「あ、兄貴ぃ、煙草は! い、今はお体に障りますから!」
シガーライターに伸ばそうとした手を、分厚い手にワタワタと阻まれて、ジンは舌打ちする。
「オイ、前見て運転しろ……――ッ」
注意を促した拍子に声の振動が脇腹へ伝わり、鈍い痛みが走って息を詰める。やはり、肋が折れているらしい。
抑えたつもりが、ごく微かな息遣いの変調にも、ハンドルを握る男は更に動揺してしまう。
「だ、大丈夫ですかい!? すぐ、すぐ着きますから!」
最近“ウォッカ”のコードネームを得たばかりのその男は、ひどく情けない有様だった。隆々とした体格をしているくせに、形なしだ。
顎のがっしりした強面なのに、その目つきだけは元から妙に丸みを帯びているものだから、八の字に下がった眉の下で今にも泣き出しそうに見える。
ジンは防弾スーツ越しに撃たれた痛みではなく、後輩……いや、弟分と呼ぶべき男の体たらくに、深々と、しかし慎重に溜め息をついた。
そろそろ共に仕事へ連れ出してもいい頃合いだろうと判断して連れてきたはいいものの、ちょっとした手違いと相手方の目論見によって取引のはずが銃撃戦になった。向こうは残らず始末できたものの、ジンも二、三発喰らう羽目になった。
その時の、ウォッカの反応ときたら。撃たれた当人より大きな声を上げ、厳つい体躯で駆け寄ってくるものだから、そちらの方にぎょっとしてしまった。
構うなと言っているのに、大丈夫ですか兄貴兄貴とあまりにうるさく喚くものだから、思わず頭を引っ叩いてしまった。負傷のせいもあって全力ではなかったとはいえ、頑丈な男は自分の痛みにとんと無頓着で、焼け石に水だった。
混乱した場を収められたのは奇跡に近い。
事態が収束するや、今度はその太い腕で長身のジンを抱えていこうとするものだから、また手が出て今度は頬を張った。やはり上手く力が入らなかったとはいえ、硬く骨ばった大きな手をぶつけられて少しも怯まなかった。
今、ジンを助手席に乗せてポルシェを飛ばしている彼の頬はようやく赤く腫れ始めているが、相変わらず意に介した様子はない。組織が懇意にしている闇医者の元へ一刻も早く、と血走った目で進行方向を睨んでいる。
まったく解せない。
経歴にはざっとしか目を通していないが、この男とて、元から堅気の人間ではなかったはずだ。まだこれまで簡単な“おつかい”しか任せたことはなかったが、強引な手段や荒事に腰が引けた様子は見たことはない。
それなのに、先達がちょっとやられただけで、この錯乱と言っていい動揺っぷり。
「すいやせん、兄貴……俺が盾になってりゃあ……ああ、すいやせん、すいやせん……」
時折、うわごとのようにそんなことを口走るものだから、もしや思っているより己は重症なのか、このまま死ぬのかと錯覚しそうだ。たかが肋の二、三本で。
思わず吹き出しそうになるが、腹に響くので堪えた。
この男、組織に向いていないのではないか。今のうちに切り捨てておくべきか。
一瞬そう思ったが、ジンは、否、と思い直す。
ウォッカは、ジンが直々に面倒を見てやってもいいと思えた久しぶりの……初めてかもしれない人間だった。
突出して秀でた能力があるかと問われれば答えはNOだが、武骨な見た目に反して、とにかく、そつがない。
無論、最初から完璧なサポートだったとは言わないが、教育したことをいち早く飲み込んで、気づけばジンが余分な指示を出さなくとも、やるべきことをやるようになっていた。
今回とて、事態が急変しても即座に対応した。射撃こそ上手いとは言えないが、冷静に状況を判断し、他の構成員に的確な指示を飛ばして、増員や包囲を手配した。
もちろん、見た目通りの腕っぷしも使える。他者を恫喝し、捩じ伏せ、手にかけることに躊躇がない。自身に受ける暴行にも臆さない。そもそも頑丈だ。
そう、撃たれたのがウォッカ自身だったなら、たとえ致命傷だろうと仕事をまっとうしたかもしれない。
それなりのスピードを出しながらも、恐らく振動を与えないようにというなけなしの加減をして走っているのであろう雨蛙の座席に身を任せながら、ジンはそこまで考えて……不意に悟った。
――慕われるというのは、こういうことなのかと。
その結論に至って、ジンは拍子抜けする。
組織内で敵が多く、隣にも下にもついた者は長続きしない。
そんな自分に今日まで食らいついてきている、この男。
ジンの、ぶっきらぼうで、言葉足らずで、時に理不尽な態度や仕打ちに文句ひとつ言わず、自分の不出来のせいだからと、次は応えられるようにと必死で努め、完璧でなくとも実際、及第点には実現させてみせる。
何がそこまでさせるのか。組織に忠実なつもりであるジンとて感心して、一度聞いてみたことがあった。
俺は兄貴に惚れたんで。
照れくさそうに打ち明けてくる男の心情がジンには理解できず、冗談や軽口の一種かと、その時は流してしまったが……
どういうわけか、このタイミングでジンは、ウォッカが己を慕っているのだと――確かな実感を伴って、ようやく知った。
「停めろ」
ジンの一言に、ウォッカはひどく狼狽えながらも、すぐには従おうとしなかった。
もう一度、同じ命令を繰り返す。
「次はねぇ」
淡々とそう付け加えると、ようやく弟分は路肩にゆっくりと車を停めた。
また兄貴、とこちらを呼ぼうと振り向く男へ腕を伸ばし、後頭部を鷲掴む。そして、ぐいと引き寄せた。
ゴリ、と額を押し付ける。ウォッカは頭も顔もひどく硬く、ジンの方が若干痛みを覚えたが、構わなかった。
前髪越しに見える、まぁるく見開かれた間抜けな目を睨みつけ、いいか、と切り出す。
ジンの“教育”だった。
「この先も俺の隣にいるつもりなら、いちいち生娘みたくヒィヒィ喚くんじゃねぇ。俺が撃たれようが、手足が千切れようが、くたばろうが、やることをやれ。でなきゃ、永遠に黙らせるぞ」
震えた呼吸音が間近に聞こえた。吸い込まれる息の流れすら感じた。
嗚呼、それだけでもわかる――この馬鹿な男が恐れているのは、自身が“永遠に黙らせられる”ことではないのだと。
馬鹿だ。
まったく馬鹿な、弟分。
「それに――いま、俺がくたばるように見えるのか?」
ジンは、爛々と光る緑の瞳孔でウォッカを覗き込みながら、妙に穏やかな声で問いかけた。
「どうだ。俺は虫の息か? 言ってみろ」
ウォッカは、小刻みに首を横に振る。ぐりぐりと額が擦り付けられる。痛ぇだろうが、と不服をこぼすのはやめておいて、ジンは頷いた。
「そうだ。そう簡単にゃ死なねぇよ。俺に惚れてるだの抜かすくせして、そんなこともわからねぇのか? 馬鹿野郎」
罵ってから、ジンはようやく弟分の頭を突き放すように解放し、身を引いた。
呆然としているウォッカの間抜け面を眺めつつ、煙草の箱を取り出す。一本咥えた口の端が、微かに吊り上がっていた。
「わかったら、一服吸わせろ」
兄貴分の要求を聞いて、ウォッカは弾かれたように、シガーライターを引き抜いて差し出した。
顔を軽く寄せ、煙草の先をつける。じじじ…と微かな音の後、火がともる。
再び座席に身を沈め、脇腹の鈍痛を宥めるかのように深々と息をすれば、車内に紫煙と重い香りが広がった。
「兄貴は……」
横目をやると、ウォッカはじっと兄貴分を見つめていた。
いや、見惚れていた。
丸みを帯びた、人懐っこい目を、夢でも見ているようにぼうっとさせて。
「兄貴はやっぱり……かっこいいですねェ……」
感嘆のため息と共に、しみじみとこぼされた言葉に。
「――クッ……」
ジンは込み上げてきた笑いを噛み殺そうとするが、どうしても上手くいかなかった。
振動が腹に響く。
クツクツという笑い声と、痛みによる呻きを交互に繰り返し、軽く背中を丸めて悶える兄貴分に、ウォッカはまたアワアワと慌てる。また、兄貴兄貴ィ、と情けなく呼ぶので、ますますおかしくなる。
ジンは、馬鹿野郎、とまた悪態をついた。
そうして、どうにか収まった頃、ジンはまたひとつ、弟分に“教育”したのだった。
「お前、次からサングラスでも掛けてこい。そンな目で見つめられちゃ、可笑しくって仕方ねぇよ」