明るい音の鳴る方へしなだれていた枝葉は上を向き、雨雲は晴れ、木々は木陰で以て一時の安らぎを与える。日の当たらないそこは涼しくて、でもほんの少しだけ薄暗い。
シティに、雨林に来る度、そんな思いを抱いていた。
居心地が悪いとか肌に合わないとか、そういった話ではない。慣れ親しんでいる砂漠とは余りにもかけ離れている、それだけだ。砂は大地を覆い、時には空をも飲み込み、あっという間に辺り一面は色のない世界になる。雨林は人も色も多い。多種多様なそれらはセトスがまだ知らない世界を見せてくれると同時に、彼の茶色のキャンバスを塗り替えてしまう鮮烈さを備えていた。
生まれた時から砂の色に染まっていたそれは濃淡の違いはあれど、異質な色と言えば、せいぜい月からこぼれ落ちてきた白銀と、神の一瞥によって与えられた紫色くらいだった。神秘の力が秘められた色はセトスの力の象徴でもあったが、それももう殆どは彼の身を離れている。僅かばかりの光は暗闇を照らせる程のものではない。手のひらに力を込めればまだそこにあるのだと感じられるくらい弱々しい。
――いやいや、神の威光を弱々しいなんてちょっと、いやかなり、失礼だ。
埋め込まれていた跋霊が無くなったにもかかわらず視認できるほど残されているのは恐らくありえないことだ。今までの実験記録にそんな記述はない。セトスはこれを、かの神霊による最後の恩情なのだと受け止めている。あるいはこれっぽっちの力をわざわざ丁寧に回収する必要もないのか。秘密を守り続ける組織に残された残滓は、今も小さな手のひらで微かな光を放っている。
けれどそれも、ぱっと手を広げればすぐに見えなくなった。
喪失感を覚えた矢先、強烈な紫電がそれを忘れさせる。
「待たせてすまない。もしかして、ずっとここにいたのか?」
眩い光がセトスの瞳に焼き付いて離れない。
色鮮やかな世界でも一際目を引く存在がキャンバスの上で輝きを放っている。
「――セノ。大して待ってないから僕は平気だよ」
「なら良いが……。次は先に入って待っていろ」
心配性だなと笑い飛ばして、その手に早くも用意されているデッキケースから目を逸らした。うずうずしながら両目に星を瞬かせているセノなんて見なかったふりをしてセトスは言われた通り一足先にカフェへ入店した。
客は教令院の人間が殆どだが、三十人団や傭兵もちらほらいる。幾分見慣れたその姿に、セトスは無意識にほっと息を吐いた。
「……やっぱり我慢してたんじゃないか」
「え? 違う違う、そんなことないって。それよりジュライセンはなんて?」
「もう少ししたら手が空くそうだ。野菜を食べないお前の為に、手ずから育てたトマトや玉ねぎなんかを持ってくるって息巻い……気合いが入ってたぞ」
「げっ……なんでそう気が滅入ることを先に言うかなぁ……、そうだ」
「ティナリにあげようとしても無駄だぞ。この点においてティナリは完全に先生側だ」
「コレイは?」
「だめだ」
セノの返事にちぇっと不貞腐れたセトスは、すぐに人懐っこい犬のように態度も表情も変えた。微笑みの裏ではきっと、セノが無駄でも無理でもなく「だめだ」と言ったことから、コレイに野菜を譲渡する算段をつけているに違いないが。セノはそれを分かっているので「本当にコレイはだめだからな」と念押しした。
それにしても、野菜を受け取らない選択肢はないらしい。
はっきりしない輪郭を携えたまま、それはサウマラタ蓮が花開くよりもゆっくりだが確実に、セトスの心の中で存在を大きくしている。
「あの壁一枚越えただけだっていうのに、まるで異世界に来たみたいな感覚がまだあるよ」
「色も匂いも何もかもが違うって五感が訴えてくる」
「それは今のお前にとって、悪いことなのか?」
新しい価値観と新しい自分をここで見つけるのも悪くないだろうと、暗にセノはそう尋ねている。
セトスは少しだけ考えるような素振りを見せて、それからふっと力を抜いて微笑んだ。どこか寂寥を滲ませるそれにセノは少しだけちくりと胸が痛んだ。そんな顔をさせたい訳ではないのに。セノの顔にもほんの僅かに陰りが生じた。
「……はは、そんな顔しないでよ。これから楽しいことばかりだって言い切ったのはセノの方だろう?」
「……そうだな。でもそれはお前に過去の一切を忘れろという意味ではないし、ましてやこっちで暮らせと言ってるわけでもない」
「分かってるよ。――セノと話してると、なんだかじいちゃんを思い出すよ」
なんでだろうね。そんな似てるって訳でもないのに。
ふるふると頭を揺らしたセトスは自分の考えを吹き飛ばすように笑った。
「俺はどちらかというと、先生と話してる時みたいな感覚があった」
ぱちくりと両目を開いたセトスは、思いもしなかった言葉を発した兄弟から目を逸らせなかった。
(僕とジュライセンが? というか、育ての親をお互いに見出すなんて、そんなこと)
「――いやいや、僕とジュライセンって全然違うでしょ」
気恥しさを誤魔化すようにセトスは柔らかい声音で、けれどしっかり否定した。
セノは逡巡の後にそれもそうだなと大人しくその言葉に頷いてから、そっとコーヒーに口をつけた。
セトスも彼に倣ってごくごくと音を立てて勢いよくミントティーを飲みきった。喉を潤した液体でセノの言葉を流し去るように。二杯目をカップに注いでいるとパニプリがちょうどやって来た。家とは異なる味付けのスパイスを感じながら小腹を満たしていると、セノがセトスの背後へと焦点をずらした。それだけで察することができた。
ああ、彼が来た。
「遅かったな先生、それに――ナフィス先生?」
「こんにちはセノ、それからセトス君」
会釈して席に座るよう促すと、ナフィスはすぐに行くからと笑顔で首を横に振った。
「わしがサボるんじゃないかと疑ってついて来たんじゃ、こやつは全く……」
「昔の自分を思い出すことだ」
「いつまで昔のことを覚えておるんじゃ。……ああいや、今のはナフィスに対して言ったことで」
「分かってるよ。それにしても教令院を抜け出すのはどうやら珍しくないことだったみたいだね」
「うぐ……」
(僕とジュライセンが似てるって? 僕だったら沈黙の殿の人間がいる場で今みたいなことは言わない。応じるのがちょっと面倒な人からそれっぽい言い訳で逃げ出すのはまあ……たまにあるけど)
ちらりとセノを見遣ると、まだ諦めていないのかデッキケースをしまわずに机にこれ見よがしに置いていた。
大切な家族と積み重ねた時間が、自分自身を騙そうとしているのか、あるいは家族同然の存在に共通点を見出したいと心の奥底では願っているのか。
……多分どちらも不正解で、けれどどちらも一定の説得力を持っている。
名前のない感覚に、今はまだ光を当てて照らし出す必要はない。それがなんなのかは、これからゆっくり考えていけばいい。幸い自分達には時間がたくさんあるのだから。それに、なにも一人で考え込まなくていい。知識も頼れる友人も増えた。キャンバスにはまだ余白がある。
「さっきはああ言ったが、俺が知ってる限り、若い頃の先生はどことなくお前に似てたよ。ユーモアがあって場を和ませる人だから。沈黙と距離を置きたい時はいつも」
木々の間から二人に降り注ぐ光はあたたかく、少し歩いた先では地面に光影の芸術が描かれている。彼らの未来を明るく照らしているようで。鳥のさえずりや風に揺れる木の葉の音が控えめに祝福しているかのようで。砂漠では中々見られない眼前の風景に、セトスはうっそりを目を細めた。それから珍しく、とんっと勢いよく地面を蹴って走り出した。体にまとわりつく何かを振り払うように、求めてやまない光に手を伸ばすように。