Home Sweet Home 青天。ほろほろと降ってくる陽の光の元、青年は砂丘のように緩やかに起伏した草原を歩いていた。
微風が身体を吹き抜ける。柔らかな緑の穂がそれに合わせて揺れ、ほのかな草いきれが鼻に通う。
男は久方ぶりに感じる青臭さに口角を上げ、視線を丘上へと向ける。煉瓦造の小ぢんまりとした家が段々と見えてきた。日盛りの白い陽射しが赤い屋根に反射し、その眩しさに目を細めると、邸宅前で小さく動く人影が映る。
そのまま歩みを進める男に気が付いたのか。小さな影は此方に向かって大きく手を振り、転がるようにして男の元へと駆け寄ってきた。
「パパ! おかえりなさい!!」
「ただいま、Принцесса」
胸に飛び込んできた少女を、広げた両腕で受け止めてしっかりと抱き締める。甘えるようにして胸元にぐりぐりと擦り寄る頭を優しく撫でてやると、輝くトパーズの瞳が上向いた。
「パパの言いつけ通り、ちゃんといい子で待ってたよ!」
「はははっ! えらいね。さすがは俺のお姫様だ」
僅かに屈み朽葉色の髪をさらりと避ける。小さな額に口づけを落とし、それに擽ったそうに笑う少女の様子に、男の頬が緩み幸福の笑みが浮かぶ。
最近あった些細な出来事、学校生活のこと、結婚して離れて暮らしている兄姉達が明日帰ってくること。
興奮で丸い頬を赤らませながら、近況の報告をする娘の話をゆっくりと聞く。小さな唇から発せられる声は、小鳥の囀りのようでとても愛らしく耳心地が良く。つい「可愛いなぁ」と愛おしそうに目尻を下げた男に、少女は不満気な声を上げる。
「ねえっ! ちゃんとお話きいてくれてる?」
「もちろんだとも。愛しいお嬢ちゃんの話は一字一句逃さないよ」
「ほんとうに? まだまだいっぱいあるんだからね!」
「お土産もあるんでしょ?」頬を膨らす娘の姿に、男の顔がまた溶け落ちそうになるほどに緩む。早く自宅へ戻ろうと急かす少女に腕を引かれつつ。珍しく傍にいない彼女のことを口にした。
「ママも家にいるのかい?」
「あっ、お花を摘みにいくっていって出ていったよ。まだもどってきてないの……」
「しばらく前なんだけど」不安そうに眉尻を下げる少女の前にしゃがみこんで目線を合わせる。そうしてそのまま安心させるようににっこりと、男は微笑みかけた。
「なるほど。それじゃあパパが迎えに行ってくるよ。少しだけ、待っていてくれるかい?」
「!! わかったわ! お茶の用意をしておくね、一人でできるようになったんだからっ!」
「それは楽しみだ」
ぱっと花が咲くかのように笑い、嬉しそうに胸を張る小さな頭をひと撫でする。すると少女はまた擽ったげに身を捩り、「ママを連れてはやくもどってきてね!」と声を弾ませながら駆け出していった。翻るベビーピンクのスカートの裾と跳ねる三つ編が遠ざかってゆく様をじっと見送り。男は踵を返した。
花が黄の絨毯を敷いたように綺麗に咲く。一面に広がる花畑は、午後の日差しを受けて柔らかく光り、遠くまで黄色く煙っているように見える。
そよそよと風に吹かれて音もなく揺れる草花の間を、男はさくさくと土を踏み締めながら歩いてゆく。
さらり。
男の目に映るのはきらきらと輝く繊細な金糸。
花畑の中心に生える大木の幹に凭れるようにして、人形のように美しい少女が眠っていた。
穏やかな呼吸に合わせて規則正しく上下する胸は、少女が深い眠りに落ちている証だ。太い枝に振るわれた葉の隙間から落ちる日差しが、白いワンピースの上にちらちらと散っている。
男はすぐ傍で身を屈ませると、そっと少女の頬に手を滑らせた。なめらかでしっとりと吸い付くような肌は、いつ触れても気持ちが良く一種の感動すら覚える。
頬に添えた手はそのままに、淡く色付くぽってりとした唇を親指でなぞる。僅かに開いた口の隙間から漏れ出る吐息が指先にかかり、男にぞくりと欲の感情が込み上げる。そのまま吸い寄せられるように唇を重ねると。伏せられていた長い睫毛がゆっくりと上がり、煌めく黄宝石が現れた。
「……ア、ヤックス? 帰ってきてたの……?」
「ん。ただいま、蛍」
目覚めたばかりでぽやぽやとしつつも、ふんわりと微笑みを浮かべる妻を愛おしげに見つめ、白い頬に口づける。
それを何度も繰り返すと、少女は擽ったそうに身を捩らせて笑いながら制止の言葉を掛ける。「残念」と苦笑した男はゆっくりと名残惜し気に身体を離した。
小さく欠伸をしながら身体を伸ばした蛍は、「ごめん、少し眠っていてしまったみたい」と申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ミシャにはもう会った? 一人にしてしまっているから早く戻らないと」
「大丈夫さ。お姫様はちゃんといい子にしていたよ」
「そう、よかった」
安堵で頬を緩め、帰らないとと立ち上がりかけた蛍に、アヤックスは「よっ」と抱きついた。腕の中で上がる驚きの声を無視して、小さく柔らかな身体をぎゅうぎゅうと抱き締める。
僅かに抵抗する首元に顔を埋めると、周囲に満ちた花の香りと共に少女の甘やかな匂いが鼻腔に広がる。ずっと恋しくて待ち詫びていたそれに、アヤックスは長く息を吐き出した。
そんな男の様子を見て、蛍は仕方ないと言わんばかりに小さく溜息を零し、大きな背中をゆるゆると撫でる。
「どうしたの」
「……君にはやくあいたかったんだ……」
「耐えられないかと思った」と掠れた声で呟く。疲労の滲んだ男を労るようにぽんぽんと優しく背を叩いてやると、身体を包む腕の力が強まった。
「おかえりなさい。アヤックス」
風に紛れてしまいそうな。小さく軽やかな声が柔らかく耳に響き、男はまた安堵の息を吐く。抱き合ったままの二人を木漏れ日があたたかく照らし、花の香りを含んだ緩やかな微風が頬を撫で、ゆったりと穏やかな時が流れてゆく。
暫く蛍の首元に顔を埋め匂いを嗅いだり金糸の毛先を指先で弄んでいたアヤックスだが。ふいに、白い首筋にれろりと舌を這わせた。
「…っ ちょっと、なにして……!」
「んー……甘いなぁって」
もっと食べたい、と男は慌てる少女の制止も聞かずちゅっ、ちゅっとリップ音を立てて吸い付き、柔肌に赤い痕をつける。その度にびくりと跳ねる腰に気を良くし、服の隙間から胸へと手を延ばそうとすると。堪りかねた蛍の腕に力が入り、ぐいっと身体を離された。潤む瞳が抗議をするようにアヤックスを見上げる。
「今は、だめ……っ」
「ええー、残念。……じゃあ後ならいい?」
「……それなら、いい。」
少しの逡巡の後、頬を染め上げ照れたように視線を逸らす少女に男は破顔する。彼女はどんなに時を重ねようとも、いつまでも可愛らしく初々しい。
「あははっ」満面の笑みを溢しながら蛍を抱き上げる。すると、あっと小さく声が上がった。
「そのバスケットも取って」
「ずいぶんといっぱい摘んだね」
「明日はお兄ちゃんも来るからね」
「そうか、もうそんな時期か」そう言いながら片腕で蛍を抱えたタルタリヤは、こんもりと花の詰まったバスケットを手に取る。
腕の少女をあまり揺らさぬよう、ゆっくりと歩を進めつつ「何年ぶりだっけ?」と記憶を掘り起こすように問いかけた。
「10年ぶり…かな、イヴァンに子供が産まれた年だったから」
「そうか、もうそんなに経つんだね」
「あの時のあなたの大泣きっぷりはすごかった」
「〜っ、やめてくれ。もうそれは蒸し返さないって約束だろう」
「それに、後にも先にもあんなに泣いたのは長男の時だけだ」と恥ずかしげに呟く男に、蛍は声を上げて笑った。
「次に君のお兄さんが来る頃には、俺達も旅立ちだ」
「……アヤックスは、本当に良いの?」
男は話題を変えるようにして口を開く。そして、ふっと変わった空気に気遣わしな視線を寄越した蛍に向け、安心させるように微笑みかけた。
「今更だろ? 親父もおふくろもとっくに看取ったし、弟妹達の結婚式にだって出席した。何も思い残すことはないよ」
あとは最後の小さなお姫様が王子様の元へ行くのを見送るだけさ、とおおらかに笑って男は言葉を続ける。
「それに、君と共にいるために神の玉座を下した。もうこの世界に神は必要ない」
「わかっているだろう?」深く昏い、溺れてしまいそうな海の瞳が少女を見つめる。少女が愛する、青い瞳。
それを見つめ返した蛍は、くすりと笑みを零す。
「それなら、お兄ちゃんとももう少し仲良くならないとね」
「俺は仲良くしたいと思っているんだよ?」
苦々しく顔を歪め、「お義兄さんは君のことが大好きだから俺には手厳しいんだ」とぼやく男にまた少女は笑い声を上げる。
「……まあ、認められるように頑張るよ」
「そうして」
笑いながら蛍は、愛しい夫に口づけた。