いつの日か、あなたに還るまで「ねぇねぇ、次みっちゃん来るの、いつ?」
夕飯後の食卓で、留学前の必要書類に目を通していた。母ちゃんがいる内に、サインだの何だの貰わなければならないから。やることはいつも山積みで、いくら時間があっても足りない。でも、焦ってることを素直に吐露するには、まだ心がおぼつかないでいる。
心が急いているのが分かる。煩わしいことに、こんな風にどうしようもなくなったときでさえ、ふと、あの人の顔が浮かぶようになってしまっていた。
そんな矢先、アンナに話しかけられて、咄嗟に出た言葉は思うような優しいものではなかった。
「あ?なんでお前が三井サンのこと気にするわけ」
「はー?別にぃ??最近来ないなって思っただけじゃん。リョーちゃん、感じ悪ぅ」
「……んだよ」
最悪だ。よりによってアンナにあたってしまった。しかも三井サンのこと言われてキレるなんて終わってる。自分でも分かってる、だいぶ限界だって。でも、こんなとこで折れてる暇はないのだ。留学が決まってこれからってときに。
いたたまれず、テーブルの上を散らかしたまま部屋に戻る。母ちゃんは何も言わなかった。敷きっぱなしの布団に潜り込んで、ぎゅっと目を瞑る。母ちゃん、サインするとこ分かるかな、あとでアンナに謝らないと…
「……みついさん」
――
「ああ、そう。宮城のとこ。こいつテスト近いからよ、オレが……あぁ!?いいんだよ!大学生サマだぞこっちは。わかんないわけあるかよ……おう、わかったって……うん、ちゃんとそっちにも寄るから。はいはい……よしっ!みやぎ〜〜〜♡」
ふて寝を決め込んでしばらく、なんだかリビングが騒がしい。まだアンナの機嫌が直っていないのか。早いとこ謝っとかねぇと……起き上がって居間へ続く引き戸を開けると、何故だかオレんちの電話で話す三井サンが見えた。まだ夢の中か、と思ったのに、その三井サンは、オレが起きてきたことに気付いて目が合うと、おざなりに電話を切って駆けてきてオレを抱きしめる。
「なんでいるの??」
「寂しがってるって聞いたから」
なんでも、オレが部屋に籠ったあと、三井サンから電話があったようだ。一人暮らしをしている三井さんだが、用事があって実家に戻る予定だったのだ。ついでに部活に顔を出そうと思って、と都合のいい日をオレに聞こうと電話したらアンナが出たと。お節介にも「リョーちゃんがね、」と話したようだ。タイミングがいいのか悪いのか。
結局三井サンは、電話を終えてそのまま電車を乗り継ぎ、実家ではなくオレの家に来て、オレの家から実家に連絡を入れていた。オレがいっぱいいっぱいなことに気付いて、今晩はいっしょにいてくれるらしい。
「ほんとにいいの、おかあさん待ってんでしょ」
「明日帰るからいい。お前も来る?」
「行かねぇよ……」
「みっちゃーんお泊り決定?」
「おーう。一晩お世話になりマス」
「ふふん、よきにはからえ〜」
アンナが嬉しそうに三井サンに絡んでいる。オレはそれを見て、またモヤモヤとしてしまう。ああ、割と限界っぽいな。でも、オレがそう思ってることだって、きっと三井サンは見抜いていた。
「……みついさん」
「ん」
三井サンの袖を引いて、自室へと促す。アンナも母ちゃんもニヤニヤしている気がしないでもないが、いまは無視だ。そんなことに構っていられない。オレが呼ぶ声に、返事があったのだから。
「みついさん、ごめん」
最初に謝って、ぽつぽつと話し出す。それでも素直になりきれない自分がもどかしい。
「オレじゃなくてアンナに会いに来てんじゃん」
「お前部活してたろ。差し入れ買いに行くついでに寄ったの。荷物持ちとかあんだろ」
「そぅ……」
「……お前の大事なもの、オレも気にしてたいんだよ。言わせんなよなぁ、カッコつかねぇだろうが」
「ぅん」
いつだって喧しい人が、静かな声でオレの心を解かすように言葉を紡ぐ。それは少しだけスリーを放つときの沈黙に似ていて、オレは酷く安心してしまうのだ。その声に優しく剥かれて、柔い言葉で抱きしめられて、オレはようやっと本音を話せるようになる。
「でも……でもさぁ、あんたオレの、オレの三井サンなんだろ。オレが一番じゃないの、オレ、さぁ」
「うん、うん、お前のみついさんだよ。だいじょぶ、だいじょぶ。お前以外に一番つくったことねえよ」
「いまいちばんでも、次会うときは違うかもじゃん......」
「あー?浮気の心配なんかしなくていいぜ。お前に、オレより好きなやつができちまうかもってのは、ちょっと不安だけど。お互いにバスケしてたらだいじょぶだろ」
「ほんとかよぉ」
「ぜったい。だって、お前こんなになるくらいオレのことが好きなんだろ?オレだって、お前からの無言電話で飛んでくるくらいお前のこと好きなんだから」
「元々こっち来る予定だったんじゃん。調子こいてんなよ」
トコトコと鳴る心臓の音と一緒に、優しい声がオレに降る。少しずつ、オレがオレの形になっていく。三井サンは、オレを溶かして混ぜて、元の形に戻すのがすごく上手いのだと思う。
「なぁ、宮城。オレよぉ、なんだって出来る気がしてるぜ。なんたってミツイサンだからな。ほら、お前のオレに言いたいこと言ってみ?」
「う、あの、でも……」
「いいから」
「……おれさ、ちょっと、マジちょっとだけなんだけど。あのさ、」
「うん」
「……こわい、アメリカ、行くの。ふあん。いっしょにきてよ、みついさん。オレからいなくなんないで」
三井サンが溶かして混ぜて捏ねたオレは、いつもより少しだけ素直だ。ほんのちょっとの間だけ。
「おう。じゃあ、お前がオレのことトランクに入れられたら、いっしょに行くかなぁ」
「……切り刻めば入る」
「うはは、こえぇよ。やんなら、腕はちゃんと元通りに戻せよ」
おめーにスリー見せんのに困るだろ。
オレの目を見て、三井サンが言った。どうしたって敵わないのだと悟る。この人がいればって、いままで何回も思った。試合中も、それ以外も。きっとこれからも思うだろう、けど。
「やっぱやめとく。膝が上手くつけられないかもしれないから」
「膝かい」
オレはオレの脚で立つしかないんだ。それも分かってる。きょうだけだ、こんな情けないのは。そんでもって、この人だけだ、こんなになってるオレを見せられるのは。
「きょうはほら、もう寝ようぜ。いっしょの布団でぎゅってしてたら、いなくならないから」
「うん」
「おやすみしてこい」
「ん」
オレはアンナと母ちゃんに、ごめんとおやすみを言ってまた部屋に戻った。布団の上の三井サンにダイブして、息を吸って吐いてまた吸って。三井サンの声が、触れたところぜんぶで響く。
「えらかったなぁ、宮城。行く前にちゃんと言えたじゃねーか」
「だめンなっちゃったのに?」
「全然だめじゃねぇぜ、だめになるっつーのはよー、」
「あー、屋上呼び出したり?体育館襲撃したり?」
「……そーいうこと」
「んふ、へへへ」
「連絡する。し、出来なくても心配しなくていいようにする」
「オレも、そんな暇ないくらいバスケするんで」
「おう。大丈夫じゃなくていいから、ヤバくても返事しろよ」
「あはは、ひでぇ」
「最初はよ、返事なんかいらねーとおもってたんだ。オレがお前のこと思ってるって伝えられれば。でも、そんくらいじゃダメだって分かった。強引にでも繋がってねーとダメだ、お前は。何でもいい、手紙でも、電話、は、高ぇけど。ちょっとでもいい、何ヶ月開いたっていいから」
「うん」
ああ、この人も不安なんだなって思った。ちゃんと見えてなかったな。それでも、抱える不安を押し殺して見せないようにして、オレを慰めに来たんだな。そしたら、知らないフリしてやんないと。
あしたには戻るよ、いつもの生意気なオレに戻る。平気なフリして弱音も吐かない、心配なんかさせねぇよ。いつもの「宮城リョータ」に戻るから。
だからきょうだけは、その広い胸に隠していてほしいと思った。
「おやすみ、宮城。もう寝れるよな」
「うん。おやすみ、三井サン」
ありあと、と呟いた。聞こえたかは分からなかったけど、三井サンはずっと笑ってたから、聞こえてたのかもしれない。