食べたい?待ち合わせた雑居ビルの入り口に黒いかたまりが飛び込むように入ってきた。突然の雨に傘を持たず、パーカーのフードをかぶって駅から走ってきたらしい男は、こちらの姿を認めるとフードをとり、すみません、と言った。フードで防ぎきれなかった前髪が雨で濡れていた。
「雨……」
大丈夫?と続けようとした深津を遮って彼は頭を下げた。
「天気予報見てなくて、傘持ってなくて。深津さん?ですよね。あ、宮城です。宮城リョータ」
その姿は、聞いていたよりもずいぶんと若く、というより幼く見える。深津は今日から自分を担当をするそのパーソナルトレーナーを好ましく眺めた。
年はひとつ下で、仕事が丁寧だと聞いていた。カウンセリングに時間をかけ、目的に合うトレーニングを組んでくれて、結果、一か月で予想以上に体が変わった、というのが知り合いのコメント。
このところ忙しく、思うように体が動かせていなかった。学生時代に十分というほど鍛えた体も、運動をやめた今は気づけば筋量が減っていて、それだけならいいのだが、ここ数年の忙しさと不摂生がたたり、どうも少し緩んでいる気がする。いや、気のせいではなく、スーツのウエストがきつい。
『ちょっと太った?』
久しぶりに会った学生時代の友人の遠慮のない一言に、重い腰を上げる気になった。会食の席でトレーニングを再開しようかと思っているという話題を出してみると、パーソナルトレーナーを雇うのがいいだろうと言われた。確かに一理ある。学生時代のように当たり負けしない体を作らなければならないわけでもなく、今のスーツのサイズが変わらない程度に程よく、体の線がきれいに保てればそれでいい。とはいえ学生の時のように無限に時間があるわけではないから、効率よく時間を使いたい。興味があれば連絡してみるといいよ、ともらった連絡先に依頼をしてみた。合わなければやめればいいかという軽い気持ちだったが、連絡先をくれた知り合いは言った。君はきっと気に入るって。
「はじめましてなのに、お待たせして……おまけに濡れてて申し訳ありません。中、入りましょうか」
宮城はそう言ってジムの扉を開けた。平日の昼下がり、雨の日のせいか、ジムにはほとんど人はいなかった。
――君はきっと気に入るって。
知り合いだってなにかわかってて言ってたわけではないだろうに、と深津は自嘲する。だけど当たりだ、気に入ったよ――声にならないつぶやきに頭の中の知り合いがにやりと訳知り顔で笑った。そう、まだトレーニングは始まってもいないけど、別の意味で深津は宮城のことが気に入った。――抱きやすそうな身長差とけだるげな瞳、それでいて勝気な表情、小麦色に光る肌が。
前に立ち、ジムのドアを開けた男のパーカーの隙間から覗くうなじを眺める。うなじは綺麗に刈り上げられていて、普段なら清潔感の一言ですまされるはずのそこからは、色気が立ち上っているかのように感じる。近づいて匂いを嗅いでみたらどんな匂いがするだろう。ココナツの甘い匂いを宮城の焼けた肌から連想したら、口の奥にじゅわりと唾が溜まるのがわかる。気に入った?訂正しよう。深津の好みのどまんなかだ。
今週は雨が多いらしい。折り畳み傘必須ですねといかにも初対面らしいあたりさわりのない会話をしながら更衣室に荷物を置く。宮城がパーカーを脱ぐと、美しく鍛えた体が現れた。仕事柄、常に人に見られることを意識した体を作っているのだろうが、なるほど美しい。首から肩にかけてのしっかりしたライン、盛り上がった肩から上腕の筋肉は特に見事で、どこかのポスターになってもおかしくない。彼らのような人種は往々にしてその自慢の筋肉を誇示するような小さめのサイズのシャツを選んで着ているが、宮城は違った。普段なら好ましく思えるそれが、今日はもったいないと思うのだから我ながら現金なものだ。隠されているほどエロいっていうどこかで見たセリフを思い出す。深津は今、宮城の上半身をくまなく見てみたくてたまらない。ゆったりとした襟ぐりから覗く肌が想像を掻き立てる。だけど同時に、白いシャツと焼けた肌のコントラストも捨てがたいとも思っている。
「そんなに見ないでくださいよ」
視線を感じた宮城が照れたように笑った。
「だけど見られるのが仕事だろ?」
深津は自分の不躾を謝ることはせず、あえてそう言った。宮城だってそうは言っても見られることに慣れているはずだ。物腰柔らか、顔もそれなり、鍛えた美しい体。「優良物件」なのは証明されたようなものだ。女も、そして男も放っておくはずがない。そして宮城もそれを自覚しているに違いない。
「いや、それは違いますね。見られる体を誰かに作ることが仕事なんで」
ほお、出し惜しみするタイプか。
「そりゃ悪かった。別料金ってわけだ」
「はは、結構高いっすよ」
たいして面白くもない冗談に、乾いた笑いとともにやっぱりたいして面白くもない一言が返ってきて、でもそんなやる気のないやり取りが気持ちよくて笑ってしまった。どうやら向こうも同じようなことを思ったらしい。歯を見せて笑った宮城は、幼い印象がさらに深まった。
「始めましょうか」
事前にオンラインでカウンセリングはすませていた。現在の体形、一日のルーティン、食事の様子から睡眠時間。そのときに決めたゴールにロードマップが示される。宮城とのトレーニングは週に一度の予定だ。――それ以外にも最低一回はジムに、週三回通えると効果が出るのは早いです。あと食べたものとかもだいたいでいいので報告してください。達成までの期間は己の頑張りに左右される。それを強調されつつ、でも誰かが見守ったほうが一人でやるより頑張れますよとさらりと付け加えるのも忘れない。
――はい、上げます。いち、に、さん。しっかり上げて、そう。あとちょっと。いい感じです。そうです!その調子!次、ラストです。がんばりましょう。
軽快な掛け声に乗せられて、あっという間に時間が過ぎる。かつて、毎日のメニューはこなすのが精いっぱいだった。トレーニングとは一人孤独にマシンに向かい合うもの、そんな学生時代とはまったく違う世界だ。体を追い込むのは同じでもどこか新鮮な感覚がある。深津は人に見られていなければ運動できないというタイプではないと思っているが、パーソナルトレーナーをつける人の気持ちがよくわかった。まあ深津にとっては、眼福の意味のほうが重要かもしれないが。
「昔は結構鍛えてました?」
「ああ、大学までバスケを」
「なるほど。なんか慣れてますよね。体の動かし方っていうか、負荷のかけ方っていうか」
「だけど、ジムなんてすっかりご無沙汰だから」
「もったいないっすよ。深津さん、こんないい体してんのに」
指先がウエストのあたりをさらりと撫でる。偶然? いや、偶然を「装った」だけなのが深津にはわかる。なぜかって? 深津も同じ気持ちだからだ。
「7、8年前ならそれも褒め言葉として受け取ったけど、さすがにお世辞が過ぎるだろ」
指先の戯れには気づかないふりを突き通してさらりと答える。そうしながら深津の気づかないふりに宮城はきっと気づくだろうという確信がある。
「そうですか? 十分魅力的だと思いますけど」
「口も人気トレーナーには必要な要素だな」
「どうだろ? 俺、ほんとのことしか言いませんよ」
それこそが調子のいいお世辞だろうとわかっていても、片眉が上がり、きらりと光ったように見えた瞳に深津の心臓は一度大きく跳ねた。
「思わせぶりだな」
深津は呆れたように声を上げて見せる。さすがは「優良物件」だ。周りが自分をどう見ているか知ってるから、自分の売り方も知っている。その手のやつらがよく見せがちな傲慢さの塊みたいなものが深津は大嫌いだったけれど、宮城にはそれがない。あったとしてもうまく隠す術を身に着けている。優良の上に「超」をつけてもいいかもしれない。
「俺を張り切らせるのには成功してるけど」
「ふはは、そりゃよかった」
こういう綱渡りは悪くない。そんなふうに思ったのは久しぶりだった。体を動かすと、休んでいた脳のどこかにも刺激を与えるのかもしれない。
ベッドの上でこの男をめちゃくちゃにしてやりたいという欲望が胃の奥のほうでむくむくと膨れ上がり、喉を押し上げてくる。深津はその衝動をなだめ、飲み込むことに成功する。まだ早い、それをよくわかっていたから。綱渡りが楽しいと感じたのなら、それをとことん楽しまないと。そうすれば望む行為はもっと素晴らしいものになるはずだ。ベッドの上の行為だけなら誰とでもそれなりに楽しめる。だけどそこまでの道のり、ベッドまでの長い長い前戯を楽しもうと思う相手にはなかなか出会えるわけではない。つまり、宮城のような相手は貴重だってこと。
「ポテンシャルを最大限引き出すにはどうしたらいいか、対策練らないとですね――はい、じゃ次。いいですか」
宮城の一瞬崩れた口調のうちにちらりと垣間見えたような気がした欲はすぐに隠れてしまう。ビジネスライクな口調が告げる。ポイントは肘の高さですね。そう、もう少し肘を上げてみてください――。
掌が肘を掴む。掴まれたところから体温と一緒に隠した欲も伝わってくれば簡単なのに。駆け引きを楽しむと言ったそばから、そんなことをすべてすっ飛ばしたいという自分の欲深さが笑える。
――そう、いいですね。この高さです。ここをキープしてください。
宮城はあったかもしれない欲に続く扉をぴったりと閉めてしまったようだ。だから深津も知らん顔をする。なるほど宮城の要求した肘の高さで動作をきちんと行おうとすればかなりきつい。知らず歯を食い縛っており、それを見た宮城が笑顔で告げる。そう、その調子であと8回です。悪魔というのは意外にこういうかわいい顔をしているのかもしれない、深津は思う。そういや、世の中には小悪魔っていう言葉もあったよな……きつい動きをくり返すつらさをどこかに追いやりたいという気持ちが働き、深津の頭の一部はどうでもいいことを考え始める。そうしたら、今度は深津の肘に添えられていた宮城の手が去り際二の腕の内側をゆるりと撫でていく。さっきよりはもう少しあからさまだ。その感触に思わず力が抜ける。肘、とすかさず彼。
「今のは君が悪いだろう」
深津は思わずそう言う。なにが? 宮城はくすくすと笑いながら答える。深津は動きを止め、宮城はまだ3回残ってます、と言う。
「君のせいだ。1セットを途中でやめるなんて普段はしないし、したくない」
深津は大げさにため息をついて言う。
「もっとやる気が出るかと思ったんですけど、逆効果でしたね」
すみません。と宮城は殊勝に頭を下げる。再び合った目が笑っている。覚えておけよ、とは言わない。あとのお楽しみが増えたと思うことにしよう。
「やり直しだ。これを何セット?」
「3セットですね」
「オーケー、わかった」
そうして深津は宮城の耳元で囁く。
「お楽しみはトレーニングのあとにしよう」
やられてばかりは性に合わない。宮城の肩が震えるのが見えた。そんなに初心な反応? 意外なそれに頬が緩むのを感じた。こちらを恨むような目に深津は上機嫌のまま答える。
「仕掛けてきたのはそっちだろ?」
「不意打ちはやめてください」
お互い様じゃないか。でもこの反応は気に入った。
久しぶりのトレーニングに筋肉はいち早く悲鳴を上げはじめた。腕はぷるぷると震え、膝は笑う。
「こりゃ、明日が大変そうだ」
深津はため息をつき、だけど、筋肉を使った後の心地よい疲れと滲んだ汗に満足を覚えている。
「今日のメニューはあとでお送りします。今日の量をこなすのが無理な日のための時短メニューも一緒に。さっきも言いましたが、週二回、可能なら三回のジム通いを目指して。あとは――」
宮城は話しながら更衣室のドアを開けて深津を中に促した、一歩先を歩きながら、深津は慎重に周囲に気を配る。中には誰もいない。一時間前、一番奥のロッカールームを選んだときは特に何か考えていたわけではなかったけれど、今は自分の気まぐれに感謝したい。一番人目につきにくい。深津に背を向けてロッカーに鍵を突っ込んだ宮城の名前を呼ぶ。
「宮城く――」
振り返った宮城の肩を掴んで顔を近づけた。近づきすぎて焦点が合わなくなるほどのところまで来て動きを止めると、宮城が小さく息を吐いて笑う。
「おじけづいた?」
「まさか。逃げるチャンスを与えてる」
お互いの吐く息が生温かく唇を濡らす。どうする? そう尋ねる間もなく、望んでいた柔らかい感触はすぐに与えられる。シーソーゲームを楽しんでいた会話とは裏腹に、宮城の唇の動きは早急だ。「おなかすいた」「食べたい」そんな言葉が聞こえてきそうなくらい。しばらく好きにさせておこうと思うが、こちらもすぐに熱が上がりそうな予感がある。シャワーを先に浴びるべきだったかもしれない。それとも一緒にシャワーを浴びる? いや、それは我慢できなくなりそうだ。近くのホテルはどこだ? すぐに見つかるといいのだが。
ひとしきり唇をむさぼり合い、息が切れたころにやっと唇が離れる。つっと引いてプチンと切れた唾液の糸が宮城の口の端を光らせていて、それがひどくセクシーだと思った……そう、そこまでは最高のひとときだった。宮城の一言さえなければ二人は30分後にはホテルのベッドの上にいたかもしれない。そうして服を半分脱いだ間抜けな格好で頭を抱えたかもしれない。だから、まあ、これでよかったと思うことにしよう。宮城は言ったのだ。
「ねえ、深津さんの中ってどんな感じかな?思う存分かわいがって啼かせたい」
それは深津が言うはずのセリフだった。
「なんだって?」
深津は聞き返す。間違いであるといいと願いながら。だが、そんなに大切なことを深津が聞き間違えるわけがなかった。
「かわいがって啼かせたいって言ったか?」
「うん、いじめられたらいい顔しそうだなってトレーニングの間じゅう考えてた」
邪気のない笑顔で宮城が言う。指先が首に流れた汗をすくう。「いじめられたらいい顔しそうだな」?それもまた深津が宮城に言いたかったことだ。今目の前にあるキラキラと輝く瞳は捕食者のそれで、どうして今まで気づかなかったのか不思議なくらいだ。深津は自分を呪いながら、そのあまりの「あってはいけない」誤解に笑うしかない。
「なに?」
やっと口調の崩れた宮城はどうやら深津の笑いで気を悪くしたらしい。まだ気づかない? 結局深津は小さく声を上げて笑い出す。
「残念だ。俺も同じことを君に言おうとしてた」
え? そこで宮城もやっと自らの誤解に気づく。ピリリとした空気が一瞬流れ、そして宮城は恐る恐る口にする。
「ってことは……えっと」
「確認するまでもないな。ちなみに俺は絶対に宮城君に突っ込んで君が瞳に涙をためるところが見たい。それは譲れない。宮城君はどう?」
残り何割かの希望を賭けてみるが、宮城は力なく首を振る。
「まだまだ知らない人生の悦楽ってあると思うんだよね? それに浴したいって思ったことは?」
「同じ言葉を返すよ」
「俺がそれを知らないって思ってる?」
この一時間ほどですっかりとおなじみになった特徴のある眉が片方だけきれいに上がった。
「だから深津さんにもぜひ味わってほしい」
「知ってるなら、なおさらその道を追求するっていうほうをお勧めしたいね」
盤上、二人の均衡は全く崩れる気配はない。あっちに傾けばこっちに戻り、揺れてバランスを取り、むしろその揺れを楽しんでいるし、どちらも絶対に譲るつもりはないのがお互いわかる。
見つめ合い、ふは……二人で息を吐き出したタイミングまで同じだった。
「俺たち、すごく相性がいいと思うんだけど」
宮城はねだるような視線を向ける。それはまさに愛されてるのに慣れていて、それを疑わない甘さがあり、正直に言おう、深津の気持ちも一瞬ぐらついた。
「それには同感だな」
深津は宮城のその柔らかい髪に指を這わせる。
「残念だよすごく」
「来週までに考えが変わるかもしれないよね」
宮城の手はまだあきらめてはいないのだというように腰を撫でている。
「絶対よくしてあげる自信があるんだけど」
だから深津も負けじと言う。
「俺は君の考えが変わることを願ってる」
「また来週?」
二人の視線が絡み合い、そっと離れる。戯れに触れ合った指先もまた離れる。少しの名残り惜しさを感じたのが、深津はなんだか負けた気分がして腹が立ったが、向こうも同じ顔をして指先を見つめていたから留飲を下げた。
「じゃ、また来週」