DESTINY小さな紙袋の中身をちらりと見る。昨日遅くまで試行錯誤してラッピングしたクッキーが窮屈そうに入っていた。
不自然じゃなく、それでいてさりげなく、なんでもない日にプレゼントを渡す。中学二年生にとっての大人っぽいとは、その程度だった。
あいつが引越しするから手伝ってくる、と父さんが出かけたのが二週間前。
私が生まれて少したった頃、故郷の秋田から今の家がある埼玉に越した時、やはり同じように山王バスケ部が力を貸してくれたらしい。
恩返しがやっとできると張り切っていた。
夜遅くにへとへとになって帰ってきて、お土産として私にくれたのが、彼の新居の住所だった。
そろそろダンボールなんかも片付いて落ち着いた頃だろう。引越し祝いも兼ねて渡すものとしては、これ以上なくぴったりだった。
調理実習で作ったクッキーは、我ながらなかなかよく出来たと思う。見た目はちょっと不格好だけど。父さんは私の作ったものをなんでも絶賛するから信憑性に欠けるが、母さんが美味しいと言ってくれたから、多分大丈夫。
何度も確認したはずなのにやはり不安になって、空色のワンピースのポケットからメモを取り出す。丁寧な字で綴られた住所とサイン代わりのウサギ。『いつでも歓迎ピョン』という吹き出し付きの。
地元とは比べものにならないくらいの人混みを抜けて改札を出る。何度か両親や友人と東京に来たことはあるが、一人で降り立ったのははじめてだ。軽い足取りで駅からほど近いマンションへ向かう。緊張するくらい綺麗なエントランスを通り、慣れないオートロックの機械を操作する。
メモに書かれた部屋番号を打ち込み、ドキドキしながら呼び出しボタンを押した。十数秒後、部屋主が応答をする。
自分が想像していたのとはだいぶ違う声で。
「…はい」
「あ…え、あの、わたし」
「…お?あれ?どした?」
「その、クッキーつくったから」
「おん、とりあえず上がってきな」
相手にそう言われ通信が切断される。目の前のガラスドアが解除され、慌てて中へ駆け込んだ。エレベーターに乗り、さっきとは違う鳴り方をしている胸を押さえる。
こんなに朝早くに何故来ているのか、何をしていたのか。
いや、そもそも、いつ日本に来ていたのか?
疑問は尽きないまま、気づけば目的の表札が目に入る。
〈深津〉
インターホンを押す前に、扉は開いた。
「久しぶり!よく一人で来れたなぁ!」
半年ぶりに会う人は私の頭を撫でると、挨拶がわりの軽いキスを額に落とす。
「ひ、さしぶり。日本、帰ってたんだね」
「おー!昨日こっち着いてさ、今日か明日あたりに河っさんたちに連絡しようと思ってたんだよ」
つーかさ!と肩を掴まれ、じっと見つめられる。
「ここ来ること、深津さんに言ってた?」
「…ごめん、言ってない。父さんにも…いつでも来ていいっていわれたから…」
「あーいや別に怒ってるとかじゃねーよ?ただなんかあったら心配だし、駅まで迎えとか行くし、そーいう事な」
「…かずくんは、どうしたの」
「ん…まだ寝てるよ。お前が来るって知ってたらなあ…」
そっか、とちいさく返事をして安物の紙袋を渡す。わーうまそ!なんて無邪気に笑っている顔を、何故か直視出来ずにいる。
息を吸い込んで、静かに言葉を紡ぐ。
「栄治は、なんでここにいんの」
「…はは、なんでだと思う?」
玄関に立ったまま動けなくなっている私を、目の前の男はただ見下ろしていた。
知らない。
こんなのは、私の知る沢北栄治じゃない。
「Tシャツ、かずくんのだよ」
「あー、そっか。…貰った大事なやつだって言ってた。勝手に着て悪い」
「…あの、それ渡しにきただけだから、帰るね」
背を向けてドアに手をかける。本能的に何かを理解した。
今、この玄関から先は、私の居場所はないのだ。
「…ん、気をつけてな。家着いたら連絡しろよ」
「…それ、かずくんにあげてね」
声に涙が混じっていることに、この人は気付いただろうか。
気付かないわけがない。
それが悔しくて、あまりにも子供っぽくて、みじめだった。
「あのさ」
ぴたりと止まって振り向かずに次の言葉を待つ。ふーっと息を吐き、彼は私に言った。
「俺、相手がたとえお前でも、この人だけは譲れねえから」
そう、言い終わる前に扉を開けて早足でマンションを出る。これ以上ここにいたらおかしくなってしまいそうだった。ちょうどホームに入ってきた電車に飛び乗り、遠くなっていく街並みを見ながら溢れる涙をぬぐう。
栄治の言葉の意味は、嫌でも分かってしまった。
朝早く友達の家に行くと言って出たのに、昼前に帰ってきてしまったものだから、ケンカでもしたのかと両親は私の顔を見るなり質問してきた。泣き腫らした目でなんでもないよ、と答えて自室に向かう。ベッドに倒れ込み、ワンピースが皺になってしまうかも、なんて考える暇もなく目を閉じた。
家に着いた連絡は、しなかった。
〇
トントン、というノックの音で眠りから目覚める。あれからどのくらい経ったのだろうか、空は既にオレンジに染まっていた。「入っていい?」という母さんの声に、肯定の言葉を返す。ドアを開けてそのままベッドに腰掛けたので、私も身体をむくりと起こした。
「沢北くんから電話あったよ。ちゃんと家に着きましたか、って」
「……うん」
「深津くんの家に行ったの?」
「……行った。黙っててごめんなさい」
「ふふ、怒ってないよー。ただ、そうだなぁ…」
ぽんぽんと背中を撫でられる。あれだけ散々泣いたのにまた溢れてしまいそうで、慌てて目元を隠した。
「…びっくりした?」
「わ、かんない…だって、その、二人は…」
「うん」
てのひらで抑えても抑えても、堰を切ったように流れる涙は止まらない。しわくちゃになってしまった空色が、水分を含んで青くなっていた。
「っ…でも、二人のことがだいすきで、私は…それは、何があっても、絶対かわんないからっ…」
「うん」
「だからっ…かずくんに、ちゃんと言わなきゃって思ったの…自分の気持ち、伝えないとって…」
「ん…そっか。わかった」
ちょうどその時、家の前に車の止まる音がする。窓をちらりと覗くと、黒のセダンから顔を出した人物が私の名前を呼んだ。慌ててサンダルを突っかけて外に出ると、そのまま車に乗るように言われる。行っておいでと手を振る両親に見送られ、助手席のドアを開けた。
暗くなり始めた高速道路を走りながら、とうとう私から言葉を発する。
「…来るんなら、連絡してよ」
「そっくりそのままお返しするピョン」
「…じゃあ、おあいこで」
そうしてまた静寂。ふと窓に反射した自分の顔の酷さに溜息をつき、カーラジオのスイッチを入れた。題名も知らない曲がこっちの空気などお構い無しに響き渡る。ふと、妙に耳に残るメロディと特徴的な歌声が流れてきた。じっと最後まで聞き、思わず笑ってしまう。
「この歌、私みたい」
「…ユーミンがわかるとは、マセてるピョン」
「だって、安いサンダル履いてるし」
「車が緑のクーペだったら完璧だったピョン」
ふ、と横顔がうっすらと笑みを浮かべる。試合中のポーカーフェイスからは想像も出来ないような、優しい顔だった。
「そういえばさ、これどこ向かってるの?」
「海」
潮風が頬を撫でつける。昼とは全然違う、真っ黒で大きな波が遠くでしぶきを上げた。一歩進むごとに隙間から入ってくる砂がうっとおしくて、足取りは重かった。立ち止まって名前を呼ぶ。ざあ、と風の音にかき消される前に、前を歩く人は振り向いた。
「…クッキー、食べた?」
「人生で食ったクッキーで一番うまかったピョン」
「ふふ…そっか、良かった」
ワンピースの裾が揺れる。心臓がバクバクと、痛いぐらいに鳴っていた。ぎゅっと震える手を握りしめて、沈黙をやぶる。けして目は逸らさずに。
「好きだよ」
「かずくんのことがずっと、好き。大好き」
「…ありがとう」
膝をついて私の手を包み込む。こわれものを扱うかのように、王子様がお姫様にするように、初恋の人は甲に唇をつけた。
「でも、ごめん。俺とは望むような関係にはなれない。それは子供だからとか、河田の娘だからとかじゃない。俺自身の理由で」
「うん」
「ただ、これだけは知っていて欲しい。俺はどこにいても、何をしてても、お前に呼ばれたらいつだって飛んでいく」
「…かずくんがアメリカにいても、来てくれる?」
「当たり前ピョン」
すら、と長い指が目から流れる海をすくう。すぐ泣くピョン、なんて、笑って。
「…栄治よりはましだと思う」
「いい勝負だピョン。…そういえば」
「なに?」
「あのクッキーまた作って欲しいピョン。俺も食べたかった、って泣いてたピョン」
〇
あれからちょうど一週間後、土曜日。私は両親と共に再びあのマンションを訪れていた。忙しい元山王バスケメンバーが予定をこじ開けてくれ、奇跡的に集まれたのが今日だったのだ。
リビングに通され、既に実家のようにくつろいでいるみんなに挨拶をする。と言っても、我が家はしょっちゅう誰かしらの試合を観戦しているので、全然久しくなんかはないのだが。
その輪から外れてぽつんとソファの隅っこで丸まっている大人がひとり。蚊の鳴くような声で「…ウス」と言ったきりで、顔をあげようともしない。父さんが目線で野辺さんたちに訴えても首を振られ、完全にお手上げモードだった。
これじゃどっちが子供なのかわからない。嫌味のひとつでも言ってやろうと思ったのに、まるで私が悪者みたいじゃないか。うなだれているでかい背中に向かって声をかける。
「栄治はこっち来て手伝って!」
来訪前にキッチンを使う許可は貰っており、何でも好きに使っていいと言われていた。
持参した材料を並べていると、手を洗った栄治が怪訝そうに話しかけてくる。
「なあ…何すんの?」
「え、だって食べたかったんじゃないの?クッキー」
「…いや、まあ、うん」
「だから作るの!栄治は助手ね。粉ついちゃうからエプロンしてね」
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バター(食塩不使用) 100g
グラニュー糖 70g
卵黄 2個
薄力粉 200g
バターは常温に戻しておく。
薄力粉はふるっておく。
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手書きのレシピとにらめっこしながら、神妙な面持ちで砂糖を少しずつ秤に乗せる成人男性はかなり面白い。
ちょっと多かったり少なかったりして、なかなかピッタリ70gにならずに苦戦している。正直少しの差なら気にしなくても良いと思うけど、「お菓子は計量が命ってマイクに言われた……」とかなんとか。マイクって誰?と聞くと、アメリカで良く行くカフェのパティシエらしい。
このペースだとあっという間に日が暮れてしまいそうだが、そもそも材料が多い訳では無いので大丈夫だろう。卵黄を分ける作業までやらせるときっと悲惨な事になるから、ここは私が担当した。
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ボウルにバターとグラニュー糖を加え、クリーム状になるまで練る
卵黄を加えて更に混ぜ、薄力粉を一気に加え、ヘラで切るようにさっくりと混ぜる
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