関で出迎えた雪村が、昼間が持ち帰った竹を受け取って偉そうに頷いた。
「かぐや姫はいたか?」
「誰だよ、それ。つうかめんどくせえもんリクエストすんな」
今朝カブトムシを採りに行くと言ったら、山に行くなら竹を1.5メートル分、半分に割って持ち帰れと命じられたのだ。
雪村は竹をシンクにつっこんでスポンジで洗っている。
「どうせ山に行ったんだから、ついでだろ」
「全然ついでじゃねえわ。クヌギ林の中に竹なんかねえし。それよりこんなもん何に使うんだよ」
すると、布巾で拭いた竹を担いで、雪村が得意げにリビングのドアを開けた。
「これです。じゃーん」
いつも使っているローテーブルの上に、ブックエンドが四つ並べられている。その下には漫画の月刊誌や週刊誌が何冊か置いてあり、傾斜になるように高さ調節がされていた。ブックエンドの上部には、半円のように折り曲げた針金も固定されている。
「もしかして」
「お見込みのとおり。最後にこの竹を載せたら、ハイ完成」
半円の針金の上に雪村が竹を載せると、見事に竹のスライダーが出来上がった。
「流しそうめんの装置なんて初めて現物見たわ。お前、無駄に器用だな……」
「そうなんだよ。無人島に何かひとつだけ持っていくなら、絶対俺にしたほうがいい」
雪村は、昼間をスライダーの傍に据える。スライダーの下に氷水を張ったボウルを置いて、上から計量カップに入れた水とそうめんを流す方式らしい。
「ほら食え、昼間」
雪村は昼間に箸を持たせると、いきなりそうめんを放流した。
「うわ、意外と速えな」
麺の半分が割り箸をすり抜け、ボウルに落下していった。捕獲できた分を麺つゆにつけて、なんとなくいつもよりゆっくり口に含む。
「うまい?」
「うまいけど、普通に食ったほうが効率いいよな」
それはそうだろ、と雪村が唇をとがらせる。
「でも、夏って感じが味わえるだろ? それが主目的だ」
「夏なんてカブトムシ採れるとこ以外は全部嫌いだし」
すると雪村は肩をすくめて軽くため息をつく。
「そうか、残念。夏の思い出になるかと思ったのに」
「まあ、お前がいいならなんでもいいけど」
「はは、お前はいつもそれだな」
それから、ふたりとも無言でそうめんを流しては食べた。食べ終わってスライダーを解体しながら、雪村がしみじみと言う。
「それにしても、流しそうめんて準備から最中から片付けまで全部めんどくさいよな。次からは普通に食べよう」
「だろ」
【三】
昼間が育った団地は、入居者の三分の二が母子家庭で、そのうちの半分が夜の商売で飯を食っていた。
昼間を十七で産んだ母親も、夕方になると化粧をして、むせるような香水の匂いをまとって仕事に出ていく女だった。昼間はその匂いが死ぬほど嫌いだった。
真夏のある日、中学生になってテンプレートのようにグレた昼間が着替えを取りに行くため久しぶりに家に帰ると、ちょうど夕方で、母が化粧をしていた。気持ちの悪い暑さの部屋で、壊れかけの扇風機が嫌な音を立てて母に風を送っている。
自分の背後を通りすぎる昼間を鏡越しに生気のない目でちらりと見た母は、はあとうんざりしたようなため息をついた。
「別にあんたがどこで何してようと知ったこっちゃないけど、子どもだけは作るんじゃないよ。あたしを見れば分かるでしょ」
人生おしまいなんだから、と母はいつもの香水を浴びながら言った。
あのとき母を殴り殺さなかったのは、人殺しが躊躇われたわけではなく、年少入りが嫌だったわけでもなく、大嫌いなあの香水の匂いが拳につくのが嫌だったからだ。
「お前、よく俺のこと嗅いでるよな。なに? フェチ?」
行内を移動中に二人で乗ったエレベーターで雪村の首筋に顔を突っ込んだら、笑いを含んだ声でそう言われた。
「いや。シャンプー変えた?」
「女子高生かよ。ま、変えたけど」
ほら着いたぞ、と雪村は昼間の腕を引いてエレベーターを降りる。
「前のシャンプーは香りが強すぎて、夏にはちょっとな、と思ってさ。今のほうがよくない?」
「いい」
【四】
「あーあ。夏が終わってくな」
雪村がため息混じりにつぶやいた。
あと一時間で職場に戻らなければならない八月下旬の夕方、ふたりは酒の代わりにサイダーの缶を持って、昼間の住むアパートの屋上にいる。雪村が、風通しのいいこの場所が好きだから。
「涼しくなるのはいいけど、今年も山に登らないまま冬を迎えることになりそうだ」
金属の手すりの上に頬杖をついて、雪村は昼間の顔を覗き込むようにする。
「なあ昼間。いつかは銀行を辞めてさ、ちゃんと夏休みのある仕事をしよう」
「まあ休みがねえよりはあったほうがいいけど……なんで?」
雪村は仕事熱心な人間ではないが特に休みたがりでもないし、銀行を辞めたら、なんていう話をするのは初めてだった。
「最初の年の夏休みは、俺の地元に一緒に帰るんだ。それで、次の年はお前の地元に帰ろう」
「俺は実家とかねえけど」
住んでいた団地は昼間があの町を出てすぐ取り壊されたようだし、母はどこでどうしているのか、そもそも生きているかどうかも知らない。
「俺はあるけど、別にお前を実家に連れて行きたいって話じゃないよ」
雪村は正面に向き直り、遠くを見やって再び口を開いた。
「俺、小学生のときめちゃくちゃいじめられててさ」
「え、お前が?」
うん、と雪村は頷く。
「あの頃はすごく背も低くて華奢だったから、標的になりやすかったんだよな。特に夏休みは大人の目がないからさ、結構なこともされたよ」
雪村はいくつかのおぞましい出来事を口にした。さほど深刻でもない口調で語られたそれらは、一体どうしたら小学生のガキがそんなことを思いつくのかと、吐き気がするほどの酷さだった。
雪村はくるりと体の向きを変えて手すりに寄りかかり、ちょっといたずらっぽく昼間に笑いかける。
「中学からは寮がある遠くの私立に入って、そこで覇権取っちゃったから今の俺がいるわけですが」
「なるほど……」
雪村はまた「うん」と言って、持っていた缶を足下に置いた。
「幸い俺は精神的には弱くなかったし、友達もいたから、嫌な思い出しかないってわけじゃないけど。でも、あの頃あったことが俺の代表的な記憶のままなのは、なんか違うって思うんだよ」
雪村の手が伸びてきて、昼間の横髪を耳に掛けた。ずっと缶を持っていたせいで冷えた指が、あやすみたいに昼間の耳朶を弄ぶ。
「お前と一緒に帰って、子どもの頃すごく長く感じた夏の帰り道を歩いてみたりして、それが意外と短く感じたりしたらさ。多分それが、俺にとっての夏の記憶になるだろうな」
──夏の記憶。
雪村の言葉を、頭の中で反芻する。
──夏の記憶。安い鉄筋造りの蒸し風呂みたいな団地の部屋。直射日光で劣化して割れたままベランダの床に散らばる洗濯ばさみ。深夜にあちこちから聞こえてくる貧困家庭の怒鳴り合う声。壊れかけのうるさい扇風機。いつも疲れていて不機嫌な、自分を産んだ女の顔。熱い空気に混ざって鼻を刺すあの香水の匂い。
どれも別に、いま昼間の足を引っ張ったり、動けなくさせるようなものではない。遠い過去に自分の時間をくれてやるほど、暇でも愚かでもない。ただ、あのいくつもの憂鬱な夏はなんとなくずっと続いていて、ひとりでは終わらせることができずにいる。
「珍しく考えてる顔してるな。嫌?」
「や、いんじゃね? ていうか俺は、お前がよければそれでいいんだって」
正直に言えば、自分の記憶は何かで上書きするほどの意味も価値もないような気もする。
でも今の昼間は、雪村がいいなら本当にそれでいいと思っていて、それはもし一緒にいるのが別の人間だったら起こり得ない感情だと知っている。
鼻先に雪村の唇が柔らかく触れて、離れていった。雪村は少しだけ泣きそうな顔をしているが、悲しいわけではなくて、きっとその逆なんだと分かった。
別にこれが夏の記憶でもいいんだけどな、と思うのだがうまく言葉にはできないから、昼間はただ、小さな二つの地球が確かに自分を映しているのを見ている。