偽装結婚タル蛍(タイトル仮) 花曇りの空は白くぼんやりとしていた。ヴェールのようにかかった薄い雲の内に、くすんだ光が閉じ込められている。雨の降る気配は無い。
緑少ない丘陵地帯から長閑な田園風景へ、そこを抜ければ山裾一面の森へと、窓外の景色はびゅんびゅん流れていく。窓の縁に頬杖をつきながら、蛍は見慣れぬ風景をあてもなく眺める。
全体的に靄がかったそれは、どこか現実味に乏しく感じた。
「結婚」
「そう。俺と夫婦になって欲しい」
ぴらりと摘んだ紙を揺らして微笑む男。その正面に座る少女の表情は訝しげで、甘やかなプロポーズの台詞とはほど遠い。
「お、お前ッ、いきなり何を言い出すんだよ!?」
「今回はなにを企んでるの」
「あっははは! 君たちは相変わらずだなあ」
言葉の通りだよ。からからと笑い声を立てたタルタリヤは、机上に置いた文書を指先でトン、と叩いた。
つられるようにして目を落とす。はっきりと記された冒険者協会の印は、蛍が常日頃見慣れたもの。ひっくり返して確認すれど偽造の線は薄い、間違いなく正規の契約書である。
依頼で呼び出され、遠路遥々ナタの地から来てみれば早速これだ。フォンテーヌは本日も快晴。午後の強い日差しが天井硝子を通して燦々としぶきのように降り注いでいる。
「……具体的な内容は?」
ハァ、と、一息ついてから、そうタルタリヤに問えば、片眉が態とらしく持ち上げられた。男のいきなりな行動にもだいぶ慣れたものだと思う。同時に、素っ頓狂な声を上げかけたパイモンの口は料理で塞いでやる。
「へえ。予想したよりも話が早いね、相棒。もっと疑われるかと思ったんだけど」
「今のあなたとは敵対する理由も無いし。それにわざわざこんな手段を用いるだなんて、何かしらやむを得ない事情があるんでしょ」
「ハハッ。やっぱり君に頼んで正解だった」
とある人物についての内偵調査。依頼概要だけならば簡潔だが、実際のところあまり容易な話ではない。「中々に狡猾な相手」そう零すタルタリヤ曰く、ファデュイの熟練諜報員をもってしても、些細な証拠が疑惑の男に辿り着くまでに数年の期間を要したらしい。
「だいぶ苦労をさせられたってぼやかれたよ。それだけに失敗が許されない案件だ、だから最後の詰めは執行官直々にとの命が下ったってわけさ」
「その人は一体なにを?」
「表向きには違法薬物精製。まあ、他にも色々とあるんだけど……、盗み出したファデュイの研究技術を悪用している、っていうのが主かな。人的被害も出ている。誓って今回は、君たちの言うような「悪事」ではないよ」
「情況はわかった。でも、それでどうしてわたしとあなたが結婚する必要があるのかが理解できない」
「言っただろう? 一筋縄じゃあいかない面倒な相手ならば、事は特に慎重に運ぶ必要がある」
「戸籍……」
「偽のね」
氏名、年齢、家族構成、生立ちから経歴と休日の過ごし方まで。辞書のように細かく並ぶ文字の羅列に、蛍の目が自然と剥かれた。加えて任務期間は延長有りの約一カ月。また随分と大掛かりだ。ここまでとなると、正直に言えば断りたい。いや、だが、しかし。
にこにこと微笑む男の顔と、これまでに見たことのない数字を見比べる。
懐は寂しい。活動範囲が広がるに伴いどんどん嵩んでいく渡航費用は青天井、日夜勢いを増すアビスに対抗するための武具の強化や生活費、更には大食漢の自覚がある自分達の食費。それらが合わさった巨大なモンスターが、日々の家計を常に脅かしている有様だった。
これから新天地へと向かうにあたり先立つものも必要である。素寒貧な旅人の現状にとって、それはあまりにも魅力的だ。
「オイラはどうすればいいんだよ」
ぐらぐら揺れる心の天秤を見透かしたようなタイミングでの言葉に、蛍はハッ、と我に返る。さすがに目立ち過ぎるパイモンを連れては行けない。
「任務中はフォンテーヌ三ツ星ホテルの最上階スイートを特別貸し切り。二十四時間のシークレットサービスに、三食間食遊興費。勿論、これら全て北国銀行が持とう」
「お、おぉ」
「それと……、これは俺からの個人的な気持ちだ」
撃沈。とどめの一押しにと書き加えられたゼロの数に、憐れモラの奴隷と化した少女は見事に項垂れることとなったのであった。
「もう、スネージナヤに帰ってるんだと思ってた」
ぽつりぽつりと、まばらに家屋が見え始めた風景を眺めながら徐ろに問いかける。タルタリヤは蛍の真正面に腰を沈めていた。
「俺もそのつもりだったんだけどね。まあ、あっちには他の執行官共もいるんだろうし、いつものことさ」
唸るような滑り出し口調だが、後半はずいぶんあけすけとしたものだった。元々感情の切り替えが早いタイプなのだろう。基本的に素直で、必要外の打算はしない。そういったところが、この男のどうにも憎めない部分でもある。
「寒くはないかい?」
「大丈夫」
視界外で長い脚が組み替えられる。首を向けた先、柔らかく細められた青とばちりと目が合って、ついぶっきらぼうな返事をしてしまう。
男は時折、少女にこういった気遣いを見せる。妹扱いなのか、そうではないのか。よくわからないそれがなんともむず痒く、身の置き場に困ってしまうものだから、蛍はあまり得意では無かった。
逃れるよう逸らした目端にパウダーブルーがうつる。蛍が身に纏う衣服は、タルタリヤが事前に用意したものだった。上品なシルエットのワンピースは素材も着心地も申し分ない。腰周りに控えめについたリボンが愛らしく、袖を通す際、ほんの少しだけ胸が躍ったことを思い出す。
「君のそういった姿は新鮮だね。悪くない」
そう言って笑うタルタリヤも、橙色の髪が映えるライトベージュにグレンチェックの入ったスリーピースと、普段とは全く異なる装いだった。別人に成りすますのだし当たり前なのだが、それにしたって嫌味なほどに似合っている。まさに遺伝子の勝利、外見だけであれば文句の付けようもない。
「なにか失礼なこと考えてないか?」
「べつになにも」
無駄に勘の効く男を軽く流し、蛍は手持ち無沙汰にスカートの裾をいじる。尚も注がれ続ける生暖かな視線に居心地の悪さを感じる。なせだかどうにも調子が狂うのだ。まだ目的地にすら着いていないというのに、依頼を受けたことを早くも後悔しつつある。先行きは暗い。
そんな折、ゴトンと、車体が一つ後方に揺り戻して止まった。
「やっとだ」
男の呟きに顔を上げる。
いつの間にやら地面は轍が目立つ未舗装の道から規則的な文様を描く石畳へと変わっていた。周囲はぐるりと建物に囲まれていて、垂れ込めた雲で空が低く見える。
タルタリヤはぐぐっと伸びをしてから立ち上がると、扉を開きタラップを下りた。サスペンションが軋む音と一緒に、此方へ向けてエスコートするように手が差し出される。
「準備はできてるね、my partner?」
「当然」
そっと握られた指根で、銀の指輪が白白と光った。