尽きない火花「おい、まだか」
「いま行きやす!」
旧型の電子レンジで温め直したタコ焼きと、浅漬けのキュウリの小鉢を盆に乗せて、ウォッカは手狭な台所からいそいそと移動する。
向かう先には、ちゃぶ台の上に缶ビールが2本。
その傍らで、ジンは畳に胡座をかき、開け放った窓から吹き込む夜風で涼んでいる。
何度見ても見慣れない姿だ。
下は彼の自前のジーンズだが、上はウォッカのTシャツにわざわざ着替えている。もちろん、きれいに洗濯しているが、着古して緩んだ首周りからしっかりとした首筋と鎖骨が露わになった姿には、怠惰な色気とでもいうようなものが漂っている。
度々この部屋にやってくるようになった兄貴分は、特に夏場、当然のように弟分の服を身につける。体の厚みや横幅でジンに勝るウォッカの衣服は、引き締まった彼の体にとって余裕があり、風を通すので涼しく感じるのだろう。
同じようなTシャツと、カーゴパンツ姿のウォッカは、盆をちゃぶ台に起きながら、兄貴分の装いをまじまじと眺めてしまう。
「そろそろだぞ」
「あっ、はい」
一言かけられ、慌てて視線を逸らしたウォッカは、座ったまま天井から垂れ下がる紐を引っ張った。
カチ、と音がして室内が暗くなり、オレンジ色の豆電球に切り替わる。立て続けにカチ、と引っ張ると、それも消える。
照明がすっかり消えても、外から差し込む街明かりのおかげで、手元が見えないほどではない。
ビールのプルタブを2本とも開けて、ひとつを兄貴分に差し出す。ジンは受け取りながら、逆の手を入れ違うようにウォッカの顔へ伸ばし、サングラスを外した。
ドキッとしてしまうが、色っぽい意味ではない――せっかくなので、レンズの遮蔽なしで見ろ、ということだ。
そんなことをしているうちに、やがて。
ひゅるひゅると、物悲しい笛のような音。
その直後、
ドン、と爆発音。
聞き慣れた銃声でも、爆弾でもない音と共に、
遠くの夜空を火花が照らした。
「おっ始まりやしたねぇ!」
ウォッカは声を弾ませて、兄貴分の方へ缶ビールを掲げる。
ジンは何を言うでもなく、自身が手にした缶を弟分のそれに軽くぶつけて、乾杯に応えた。
ウォッカが自宅のひとつを構えるアパートの、唯一とも言うべき売りが、この景観だった。
都市開発から取り残されたような一角は、目立った高層ビルが周囲に少なく、ちょうど花火大会が行われている河川敷の方角が開けていた。
昼よりはマシとはいえ蒸し暑い中、人混みに揉まれてますます暑苦しい思いをしなくとも、こうして夏の風物詩を楽しむことができる。距離はあるのでかぶりつきとはいかないものの、ボロアパートでも外よりはよほど快適な特等席だった。
夏祭りの気分だけでも、ということでウォッカが買ってきた惣菜をビールと共に並べるのも、毎年の習慣になっていた。
「さっき上がったの、デカかったですね! 景気がいいや」
「嗚呼」
「最近はハートだの何だの変わった形の花火もありやすけど、やっぱ昔ながらのやつが見応えありますよねぇ」
「そうだな」
取り留めもない話に対して、盛り上げるでもないが遮るでもない短い相槌。
互いに向き合うことなく同じ方向を見上げ、ビールで喉を潤す。
なんでもないような、けれど少し特別な、夏の夜。
この部屋からの眺めがよくて幸運だったと、ウォッカは毎年、心底思う。
機嫌よく皿へ手を伸ばしたウォッカは、爪楊枝で持ち上げたタコ焼きを口に放り込む。
が、すぐ、しまったと顔を顰める。
「アッチ……!」
急いでビールを流し込む。
ウォッカが契約する前からこの部屋の住人だった電子レンジは、温度調節も温め時間も、ダイヤルの目盛りがひどく大雑把だ。まったく温まらないか温めすぎるか、極端な結果になることが多い。
「いい加減、買い換えたらどうだ。ポンコツの家電くらい」
弟分の醜態に呆れながら、ジンは乱切りのキュウリを爪楊枝に刺している。
ウォッカは、冷たいビールと混ざってろくに味のわからなくなったタコ焼きを飲み込んで、いやぁ、と答える。
「もったいねぇですよ」
「ハッ、何がもったいねぇんだか」
「へへ……」
ジンが鼻で笑い、ウォッカは意味もなく笑った。
その間に、また花火がひとつ、ふたつと上がる。
遠くとも、ドン、と打ち上げの音がよく聞こえる。
照らされる夜空を眺めつつも、ウォッカの視線は時折、隣を盗み見る。
兄貴分の端正な横顔は、蒸し暑い夏の夜でもどこが涼しげだ。
きっかけは、いつだったか。
何年前かの夏、ポルシェの窓を開けて走りながら交わした雑談。
ウォッカの部屋から花火が見えることを話した時、ジンが興味を示したのは意外だった。
けれど、よく考えればそう不思議でもない。
兄気分は美学を重んじる男だ。節目の行事や風情を愛でることも、彼なりのこだわりの一端なのだろう。さすがに、クリスマスにパーティーをするような浮かれ方はしないが――いや、そういえば、大晦日は紅白を観るのに欠かさず付き合ってくれる。
何より、季節や天候にもたらされる情緒は、ジンによく似合う。
例えば雨の日。彼のセーフハウスの洒落たリビングでソファに寛ぎ、水滴が打つ窓を眺めている、アンニュイな姿。
例えば冬の街中。イルミネーションで普段よりも明るい街明かりに銀髪がきらめくさまは美しい。そこに雪でも降れば、尚のことさまになる。
それに、ちょうど今の季節なら、夏の朝も。暑がりのウォッカが寝苦しさに呻いて目を覚ますと、体温の低いひんやりとした指が、汗ばんだ額を拭ってくれて心地よく――
「何をデレデレしてんだか」
「えっ……で、デレデレしてやしたか?」
指摘されて我に返る。自分だけ盗み見ていたつもりが、ジンもまた横目にウォッカを見遣っていた。
決まり悪さに、自身の頬を軽く叩く。
パラパラと音がして目を上げると、細かな火花が空の高みから滝のように降り注いで、また見事だった。
それを最後に、立て続けに上がっていた花火が途切れる。
ドン、ドン、と響いていた音も絶え、ひどく静かになった。
「もう終わりですかねぇ?」
「さあな。小休止かもしれねぇ」
花火の終わりは、決まって物寂しい気分になる。
名残惜しくなる。
――また来年、同じように見られるかどうかもわからねぇな。
ウォッカはつい、溜息をついた。
日頃はそんな殊勝なことは考えないのに、祭りの後、とでもいうような空気にあてられているらしい。
そんな時、角張った顎を指の背でツ、となぞられた。
驚いて傍らを振り向けば、薄闇の中で兄貴分がこちらを見ている。
口の片端を吊り上げた、ニヒルな笑みで。
「今度は何考えてた」
「い、いや、その」
兄貴分に超能力でも備わっていなくてよかった……と、心底思う。
表情だけで、少なくとも考え事に耽っていることを容易く見破られてしまうのに、その中身まで伝わってしまったら、あまりに恥ずかしすぎる――柄にもない物思いに沈んでいたなんて。
いや、もしかしたらそれすらお見通しではなかろうか。
「切なそうな顔しやがって……そそるじゃねぇか」
「えっ」
「あァ、わざと誘ってんのか?」
「へぇっ!?」
声が裏返る。
つい今しがたの、物寂しい気分が一瞬で吹き飛んでしまった。
輪郭をなぞるように触れていた長い指が、顎を捉える。そのまま、ぐいと引き寄せられる。
暗がりでも、不思議にぎらりとした光を放って見える、緑の瞳。
「あ、あにきィ……」
「さっき、舌ァ火傷したかもしれねぇからな。みせてみろよ……」
間近で悪戯っぽく囁く唇が、よりいっそう近づいてきて――
ドン、と音が響く。
視界の端で、遠い夜空が再び明るくなったのがわかった。
互いの身動きが止まって、数秒。
緑のきらめく双眸が、すうっと細められて。
「――花火が終わったら、な」
密やかな囁きの後、触れかけていた唇を、ちゅ、と一度だけ啄まれる。
そうして、ウォッカの顎から手を離して身を引いたジンは、何事もなかったかのようにまた、夜空に散る火花の鑑賞に戻った。
ウォッカと言えば、火のつきかけた体が少しでも冷めはしないかと、ぐびぐびとビールを煽った。
花火が終わったら。
それを想像すると、祭りの後を想って寂しさを噛みしめる余裕などない。
ドン、ドンドン、と立て続く音と、自身の鼓動が重なった。
ウォッカは改めて思い知る。
ジンのそばでは、憂いに耽る暇もない。
彼と共にある瞬間の全てが鮮烈で、時には心地よく、時には狂おしい――途切れることなく、それが続いているような。
絶え間のない火花のようだと、また柄にもなく詩的な感慨に耽って、困ったようにはにかむ。
ウォッカ、と己を呼ぶ声に、また胸を騒がせながら隣をそっと見遣る。
想像したような表情と違って、ジンは自身の口元を覆いながら、眉をひそめていた。
「どうしたんですか?」
「お前、なんか……旨いな」
「は?」
口説き文句にしては釈然としなさそうな様子に目を丸くして、少し考えて――
すぐ思い当たった。
思い当たったら、つい噴き出してしまった。
「っっ……た、たぶん、タコ焼きのソースでさぁ……っひひひ……」
腹を押さえて背中を丸め、堪えようとするが、駄目だった。
声を震わせている弟分に、兄気分は深々と溜息をついて、顔を伏せて吐き捨てる。
「ったく、色気も何もあったもんじゃねぇな――っ、く……」
「ふはっ! あ、兄貴も笑ってるじゃねぇですか……!」
ジンの肩も細かく震えているのに気づいては、もうダメで。
二人して、しばらく花火を見るどころではなくなった。