カルバドスは己が受け持つ獲物を素早く仕留めた後、潜んでいたポイントから抜け出して、同胞たちがいるはずの廃墟へどうにかこうにか駆けつけた。
このポイントの周辺には未だ敵が残っていて、身を隠しながらここまで来るのは骨が折れたが、何としても辿り着かなければならなかった。
コルンがやられた――
通信で訴えてきた甲高い叫びが、まだ耳の奥に残っている。
コルン。そのコードネームを持つスナイパーは、以前であれば、カルバドスと組むことが多かった。
しかし、最近になり頭角を表した新人のコードネーム持ちと、えらく仲良くなった。
この二人がまた、狙撃においてもかなり相性がよかった。初めて組んだ仕事は相当上手くいったと聞く。あのジンが褒めるほどに。
コルンとそれなりに長い付き合いで、二人で戦果をあげてきた自負のあるカルバドスは、複雑な思いもあったものの、大型新人の活躍には素直に賞賛を送った。
そして今回。三人のスナイパーが駆り出され、カルバドスは二人と幾らか離れたポイントで仕事に当たっていたのだが――
廃墟の二階へと駆け上る最中から、子どもの泣き声のようなものが響いていた。
「いやだ、やだっ……あぁ……どうしよう、どうしよう!」
カルバドスはその光景に愕然とする。
長身の男が、ぐったりと床に横たわっている。いつも身につけている野球帽もサングラスも弾き飛ばされた頭は、こめかみの辺りに血を滲ませている。
その箇所を、細い手で必死で押さえつけているのは、若い女だった。ショートボブに切り揃えた赤毛が、色褪せた廃墟の中でひどく映えている。その指を濡らす赤と共に。
「あぁっ、カルバドス! コルンが……!」
実際には数秒だったが、立ち尽くしていたカルバドスは、女――キャンティの声で我に返る。
こちらを見上げるその顔は蒼白になっていた。左目の縁を彩る蝶のタトゥーが、肌との対比で鮮やかに見える。
「コルンが、コルンが頭に食らって……血が……血が止まんないんだよぉ!」
傷口を塞ごうとする手も、腕も、肩も――彼女の全身が細かく震えている。
カルバドスは信じられなかった。
座り込んだキャンティの傍らで伸びているコルンは、意識を失っているらしい。瞼を閉じたその表情は妙なことに、眠るように穏やかだった。
狙撃手として、その働きを組織内でもかなり重宝されている彼は、寡黙で、冷静沈着、そして用心深い。滅多に負傷するような下手は踏まない。それが、こんなことに……
そのことにも驚いたが――
「あ、アタイが、アタイがヘマして……アタイを庇ったんだ……アタイのせいなんだよ……!」
キャンティの、この動揺である。
女だてらに……などという言い方をすれば手が出るような、ひどく気の強い女だ。
本来ならスナイパーとしてもコードネーム持ちとしても先輩であるはずのコルンにもカルバドスにも、全く遠慮というものがない。この仕事の前も、誰が一番多く“的”を仕留められるが勝負しよう、絶対に負けない、と豪語していた。
生意気だと罵るには、彼女は天性に恵まれていた。
正確な狙撃。殺人を躊躇わぬ残忍さ。
その二点は、不思議なことにコルンとそっくりだった。人物像としてはまったく似ていないのに。
生まれながらの狩人たち。出会うべくして出会ったのかもしれない。
その証拠に、短期間で二人は急速に仲を深めた。そこに男女としての色こそなかったが、まるでもっと昔から共にいたかのように意気投合し、ぴたりと息を合わせ、次々に獲物を仕留めていった。
その片割れであり、常に負けん気の強いキャンティが。
他人の命を、楽しげな笑い声さえ上げながら、引き金を引く指先ひとつで奪うキャンティが。
「ごめん、ごめんよカルバドス……ごめんよコルン……! ああ、コルン……ど、どうしよう、どうしたらいいんだよぉ……!」
真っ青な顔をして、体も声も震わせて、何をしていいかわからずに、ただ血を止めることしか思いつかずに、相棒の傷口を手で押さえている。もうひとつの“相棒”であるライフルを投げ出して。
まるで、ただの女のように。子どもように。
ともかく、コルンの容態を確認しなければならない。一見したところ、出血こそあるがさほど重症には見えなかった。
カルバドスはキャンティを引き離そうと、華奢な肩に手をかけた。
しかし――どこからそんな力が出るのか、びくともしない。コルンから離れようとしない。
「コルン、ねぇコルン、コルンったら!」
キャンティは彼に覆い被さるようにして、悲痛な声で何度も呼びかける。
「あぁ、起きない……呼んでも起きないよぉ!」
泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにしているが、涙は流れない。怯えたように大きく見開かれた目には、眠るように力を失っているコルンしか映っていない。
――まずい。
カルバドスは、事態が収集のつかない状況へ向かいつつあることを既に悟っていた。
このままでは破滅する。
「そんな、そんな……あああどうしよう、どうしよう、こんなの……ああああやだやだ、うそだろ、ねぇ、うそ、うそだぁっ! コルン、コルン、コルンったら! ああああああっやだ、やだやだやだぁっ!!」
バシッ!
カルバドスは振り上げた手で、キャンティの頬を張った。
なるべく痛みを与えず、しかし派手な音が鳴るようにと力をコントロールした。
キャンティは沈黙した。叩かれた体勢で数秒、横を向いていたが、やがてカルバドスを見上げる。
何が起こったのかわからないという顔で、唖然と。
このタイミングを決して逃してはならないと、カルバドスはキャンティに語りかけた。
このポイントはほとんど包囲されている。反撃して敵を殲滅するか、牽制しながらどうにかここを抜け出すか。でなければ自分たちは終わる。
コルンを救うにも、ここから生きて戻らなければ。自分とキャンティで、やらなければ。
できるか――いやできるできないではない、やらなければ。
カルバドスの懸命な言葉を聞き届けたキャンティは、ようやくコルンの頭から血だらけの手を離した。
そして、傍らのライフルを引き寄せ、ゆらりと立ち上がった。
「……悪かったね、カルバドス」
その声は、今し方まで悲鳴じみた泣き言を口走っていたとは思えないほど、淡々と落ち着いていて。
「やるよ……全員、片付ける」
カルバドスはゾッとした。
その、冴えざえとした表情。
これまでに見たキャンティの、どんな顔つきよりも美しく。
その瞳には氷のように冷たい殺意が浮かんでいた。
彼女の大切な大切な片割れを傷つけた者への、憎悪が。
組織お抱えの病院内。
カルバドスは、病室から出てきたキャンティに、コルンの容態を尋ねた。
キャンティは、ちょっとばつの悪そうな面持ちをしていた。
その頬に傷も腫れもないことに、カルバドスは内心でひっそりと安堵する。
「……頭に弾が掠(かす)っただけだってさ。ちょっとばかし出血は多かったけど、問題ないって……気を失ったのは、倒れた時に打ちどころが悪かったせいだって。もう問題ないみたいだけど、一応、安静にしてる」
喜ばしいことなのに、こんなふうに拗ねた物言いをするのは、現場で自分がどれだけ激しく動転したのかを思い出しているからだ。
カルバドスは大袈裟だったなんて笑ったりはしない。
代わりに、よかったと、ありのままに安堵を示す。
「すまないね、カルバドス……世話かけちまった」
いつもほとんど喧嘩腰のキャンティが、あまりに素直にそんなことを言うので、カルバドスは却って反応に困ってしまった。
さらに彼女は、思いがけないことを言う。
「コルンはあんたの相棒でもあるのに、アタイがドジ踏んで、危ない目に遭わせちまった……それも、謝っとく」
カルバドスは驚いて――すぐに、頬を緩める。
キャンティを庇って負傷したというコルン。
動揺したものの、我に返った後はお釣りが来るほど仇を取ったキャンティ。
そんな二人を見ていれば、わかる。
こんな稼業をやっていて口にしていいのかわからないが――彼らの、絆の深さとでもいうものが。
別にコルンが誰の相棒と決まっているわけではない。また三人で組むこともあるだろう。
しかし、もう少しキャンティが場数を踏めば、きっと、安心して彼を任せられる――そんなふうに思えた。
だから、カルバドスは手を差し出して、
これからコルンを頼む、と伝えた。
キャンティは驚いていたが、ややあって、
気恥ずかしさと誇らしさの入り混じった面持ちで微笑み、カルバドスの手をしっかりと握り返した。
力強い手だった。
「だけどね、カルバドス」
握手を解いた後、キャンティは一度引っ込めた手を、ぐっと握りしめて掲げてみせる。
「一発は、一発だからね」
そう宣言したキャンティは、いつも通り――いや、いつも以上に負けん気の強い笑みを、ニヤリと浮かべていて。
カルバドスは、自分が叩いた時は平手だったとか、もうそんな申し開きは諦めて、
彼女の拳を大人しく受け入れることにした。