散歩『散歩に行きませんか。』
春の香りが近づいているとはいえ、宵の空気は未だ刺すように冷たい、と思った。ゴールドハイムの外へ出るとそんな冬を実感させる潮風を纏って、シキさんが正面から出迎えてくれた。
「待たせてもうて堪忍な。……シキさんそない薄着で平気なん?」
「えぇ、少しくらい寒いぐらいが、脳を活性化させるのに好都合なので。それでは、行きましょうか。」
ランウェイでのターンのように小気味良く踵を返すシキさんの後に、従うように付いていく。そこから少しずつさりげなく歩幅を強め、慎重な距離を図りながら横に並んだ。
うちとシキさんは職業柄おそらく普通の人と比べたら移動がかなり速いであろう、二人足並み揃えて肩で風を切る絵面はもしかしたら少し滑稽かもしれへんな、なんて思ってるうちにあっという間に広い敷地を通り校門をくぐり抜けていた。声を発さない行進は優美な足音だけを響かせる。
いつもならここから真っ直ぐ駅に向かうところだが、シキさんのつま先は反対方向を向いていて、咄嗟に自身の身体にブレーキが掛かる。拍子にぶつかりそうになったのをシキさんも気付いたようで、彼も一旦止まり、ここで散歩を始めて始めてその声色を聴いた。
「おっと、大丈夫ですか。」
「あら堪忍。いつも行く方向と違ごうてたから、いやそれはそうやろって話なんやけど。」
「行き先も伝えずに失礼しました。海浜公園に向かおうと思っていまして。」
「……そう。」
そしてまた歩を始める。「なんで」とは聞かなかった。きっとあの時みたいにいつもと同じようにインスピレーションの手助けをさせるために連れ出したに違いない。それが当たり前にうちの仕事で、だから説明を求める必要はない。けど、
久々に会って、久々に話した。いつもシキさんは唐突で、それで喜怒哀楽を曖昧に揺さぶられたこともあって、ただそれは仕事なのでそんなものは関係ないしシキさんが知る由もないし、知られたくない。けど、
拒否したのは、自分で、それで、また振り出しに戻ったようだなんてそんな烏滸がましい台詞を、良く脳裏によぎらせることが出来たもんだと呆れた。だからそれを振り払うのに必死だった。適切な距離を保って歩くことよりも必死だった。
シキさんは歩くのが速い、せやけど、せやのに、少しだけ、うちのペースに合わせてくれている。さりげなく立ち位置を入れ替えいつの間にか車道側に立っていて、それが果たして日常だったか、なんて、そんなこと目を覚まして当たり前に日常であったとちょっと考えれば分かることを勘繰った。微妙に空いた身体の距離について、とか。
手を取ってエスコートしてもらって歩いた脚を揺らした木枯らしのこと、とか。
シキさんは努めて紳士で、世間が思うよりずっと優しい人で、それを誰にでも向けられる人、そういう人。とても尊い人。
ほら、答えはすぐ出たやない。
見上げた宵闇の向こうで梅の木が立ち聳え、凍えている。悴む自らの鼻先のように紅く色づいたその蕾は、この闇が溶けて朝陽が昇る頃にはぽっかり軽率に咲いてしまいそう。
ぼんやりと曖昧に膜張った視界の先、紅梅の先に、ぼんやりと、公園が見えてきた。
「着きましたね。」
真夜中の無音の散歩の道中、曖昧に聴こえた甘い声が潮風に滲む。