雨中の禁区それは、ある雨の夜だった。
「親父、もうずっと籠もりっぱなしだぜ」
「お前、様子見て来いよ」
ドン、と背中を押されて、締め切られたドアの前で俺は立ち竦む。兄貴達は、もう30分も無えんだから早くしろ、と耳打ちをして蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。
畜生、震えが止まんねえ。心底後悔する。なんでこんな組に入っちまったんだろう、って。
東城会直系錦山組組長、錦山彰という男はカリスマだと、思う。
冷えたナイフの切先のような隙の無さ。スマートに優雅なようで、その癖どこまでも鮮やかに暴力的だ。流麗で、そして苛烈な緋色の昇り鯉。その勢いは破竹だった。そしてそんな最中に、疑りそうな目が神経質に揺れている。その時折見せる不思議なアンバランスさは、妙に人を集めた。
だって、みんな思うんだ。
『自分こそは、親父の特別になれるんじゃないか』、って。
そう、瞬く街灯に惹かれる羽虫の如く、人が群れ集う。そして皆等しく、後悔するんだ。
親父は未来永劫、誰のことだって信用しちゃいない。
一度キレたら止まらない激情は、見境が無かった。いつだったが、ヘマをやった兄貴分が半殺しになっていたのを思い出す。人の骨はあんなに容易く折れるのかと、堅気の方が余程長い俺は慄くばかりだったが、付いていた他の奴が俺にそっと耳打ちをする。
「ありゃまだマシな方だぜ。ガサ入れがあるってんで、親父がハジキを手放してて良かったな、あいつも」
腫れて血みどろになったゾンビのような兄貴分の顔と、普段の冷えた表情が嘘のように歪む親父の顔を、俺は言葉もなくただ震えて見ているしかなかった。
ああなるのは、ごめんだ。
「親父、そろそろお時間です」
俺は恐る恐るノックをして、声を掛けてみる。今日は東城会本部に顔を出さなきゃなんない日で、つまりは遅れるわけにはいかないのだ。最も親父は普段から抜け目なくきっちりとしているので、時間になって声を掛けなきゃ出てこないというのも珍しいのだが。
返事は、ない。
ノックしても応答が無い、となりゃこの扉を開けるしかないが、何でよりによって俺なんだよ!壁を蹴り上げたくなるのを堪える。何せ、神経質な親父のことだ。大きな物音を立てて機嫌を損ねたらどうなるか分かったもんじゃねえ。ドタマぶち抜かれて風穴開けるには、まだ俺は若すぎるだろ。何せ俺はまだ入ったばっかりだ。最も、一番下っ端だから、こんな貧乏くじを引かされてる訳だが。
ドアに耳を押し当てるが、何も聞こえない。雨音のザーッという音だけが響いている。
「親父、」
再度ノックする。
応答が無い。
…ああ、クソッ!
「すみません、入りますよ…」
俺は身構えながら、ノブに手を掛ける。そうっと捻る。控えめに音が鳴り、静かにドアが開く。親父が椅子に腰掛けているのが見えた。肘掛けに肘を付き、顔を置く。
「…う…、」
親父の小さな呟きにヒッと思わず声が出て、そして胸を撫で下ろす。目が伏せられていて、どうやら寝ているようだった。がくりと項垂れた頭から、普段撫で付けられている長い前髪が幾束か溢れて揺れている。
と、親父が、ふっと笑った。いつもの口角の端だけ上げる、あのニヒルな笑みではない。穏やかな、少し呆れたような、自然にこぼれたような、そんな笑み。
親父が?あの錦山組組長が?
こんな風に笑うことなんてあるのか。
俺は思わずその顔に見入ってしまった。時間も無いしとっとと起こすべきなんだろうが、何とも声を掛けるのが躊躇われる。背後の窓から覗く土砂降りの雨に比べ、室内の様相は酷く穏やかだった。夢でも見てるんだろうか?恐ろしくて普段はろくに顔も見れないが、こうして見ているとなかなか親父も二枚目だよな。
「きりゅう…、」
キリュウ?なんじゃそりゃ。
親父はまるで誰かを呼ぶようにその単語を寝言で繰り返す。顔が少し傾くたびに、降りた前髪が揺れる。表情と長い前髪が相まって、いつもより随分と若く見えた。
思わず呆気にとられてしまったが、ふと、時計を見ると、大分と時間が経ってしまっている。こんな穏やかな親父を生きてる間に目をする事はそう無いだろうし、不思議に勿体ない気もするが、とはいえ時間が迫っている。俺は親父を起こそうと近付く。
肩に触れようとして、そしてその瞬間に、雨が窓を激しく打ち付けた。それに呼応するように、親父の身体が跳ねた。
俺は慌てて後ずさる。まさか、寝起きの悪いタイプか?死ぬのはゴメンだ!と心の中で叫ぶ。最も、次の瞬間には駆け寄るしか無かった。親父は起きたわけじゃなかった。酷くうなされ始めたのだ。
「う、桐生、…、すまないッ、うう…、」
「親父!親父ッ!大丈夫ですかッ」
親父の額に脂汗が滲む。咄嗟にハンカチで拭ってやろうとして、その下りた前髪を掻き上げようとした。その時だった。髪に指を掛けた瞬間に、その手首を馬鹿みたいに強い力で掴まれる。
「ヒッ、」
「…お前、誰だ、」
身悶えに荒い息、それでも射抜くような視線が、俺を見ていた。殺気の籠もった眼に、思わず後ずさる。下りた長髪が、少し指を掠めて揺れた。
「…俺は、あの、その、親父がうなされてたもんで、起こそうと思って、だから、」
「…てめえ、勝手に俺の部屋で何してる?ノックもせずによくも、」
俺の弁明は、遮られてしまった。ノックはしたけど、あんたが寝てたから聞いてなかったんだろ!とは口が裂けても言えそうになかった。と、右から拳が飛んできて俺は吹っ飛んだ。痛え。頭がグラグラする。視界が真横になって、ピカピカに磨かれた革靴と、白いスラックスが俺に向かってくるのが見えた。逃げたい。体が動かない。視線を起こす。揺れる前髪を、親父が忌々しげに撫で付けているのが見えた。
上げた髪、背後の窓が雷光で光る。顔に陰が降りる。まるで生きた心地がしなかった。
「…俺ァ今、機嫌が悪い。最悪の気分だ」
「ひ、」
「増して、だ。こんなに礼儀がなってないのが俺の下に、この錦山組にいるとは、情けねえ話だ、そうだろ?」
「うう…、」
ゆらりと、ジャケットの中に手が伸びる。そして伸ばされた腕、俺の眼前で、冷たい銃口が光っていた。
「仕置が必要だよな」
親父はそう言って、撃鉄をガチリと起こし、引き金に指を掛けた。
ああ、もうおしまいだ!
俺は目を強く瞑った。
だが、何も起こらなかった。
貫くような銃声の代わりにただ、雨音だけがノイズのように鳴り続けている。
一体どうしたことか。
俺がうっすら目を開くと、酷く動揺する錦山組組長の姿があった。引き金に掛けた指が激しく震えている。目を見開き、もう片方の手でそれを抑えるが止まらない。俺はそれを面食らったように見ていたが、親父自らもまた、信じられないと言った顔で自分の手を見ていた。
「クソッ!畜生ッ!ああ!!クソッタレ!!」
撃てないッ!!!!
親父が絶叫した。震える手で、無理やり床にハジキを叩きつける。弾倉から弾がボロボロと溢れた。
「親父!大丈夫ですか、親父」
その只ならぬ様子に、思わず駆け寄る。縮こまったその肩は随分と小さく見えた。
「…ああ、クソ、ふざけやがって、」
「親父、落ち着いてください」
「俺に触るな!!」
振り払われる。存外力は弱かった。どうしちまったってんだよ、急に。
「桐生…、クソ、夢にまで、あいつ…、」
独り言のように吐き捨てられたそれは、雨音に掻き消されるかのように小さかった。だから、そんなものに反応してしまったのが良くなかったのだ。
「…『桐生』って何なんすか、」
途端にまた一発、ガアンと拳を見舞われて俺は倒れ伏した。ついで蹴りが容赦なく飛ぶ。
「二度と、」
目の前が真っ赤になるようだった。痛みに我を忘れそうになりながら、親父の声だけが雨の音をバックに不思議に響く。
「二度と、俺の前でそいつの名前を呼ぶなッ!!!」
「すみません、すみませんッ、許してくださいッ…」
懇願に、止まらない殴打。雨音なのか、俺の血潮の音なのかよく分からない。そして俺が意識を手放したのはもう間もなくの事だった。
結局あの後親父はすぐ出なきゃいけないって言うんで、幸いにも俺は解放されたらしかった。骨にヒビは入っていたものの、やっぱり親父も本調子でなかったのか、軽い方だったんだと思う。
「お前、親父怒らせといてよく生きてたなあ」
兄貴分が感心したように言う。生きてただけ、儲けものなのか。とはいえこんな体たらくじゃなあ、と包帯まみれの自分の体を見下ろす。大体どうして俺がこんな目に。ああ、そうだ。
「…兄貴ィ、『キリュウ』って知ってます?」
「…馬鹿、お前その名前、大きな声で言うんじゃねえぞ」
どこで知ったんだ、全く、と兄貴は言う。
「親父の目の前でそいつの名前は禁句だぜ。何せ見境無くなっちまうからな。何でも親ぶっ殺して、親父はそいつのせいで相当苦労したみたいだ。だから恨みがあるんだろ。今はムショの中だから、手を出そうにも出来やしねえんだろうが…」
だから絶対、その名前を出すんじゃねえぞ、と兄貴分は恐ろしい顔をして念押しをした。俺は思わずそれに頷く。だが、俺にはそんな風には見えなかったけどな、とも心の中で思った。
『キリュウ』がムショに行ってから、親父がどれ程大変だったのか、俺は知らない。だが、あの時の親父はまるで、そいつを責めたいというよりは、キリュウに詫びたいように見えた。
あれは何だったんだろう。
豪雨の音をバックに、叩きつけられた銃から、零れ落ちる弾丸を思い出す。誰も知らない、錦山彰という男の柔らかい部分に触れたような心地がして、それは少し優越だった。しかし次にそれに触れたなら今度こそ俺は殺されてしまうような気がして、誰にも言えなかった。
それから幾ばくかの月日が経って、100億の盗難の最中に、噂の『桐生』が出所して、そして、呆気なく親父は逝っちまった。
そうさ、呆気ないもんだ。
そして極道ってやつは、存外薄情なもんで、みんな忘れていく。あの人がしたことも、あの人が居たってことも。親父とキリュウの間で何があったのか、あの雨の夜、夢の中で何があの人をあんなに苛んでいたのか、結局の所俺は知らない。ただ、俺は、今だって思い出す。鮮烈な緋鯉が苦しみながら滝を昇るあの様を、いつまで経ったって、忘れられないのだった。