「おー、バスケ部のくせに焼けたな」
鬼みたいな合宿から帰った翌日の、思う存分惰眠を貪り、疲れた体をいたわった夕方だった。ハルトは3ヶ月ぶりに美容室へ向かった。134号線、海を眺めながら走れる道はこの季節、朝から常に渋滞している。動かぬ車の列を尻目にハルトは自転車で海風を切り、目的地へと向かう。海辺の駐車場に止められたヴィンテージのエアストリームまでは自転車で十分ほど。ハルトを出迎えたエアストリームのオーナー、リョータさんは人の悪い笑みを浮かべてからかうように言った。
「毎朝山中湖一周したからね、嫌でも焼けるよね」
「海で日焼けじゃねーのが残念だな。湘南っ子なのに」
「いや、これから行くし。本格的に焼けるのこれからだから。山中湖で終わってたまるかよ」
バスケ部恒例の2泊3日の合宿は7月末、今年も山中湖で行われた。バスケ三昧の3日間、文字通り吐くくらいの厳しさだが、今年はなんと顧問の青山先生のおかげで翔陽と日程を合わせての合宿となった。「コーチもお忙しいですし、わたしでは指導できませんし、ダメもとで赤木先生に頼んでみたら喜んでという返事をいただいたので」 青山先生はなんてことないように言ったが、実力にそれほど差がなく、過去に何度も対戦実績もある翔陽といっしょに合宿できるなんて、部員のそれほど多くない湘北にとっては願ってもないチャンスだった。青山先生やっぱり湘北のファンタジー!コーチを連れてきた時点で上がっていた青山先生の株はここでまたさらにぐんと上がったってわけ。
そのコーチだけど、「意味わからんスパルタだったら?」とか「他校で問題起こした人だったら?」とかいう心配は無駄でしかなかったことがすぐに証明された。だけどあの人チャラくね?というハルトの文句(なにか言わないと気が済まなかった。そうだろ?だって湘北のコーチやりますなんてこっちは聞いてない!)に至っては「なんで?カッコいいじゃん?」という一言で切り捨てられた。
宮城コーチは部員を怒鳴りつけることもなければ、殴ったりすることもなく、それどころか短い間で部員たちの癖を見抜いて、それぞれにわかりやすい指摘をし、改善するための知恵を授けた。要するに「よくできた」コーチだ。
ハルトにはシュートのとき、少し手首のスナップ意識して打ってみな、というアドバイス。綺麗に決まったときどうやってたか、それを覚えさせるんだよ体に、と言われ、練習のときに意識しているうちに、スリーの確率は気づけば前より上がっていて驚いた。 冷静にアドバイスをし、うまくいけば褒める、失敗すれば次に生かす方法を考えるそんな感じだったから、クールに状況判断する人かと思いきや、人数合わせで自分がゲームに入ったりするとありえないくらい熱くなる。試合でも負けたら誰よりも悔しがる。それを見てたら、勝ってこの人の喜んだ顔見たいって感情も自然に生まれるわけで。我らが宮城コーチは練習に合流して早々、すっかり部員の心を掴んでしまったのだ。「ただのチャラい美容師だと思ってた」というハルトにみんなは言った。「お前の目の節穴具合も半端ねえな」
とはいえ、ハルトはみんなから羨ましがられもしている。キャンピングカーを改造した134沿いの美容室は知らぬうちに人気になっていたらしく(そうでしょうねおしゃれだもん)、予約は取れない。その上むさい高校生が冷やかしに来んじゃねえとコーチに言われ、結局#8で髪を切っているのはバスケ部の中ではいまだハルトだけである。
短期間ですっかり人気者になった宮城コーチなので、彼が湘北出身と明かされるやいなや、高校生の旺盛な好奇心が宮城コーチの過去を掘り起こすことに存分に発揮されたのは言うまでもない。ハルトは山王戦の試合の動画をシェアしたし、図書委員の遼太郎は同窓会資料室に過去の卒業アルバムが全部あるよと言い出して、みんなに歓喜の声を上げさせた。アルバムはすぐに見つかり、18の宮城コーチのスカした顔がグループチャットで共有された。それどころか、いま振り返れば意味のわからないくらい豪華なメンバーが湘北に集まっていた年のインターハイの新聞記事やら写真まで出てきた。当時のセンターが翔陽の赤木先生だったのも驚きだったが、なによりあの流川選手たちをアゴで走らせてたのが宮城コーチだなんて震える!というのがみんなの意見だった。ハルトはといえば、おばのアヤちゃんの隣にコーチが立っているのがやっぱり何度見ても不思議な感じだったし、今でも仲良さそうな2人にまさかとはいえまさかがないよな?と頭をよぎったのが苦痛だった。なにしろ卒業した前キャプテンの先輩はマネージャーと付き合ってたし、先輩のポジションはPGだったから。でも、見るからにヤンキー!って感じの宮城コーチは絶対にアヤちゃんのタイプではないだろう。たぶんね。
高校時代の宮城コーチの姿が晒され、本人はもちろんご立腹だった。――そんな暇あるなら英単語のひとつでも覚えろよ、ま、知ってるけどお前らの熱量がアホな方向にしか向かないのはよ!
そうして湘北バスケ部員は知ったのだ。赤木先生が困っていた青山先生にかつてチームメイトだった宮城コーチを紹介したんだってことを。赤木先生は宮城コーチを翔陽のコーチにしたかったらしい。こっち来てくれてよかった。やっぱり青山先生は湘北の救世主だったし、奇跡みたいなご縁には感謝しかないってわけ。
合宿日程を合わせた翔陽とは2日目午後と3日目の午前、試合形式の練習をした。赤木先生のつてで、さらに合宿日程のかぶっている学校も加わって、かなり充実した時間になった。おめーら、練習試合でも翔陽には負けねえからな、と気合が入っていた宮城コーチだが、仕事をそんなに放り出せるわけもなく、初日だけ参加して夜にとんぼ返り、結局練習試合は見られなかった。代わりに充実した練習メニューと課題をたっぷり与えて帰った。その中には早朝山中湖一周ランも組み込まれていて、ついでに練習のあとにグラウンドが空いてるのを見つけてサッカーで遊ぶという体力おばけの高校生力を発揮したせいで、湘北バスケ部の面々は室内競技部活のくせにちょっと日焼けして帰ってきたのだ。
#8の車中から見る海はきらきらと輝いている。午後6時でもまだ眩しすぎるくらいだ。
「この時間光がちょうど鏡に反射して眩しくて。このまま髪切るとか無理だからブラインド下ろさせて。15分で終わらせるから」
せっかくの#8の売りの景色も西日には負ける。海が見えないまま、ハサミの音が響く。鏡に映る美容師の「リョータさん」は、バスケしてるときとは違って見える。練習のときは外しているバングルもピアスも存在を主張しているし、ダボッとした大きめのTシャツとパンツ姿で、今朝誘われて仕事の前にサーフィン行ったんだけど、まあ、意味わかんねーなあれは、やってもやってもうまくなんねぇ、もう少しうまくなったらボード買って店の前に立てとくんだけどなあ……なんて言ってる姿からはバスケやりますオーラも出てない。やっぱりチャラいんだけど、ハルトはこの人の裏の顔を知ってしまったわけで、なんかそれはちょっとぞくぞくする。
「そいや、合宿のミニゲームのビデオ見たけどよ」
しばらく黙って髪を切っていたリョータさんが急にそんなことを言い出すからハルトは慌てて身を正す。いきなりコーチ出してくんの、やめてほしい。
「え?見たんすか?」
「青山先生にビデオ撮ってもらってよ」
襟足バリカンすんね?バリカンの唸りにリョータさんの声が乗る。
「ハルト、お前、遠慮せずスリー狙えるようになったな。あと、2Qの後半でいいとこ走ってたやつ。PGを泣いて喜ばせるやつだ。あれ、試合でもやれよ。決まるとか決まんないとかの前に、後半ばててくるあたりであのくらい走れる奴がいるとチームとしてすごく強い」
やばい。もしかしなくても褒められてる……ハルトの尻のあたりがむずむずしてくる。いままでここでバスケの話、したくてもできなかったのに。
「任せといてよ」
小さな子供みたいにハルトは請け負う。
「山中湖ランは3位でゴールしたし。スタミナあるよ」
「けど、最終日疲れてばてばてだったって聞いたぜ?」
「なに?リョータさん、先生と連絡密すぎない?」
いや、俺、コーチだからな。バリカンの音が止み、リョータさんの手がハルトの髪をかきあげる。
「できた。どう?」
バスケのための短髪。ハルトの返事を待ってブラインドが開けられる。鏡の向こうには美しい夕暮れの景色が広がっている。落ちてきた大きな太陽が地平線を赤く染め、そこから紫へと変わる空のグラデーションは絵画のお手本のようだ。空に浮かぶ雲の流れまで計算されたような美しさ。
「うおー!すごいね」
「夏は夕暮れどきがいいよな。今日天気良かったから余計にきれいかも」
「散歩して帰ろ。また明日ね」
ハルトは言う。「おう、また明日」
リョータさんも答える。こないだまで想像すらしなかった「また明日バスケしよう」が言えるの、得難いことだよね。ハルトは頬の裏側を噛んで、だらしなく笑みがこぼれそうになるのを抑えた。
自転車の鍵をガチャガチャやってるときにリョータさんの知り合いらしい誰かが声をかけなかったら、この日はハルトが近ごろ起こったことを噛み締め、がらにもなくしみじみした日、で終わっていた。それでよかったはずなのに!いきなり、いやずっと日本に住んでたらこんな風にはならないでしょ?みたいなこなれた英語がリョータさんの口から出てくるのを聞いてしまったハルトが部室で騒いだせいで、部員たちの間で「コーチ、アメリカ人疑惑」がまことしやかに囁かれるのは翌日の朝練のことだ。