バンビと王様33
タダで貰えるものなど世の中にはない。何かを得たければ犠牲が必要だ。
その約束もそのはず、だったのだが。
「いいかいリツカ、俺は今から街へ行くけどその間ここに誰も入れてはいけないよ。
まぁ、そもそもマトモな人間はここには来れない。つまりここに辿り着いた人間はマトモじゃないって事さ」
「わかってるよ!オベロンが街に行くのもう何回目だと思ってるの?」
ぷくっと頬を膨らませたリツカの姿に、オベロンは少しばかりの愛着と共に苛立ちを感じると
「きみがそそっかしいから何度もいうんだよ!!今朝だってポケットに木の実をいれたままの服を洗濯して大変だったじゃないか…」
そう、笑顔を向けながらリツカのこめかみを拳でグリグリ捏ね回した。
「うぅ…ごめん、なさい…。気をつけます…
オベロンが帰って来るまでにしみ抜き済ませとくから…」
しゅん、と垂れたアホ毛に気落ちした顔。
本当、コロコロとよく表情が変わるな。と感心したくなる。
…お土産に街で流行ってるお菓子でも買ってきてやるか。
だがオベロンはそれを口には出さず、リツカの頭をわしゃわしゃと撫でてやると
「まぁ、良い子でお留守番をしている事だ」
そう告げ、二人で暮らす家から出かけて行った。
オベロンが出かけて一時間は過ぎた頃だっただろうか。
リツカが真っ赤なシミだらけにしてしまった服の染み抜きに必死になっていると、それは訪れた。
こんこん。
硬い何かがドアを叩く音。
誰か来た…。
だが、リツカはオベロンの言いつけを守り出て行く気はない。
物音を立てぬよう…ゆっくり立ち上がり玄関の様子を伺う。
こんこん。
リツカの気配に気づいているのかいないのか…
それは再びドアを叩いた。
「無視する気かい?子鹿ちゃん?」
ドアの向こうから男の声がした。
リツカはこの声の主を知っている。
忘れていたわけじゃない。
いつか、その日が来るとは思っていたが……。
きゅっと拳を握りしめ、息を飲み込むとリツカは閉ざされたドアを開けてしまった。
「やあ、久しぶり!元気そうだね」
そこに居たのはリツカを人間へと変えた魔法使いの姿だった。
「約束、忘れてないよね?そろそろかなと思ってきたんだけど…?」
「あ、あの……本当、に…」
「約束は約束、だろう?
なに、こう見えて僕は上手いって評判だからね。あ、あと確認したいんだけど…君の想い人とはセックスしてないだろうね?」
リツカの白い指がスカートの裾をぎゅっと握り首を振る。
「そう。その辺りちゃんと守ってくれていたんだね、良かった
君を人間にする代わり、君の処女を貰うのが約束だったからね。」
「……あ、あの…他の物じゃ…」
「ああ、やっぱり心変わりしちゃった?初めての相手は好きな相手がいいもんね。わかるよ、わかるとも。だけどそういう約束を最初に飲んだのは君だからね」
約束は約束だ。
魔法使いはリツカの気持ちなど痛いほどわかっていた。わかっていたからこそ、だ。
「好きな男を思いながら僕に初めてを奪われる。しかもその約束は君自身がしたんだ。
最高に興奮すると思わないかい?いやぁ悲劇の物語ってワクワクしちゃうね。恋の蕾がそろそろ綻ぶかと思って来たけど丁度良かったみたいだ。」
「っ……最初から、そのつもりで…」
「まぁまぁそう怒らないで。そもそも鹿が人間になれるだなんて奇跡に近い技だ。
対価としては当然じゃないか?」
そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
そう、リツカ自身がそれを許諾してしまっているのだ。
「っ…ここ、で…するの?」
「二人の愛の巣で?うん、いいね。それも燃える。男が帰ってきた所に君と僕が繋がった姿を見せつけてやろうか?」
「やっ…やだ。それ、は…そんな事しないで!!それに、そこまで約束に入ってないでしょ?!
初めてはあげるって言ったけど…そんな条件までなかったじゃない!」
魔法使いは掌を上に向けおやおやとリアクションしてみせる。
「こ、ここは…ここは絶対に嫌…。あ、明日…明日になったら必ず貴方の家に行くから……」
「そう。わかった。いいよ。
ただし逃げ出したら君の大好きな男を虫に変えてしまうから。わかったかい?」
リツカが小さく頷くと魔法使いは眉山を楽しそうに動かし
「では明日。楽しみにしているよ」
と、あっさりと帰っていってしまった。
今日は朝からついてなかった。
厄日ってこういう日の事を言うんだな…。
リツカは両手で頭を抱えた。
約束したのは自分だ。
オベロンは関係ない。
しかも、自分はオベロンの事が好きだがオベロンの気持ちはわからない。
一人で何とかしないと…。
違う男に抱かれた体でオベロンの隣に居れるだろうか?
オベロンが知ったら汚く罵られるかもしれない。誰にでも股を開くと、そう思って軽蔑するかもしれない。
そんなのは耐えられない。
リツカは洗いかけの服を綺麗に洗い終えると、紙とペンを手にオベロンから習った文字で手紙を残した。
『今までありがとう。大好きだったよ』
と。
最初に着ていたワンピース一枚では流石に寒かったが、オベロンが作ってくれた服は彼との思い出がつまりすぎている。
リツカは名残惜しそうに一度だけ二人で暮らした家を振り返ると。
「短い間だったけど…幸せだったな」
誰に告げるわけでもなくそう溢し…そこを後にした。
オベロンに恩返し出来たのかな。
オベロンは私と一緒で楽しかったかな。
オベロンの助けに…なれていたのかな。
命を助けて貰った恩は一生かけても返し続けたかった。
だけど、それよりも…。共に過ごすうちに大きくなった恋心のせいで、明日他人に抱かれた身体でその後も一緒に暮らす罪悪感の方が勝ってしまった。
魔法使いに抱かれたら二度とオベロンには会えない。
今オベロンの顔を見たらきっと冷静じゃいられない。
だったら、彼が帰ってくる前に…さよならをしてしまえばいい。
最初から一人で暮らすのを好んでいたし、きっと出ていった所で探しには来ないだろう。
リツカは赤く染まった落ち葉を踏み締めると、森の中へ姿を消していった。
とりあえず今日は、何処かで夜を過ごし…明日になったら魔法使いの所へ行こう。
リツカは柔らかな落ち葉を踏みながら寝ぐらに良さそうな場所を探し歩いていた。
この時期に深い森の中を出歩くと冬眠前の熊に出会うからね。──オベロンが優しくそう教えてくれたな。と、思い出に浸っていると、リツカの目の前に真っ白なシルエットが見えた。
「え…?」
いや。いやいや。あり得ない、そんな。
だって家は反対方向だし、ここまで歩いて何分かかったと…。
しかし、そのシルエットはゆっくりと此方に近づいてくる。間違いない、あれは……オベロンだ。
「嘘…なん、で……」
今会ったら…折角の決心が鈍ってしまう。
リツカは踵を返すと今来たばかりの道を駆け出していた。
「あっ…コラ!!おい、待て!!」
後ろからオベロンの怒鳴り声が聞こえる。
何で?何で怒ってるの?!
染み抜きもちゃんと済ませて出てきたのに…。
急いで森の中を駆けるが鹿の時みたいに速度が出ない、足の長さのリーチもあってかオベロンはずんずんとリツカの方に近付いて来ている。
ああ、ああ。捕まっちゃう。
焦ったリツカの足がもつれ、伸ばした指が宙を舞うと…リツカはそのまま柔らかな落ち葉の上に派手に転んでしまった。
さく、さく…ゆっくりと近づく聴きなれたブーツの音。
落ち葉と土に塗れたリツカが何とか顔を上げると、そこにはオベロンが仁王立ちしていた。
「あ、あ、あの……手紙、読ん……」
目の前が真っ暗になり、リツカの身体の上にオベロンが覆い被さってきた。彼女を逃さぬよう、檻のように。
「手紙?あんなメモ一切れで?」
明らかにオベロンは怒っていた。普段からそこまでニコニコしている方ではなかったが、輪をかけてひどい。
「とりあえず、理由を聞こうか?」
「理由…?」
「魔法使いと取引までして俺の所に押しかけてきた君が、こうもアッサリと出て行く。だなんておかしいじゃないか?
あんなに拒否した俺を押し切ってまで居座っていたのに、だよ?」
口調は優しいがその声に温度は感じられない。
「…い、一緒に居たら…迷惑に、なるから」
「今更、じゃないか?おかしいねぇ。
リツカ…嘘は良くないよ。というより、俺に嘘は通じないから。
素直に自分から言ったら、許してやらないこともない。」
水色の瞳が間近に迫り、リツカはヒュッと息を飲んだ。バクバク、バクバク…心臓の音が…早い。
こんなにドキドキするのはあの日罠に掛かった時以来だ。まぁ、今も…オベロンにこうして捕まっているが…
「…あ、の……もうすぐ、オベロンと一緒に…居られなくなる、から…
だから…顔を見たら…。決心が鈍る、から」
「へぇ、どうして一緒に居られなくなるんだい?俺の生活を脅かす何かが居るのか?
ああ、あとリツカ…きみ、言いつけを守らなかったね?」
「っ…?!何、でドア開けたのわかっ…」
がばりと身を起こそうとしたのだが、オベロンの指がリツカの両手に絡み付きそのまま地面へ縫いとめてしまった。
「他人の残り香なんてすぐにわかるさ。
大方、きみと取引した魔法使いでもやってきたんだろう?契約内容までわからないが…
だから家から出ていった。合っているよね?」
「う、ん……」
「一緒に居たら迷惑がかかる…一緒に居られなくなる…。きみ、魔法使いとどんな取引したのさ?
人間の生活を思う存分楽しんだら、怪物にでもされるとか?」
ふるふると首を小さく横に振る。
細まった空色の瞳が「言え」と、そう告げる。
「……っ……私がオベロンの事…一人の人として好きになった頃に…魔法使いに…私の初めてを…処女を…渡すって……」
顔を見ながらは言えなかった。
首を横に向け、その顔を見ないようにぽつぽつと告げると、盛大なため息が頭の上から降り注いだ。
「……馬鹿か、きみ…」
安堵にも似た絞り出した声と共にオベロンがリツカの身体を抱き締めた。
伸し掛かる彼の重みと体温…心なしか…心臓の音が早い気がする。
「何でそんなバカな契約っ…あああ、クソ……わかってる。俺がきみを助けたからだ!だからきみはアイツの所へ…………」
ぎゅぅうう…っと。伸し掛かる重さが増していく。だが、リツカはそれを嫌だとは思えなかった。
「オベロン…迷惑かけて…ごめんね。私が罠にかからなかったら…」
「…違う。悪いのは罠を仕掛けた人間だ。
はぁあ……俺もヤケだな…」
オベロンは深く息を吐き出すと今まで押し倒していたリツカの手を引き、その身を立ち上がらせると。
「とりあえず、帰るぞ。いつまでもそんな薄着で居たらまた風邪を引くだろ…」
「っでも、私…明日魔法使いに会わないとだから…。行かないとオベロンを虫に変えちゃうって」
魔法使いから言われた事を慌てて伝えたのだが、オベロンはそれを鼻で笑うと次第に声を上げた笑いへ変えていった。
「俺を虫に、ねぇ?それはそれは傑作だ。
出来るものならやってみたら良いさ…。そら、帰るぞリツカ…」
有無を言わせぬ、そうオベロンの指がリツカの手を握ると森の中を帰路へ歩み始める。
「それに、ヤツが欲しいのはきみの初めてだろ?」
「あっ…う、うん」
「なら、明日までにきみの初めてを済ませてしまえばいいじゃないか」
初めてを…済ませる?
今この人は何て言った?
リツカの頭の中で疑問符が何個も浮かびその足が止まる。
「オベロン…それって…」
「きみの初めては俺がいただくよ」