君ありて幸福 カツン。
窓硝子が立てた微かな音に、男は文机から頭を上げた。
時計を見ればもうじき日付が変わろうとしている時分だった。周囲は夜半の空気が濃く漂い、揺らめくランプの頼りない灯りが壁紙を淡い橙に染めている。首を向けた窓の外は、ただ物言わぬ闇がしん、と広がっていた。
気の所為か。そう思い直し再び筆を取ろうとしたところ、今度はややはっきりと、硬質な音が響く。
こんな夜更けに訪ねてくるとはどんな不埒者か。
男は少しの警戒と不測の事態への期待を綯い交ぜにしながら窓枠へと近付き……、隠すことの無いその気配に苦笑して、眉尻を下げた。
「一体何時だと思ってるんだい」
うすく開けられた窓の隙間から細い腕が伸びてきたかと思えば、湿度を帯びた微温い空気と共にするりと小柄な体躯が入り込んでくる。まるで猫だな、と心中で呟く男を横目に、白い少女はワンピースの裾汚れをぱたぱたとはたき、俯かせていた顔を此方へと向けた。
「これ」
「ん?」
「良いから持って。そこに置いて」
ぐいぐいと押し付けられるようにして渡されたリュックの、思いの外ずっしりとした重さに面食らいつつ、大人しく言われた通りにする。少女はそのまま歩み寄ると、椅子に置かれたそれの中身をごそごそと漁り始めた。
男は黙って見ている。経験上、こうなった彼女は禄に答えないことを知っているからだ。
色とりどりの包みがテーブルの上へと置かれていく。少女の両の手ほどのそれらは、見たことの無い花が飾られていたり美しいリボンが蝶の様相を呈していたりと、一目でどれも手が込んでいるのがわかった。
全てを並べ終えたところで、爛々と光る瞳が男に向けられる。どうやら開けろということらしい。
戸惑いつつも、手近にあった薄い水色の包装を解く。
「……菓子?」
こんがりと焼けたパイ生地から立ち上るバターの香が、ふわりと鼻先を擽る。食した事は無いが目にした記憶はある。これは確か、モンドの伝統料理だった。
ふふん、と得意げに鼻を鳴らす少女に促され、次々と包みを開けていく。紫の薄紙からは桜を模したであろう上品な餅菓子、色鮮やかな花が飾られた包装には砕いたナッツをまぶしたキャンディ、透き通る蝶のとまる箱の中身は繊細な装飾を施された見目美しいケーキ。
「ちゃんとしょっぱいのもあるよ」指差す浅緑を解き、包まれていた陶磁器の蓋を開ければ、青葱が散らされたとろりと赤い肉団子。食欲を掻き立てられ無意識に喉が鳴る。だが、これが一体何だと言うのか。
未だ意図を測りかねる男に向け、少女はにんまりと口端を釣り上げた。
「いま何時」
「え? ああ、丁度零時を回ったところだ」
「うん、ぴったり」
かたりと、腰掛けた椅子が音を立てる。
「どれから食べたい?」
「……!!」
「ぜんぶ自信作」微笑む少女の言葉に、じわじわと頬が熱を持つのを感じた。目眩がするような歓喜に身体が打ち震え、男はぐっと拳を握り込む。
食と文化には密接な繋がりがある。
そこに住まう人々の営み、歩んできた歴史、その土地の宗教や矜持。そういったあらゆる物が溶け込み、口にすれば時折目の覚めるような驚きで満たされる。
眼前に並ぶのは、少女が手ずから用意した各国の多様な料理。正に彼女が辿った旅の軌跡であり、唯一無二のもの。
世界を股に掛ける旅人の、自分の為だけに用意された冒険譚を直接味わうことが出来るその幸福たるや!
「わっ」
倒れた椅子を無視して、込み上げる衝動のままやわい身体を抱き締めた。突然の男の行動に少々驚きの声が上がったものの、特に抵抗無く腕の中へ納まった少女にまた愛しさが募る。より強く抱くと、くすくすとした小さな笑い声が甘やかに鼓膜を揺らした。
「そんなに嬉しかったんだ」
「最高に嬉しい」
「ふふふっ、今日はいくらでも手合わせしてあげる」
「〜〜っ! もう君ってさあ……! はぁ……大体、何でこんな真夜中に?」
別に朝でも良かっただろう。言外にそう滲ませて問い掛ければ、細い肩がぴくりと跳ねる。
「……一番に、お祝いしたかったから」
夜の空気に溶けてしまいそうな声だった。熟した林檎のように染まる耳の縁に、恥じらいで震える睫毛がほんのりと赤らんだ蜜色に淡く影をつくる。
男は突如として腕に納めていた少女の身体を横抱きにすると、柔らかな寝台へ放り投げるようにして運び、その上に覆いかぶさった。目を一段と大きくし、抗議しようと開きかけた唇を己のそれで性急に塞ぎ、くぐもった声ごと呑みこむ。
抵抗する手足を抑え込み、捩じ入れた舌で知り尽くした少女の弱い部分を舐ってやれば、華奢な身体は直ぐに脱力した。拘束を解かれた愛らしい五指が縋るように男の胸元をぎゅっと握る。
どれほどの時間そうしていただろう。
絡めた舌を唇のあわいから抜くと、情欲に塗れた銀糸がぷつりと途切れた。瞳を蕩かし、息を弾ませた少女が不服そうに男を見上げる。
「食べて、くれないの?」
「今まさに食べようとしてるじゃないか」
「そうじゃない……!」
「アハハッ! 日が昇ってからでも構わないだろ? そうだ、その時は俺の故郷の紅茶を淹れてあげよう。きっと君も気に入るはずだ」
「あなたの誕生日なのに?」
「だからこそ、だよ」
少女が持参した料理は、香辛料が多く使われていたりしっかりと火を通してあったりと、どれも日持ちのするものばかりだった。
素直ではない遠回しな誘いに笑みを深め、男は白い首筋に顔を埋める。耳朶を掠めた少女の密やかな声は、夜の闇にゆっくりと滲んで消えていった。