「――では、商談成立ということで……」
長身の男は低く落ち着いた声で締めくくり、話し合いの席を立つ。
向かいの席で“商談”に応じていた相手は、納得や満足といった表情から程遠かった。あからさまではないものの、愛想笑いは引き攣っている。不利な条件を押し通されたのだから当然だった。
しかし、とてもではないが、“彼ら”に異を唱える勇気が出る者はいないだろう。
さる組織がバックについている、という触れ込みの男は、見事な銀髪を結い上げていた。
端正な顔には一見、柔和な笑みが浮かんでいる。しかしそのナイフのように鋭い目つきは笑っていない。
仕立ての良い三揃いのスーツに身を包んだ出で立ちから醸し出される空気感は、さぞやり手ということがうかがえる。実際、今日の商談は完全に彼の掌の上だった。
更にこの場を掌握した要因として、彼の傍らに立つ男の存在も大きかった。
同じくかなりの長身で、しかしスマートな彼に比べて、がっしりとした体格を黒づくめのスーツに包んでいる。口元の髭や発達した顎から、ラテン系の血も感じさせた。終始無言で控えていたが、その存在感たるや。雇い主であろう銀髪の男に少しでも食ってかかろうとすれば、ひと睨みで相手を威圧し黙らせることができた。
「それでは、ごきげんよう」
こうして、完全に局面を支配した銀髪の男は、実に品のよい微笑と挨拶を残して、黒衣の大男を引き連れ、立ち去った。
「〜……しんど」
商談の席でずっと沈黙していたテキーラは、新幹線の席に座るなり、深い溜息混じりにゴキゴキと肩を鳴らした。
「ずーっと黙ったまんま突っ立っとるんも、楽やないなぁ」
「お前は口を利くと舐められる。良い加減、その訛りを直さねぇか」
取り引き相手に装っていた柔和な顔を脱ぎ捨てたジンは、ぶっきらぼうに応えながら、煙草を口に咥える。
場合によってはテキーラの関西弁も威圧に使える時もあるのだが、今日のような格式ばった席では、どうしてもくだけた印象を与えかねなかった。
「ええやないか別に。あーあ、よその国の言葉やったら関係あらへんのに」
「たまに外国語も訛ってるぞ、お前」
「えっ、ほんまか? ウーン……それはちょっと、直すよう努力してみるわ」
存外素直に受け入れるテキーラに軽く鼻を鳴らし、ジンは煙草に火をつける。
二人は4人掛けの席で、対角線の座席に掛けていた。互いに長身で、特にジンは脚が長いため、向かい合っているとどうしてもぶつかってしまう。
ところが、テキーラは何やら思いついた様子で、おもむろにジンの隣の席へ移ってきた。
巨漢が隣に来ることで生じる圧迫感に、おい、とジンは眉をひそめる。
「まあまあ、すぐ終わるって」
気安く宥めつつ、テキーラは携帯電話を取り出すと、カメラを内側に向けて掲げる。
自身とジンが映るように角度を調節すると、太い指で器用にボタンを押した。パシャ、と気の抜けた音が鳴る。
「どれどれ……よっしゃ、上手いこと撮れてるわ」
ほら、と隣の男に画面を見せる。
ニカッと笑った髭面の男と、咥え煙草で仏頂面の紳士が映っていた。
「……何やってんだ」
呆れるジンに構わず、テキーラはそそくさと元の席へと戻りながら、嬉々として携帯電話を操作する。
「ウォッカに送ったるんや。あいつ、今日いっしょに来られへんで、えらい残念がっとったやろ。土産や、土産」
いかつい顔で、テキーラは悪戯っぽく笑う。
ジンはますます呆れながらも、本来隣にいるべき弟分を脳裏に浮かべる。
何かと器用にこなす弟分は、ジンに付き従う以外にも様々な業務に駆り出される。今日もたまたま仕事が重なったため、実業家を演じるジンの用心棒役は、テキーラが請け負うことになった。
別々の仕事へ向かう際、ひどく悔しげなのを飲み込みながら「お気をつけて……」と兄貴分を見送った四角い顔を思い出し、ジンは微かに目を細める。
「あんたもウォッカの方がやりやすかったやろうなぁ」
「関係あるか。誰と組もうが仕事の出来に影響させるかよ」
「いけずやなぁ〜。あいつが聞いたら泣くで?」
弟分ほど常日頃共にいるわけではないが、テキーラもまた古い仲で、組織内で敬遠されがちなジンと臆せず接することのできる者の一人だった。
取り止めのないやり取りを交わしている最中、つい先程まで操作していた携帯からコール音が響く。
表示された名前を見て、テキーラは目を丸くした。
「アイリッシュからや」
通話ボタンを押して電話を耳に当てる。客席での通話は遠慮すべき、などというマナーなど、どこ吹く風だ。
ジンも特に何を言うでもなく、テキーラを放っておいて、頬杖をついて寛ぐ体勢に入ったのだが。
「おう、俺や。どないした? …….え? なんであんたが写真のこと……あ?」
続く言葉に、ジンが長い前髪に隠れた眉をぴくりと跳ねさせる。
「なんや、ウォッカと一緒にいるんかいな。あ、ほんまや、なんやクダ巻いてんの聞こえるわ」
「――貸せ」
不意にジンは身を乗り出し、有無を言わさずテキーラのごつい手から電話を奪う。
髪を掻き上げて耳に当てたスピーカーから、知った声が聞こえてきた。
≪ったく、わかってやってるだろうテキーラ! ウォッカの奴、羨ましがるに決まってるじゃねぇか。あーあー、どうするんだよこれ? 面倒見るのはオレなんだぞ≫
ほとほと参った、という調子でぼやく男の声。その後ろから微かにもれ聞こえる声は、ジンの耳にひどく馴染んだものだった。
いいなぁ、いいなぁ、俺も兄貴と行きたかったなぁ……などと繰り返すその野太い声は、遠くとも酔いが回っているのが明らかだ。
やがて、ジンは口を開く。
「ホォー……どうやら世話ァかけたらしいな」
≪ッ!? ジン……!≫
アイリッシュはぎくりとした様子で、いま共にいる男の兄貴分の名を呼ぶ。
テキーラと同行していることはわかっているだろうに、何を驚いているのやら、とジンは鼻で笑う。
「ずいぶんうちの弟分を気にかけてくれるじゃねぇか。わざわざ俺のいねぇ間に連れ出すとはよ」
≪……人聞きの悪いこと言うもんじゃねぇぜ。オレもたまたま、今日オヤジに急用が出来て暇になったんだよ≫
他の者なら震え上がりそうなジンの低音に、しかしアイリッシュはやれやれという調子ながらも、怯えることなく答えた。
彼もまた、ジンと対等に、かつ気安く付き合える相手の一人である。彼が“オヤジ”と呼び慕うピスコが実力者である関係もあって、互いに競い合うこともあるが、険悪とまではいかなかった。
なので、他の者が聞けば牽制にも聞こえる先程のジンの物言いも、からかいの範疇であった――半分は。
「まあいい……おい、代われ」
言葉足らずだが、共にいる弟分を電話に出せと言うことだった。
アイリッシュも心得たもので、ちょっと待ってろ、と答えてから、電話を置いて離れる気配がした。
やがてガサゴソと慌ただしい音がしたかと思うと、ジンが携帯電話を軽く耳から離す羽目になる程の音量で「兄貴!?」と呼ぶ声がした。
「声がでけぇぞ」
≪あっ! す、すいやせん……! あの……えぇ……お、お疲れ様ですッ≫
若干、呂律が怪しいものの、ウォッカはしっかりと受け答えができていた。
≪いまお帰りですか? お出迎えに……あ、けど運転はできそうにねぇんですが……≫
「その必要はねぇ」
≪……すいやせん……≫
あからさまに気落ちして消え入りそうな弟分の声に、ジンは思わず、うっすらと口の端を綻ばせた。
「俺が迎えに行ってやる」
≪え……へぇっ!?≫
「そんだけ酔っ払ってちゃ心配だからな。ただし、まだあと二時間はかかるが……」
ざっくりと計算した到着時間を伝えておいてから、ジンは意識して、特別に柔らかい声を吹き込んだ。
「俺が行くまで待ってられるな、ウォッカ……?」
ジンが自覚している以上に、その囁きはひどく甘い響きを以って電波を震わせた。
息を呑む気配がする。
≪へ……へい、もちろんですっ! 二時間だろうと四時間だろうと、お待ちしておりやす!!≫
弟分の上擦った返事は、尻尾があれば千切れんばかりに振っていそうな勢いで、ジンは愉快そうにクツクツと喉を鳴らした。
「嗚呼そうだ、アイリッシュに伝えとけ。てめぇは帰って構わねぇとな」
そう付け加えると、ジンはウォッカの返事も、アイリッシュの都合も聞かずに通話を切ってしまった。
「うわー……悪(わっる)い男やなぁ〜、あんた」
テキーラが苦笑いを隠せずに、ジンをまじまじと眺める。
ジンは涼しい顔で、テキーラへ携帯を投げて返した。