3.不穏 バーテンダーという仕事は派手な印象を与えがちだが、全くそんなことはない。夜が遅いから生活は不規則になるし、酔っ払いの世話や、嫌な客に絡まれるときもある。シェイカーを振るかっこいい姿なんてほんの一瞬で、レシピは記憶力との勝負だし、季節ごとに何かしらオリジナルのカクテルを作ろうと思ったら、センスも必要になる。
そこに歌舞伎町が加わると、厄介さはさらに増す。客同士が一触即発になることもあれば、女の子が逃げ込んでくることもある。今晩は決めるぞ、って思っているお客がいるときはスタッフ一同陰ながら応援しますって感じだが、事件が起こりそうな気配があればなんとか未遂で終わらせなければならない。
レストルームには「危険を感じていたり、助けが必要だと思ったら、遠慮なく」とスタッフに助けを求めるサインをポスターにして貼ってある。暴力とドラッグは厳禁。気配を察したら、放置はしない。堂々と「これ、次の飲み物に入れて」と頼んでくるお客さえいるから、気が抜けない。
唯一少し時間と心に余裕があるはずの開店前にだって、お客が尋ねてくることもあるわ
けで……。
「久しぶりですね、深津さん」
「元気にしてたか、宮城」
ドアを開けて現れた、月に一度ほど尋ねてくる男の相も変らぬ姿を確かめて、リョータは遠慮なく呆れた声をあげた。
「いつもながら、ど派手な格好ですねえ」
今日の深津は大きな口を開けているトラが一面にプリントされた派手な柄のTシャツを着ていた。ジャケットで半分隠れているとはいえ、かなりインパクトがある。サングラスにエナメル靴まで揃えば、いかにも「そっちの筋の人」だ。
「いっそ感心するわ、ど真ん中すぎて」
「新しいシャツだピョン」
「お気に入りなんすね……」
ま、しゃべったら語尾に間抜けなピョンがつくピョン吉野郎なんだが、そこら辺もギャップ萌えを楽しめってか。どうでもいいけど。最初は驚いたその風貌も言葉遣いもいつの間にか慣れてしまった。慣れるころにはリョータは深津に遠慮せず言いたいことをずけず
け言うようになっていたし、深津は深津でそんなリョータを信頼できる、と嘯く。
「ほんと、毎回どんなところで服買ってるんですか?」
「今度一緒に行くピョン? 宮城は服が地味すぎる」
「いや、これ制服っす」
襟にクロスタイのついたシャツに黒のベストとパンツはこのバーの制服だ。だいたいアンタの隣に並べば誰だって地味だよと思う。しっかし、ほんと、この人ヤクザ映画から出てきたみたいだよなあ。ここだけ時空が歪んでる。
ヤクザのシマとかみかじめ料とか、いや、ヤクザの存在自体が全部昭和の遺物、または自分とは関係ない世界のものだと思っていた。映画やドラマの中で見る真実味のない世界。それらが実際に「生きている」ことをリョータはこの店で働くようになって初めて知った。深津は本人曰く「ほとんどホワイト」という有限会社の名刺を持ち歩いているが、ここら一体に幅をきかせている山王組の組員だ。見た目とは裏腹に(と言っては失礼か)頭が回るのは話の端々に見えるし、これからはヤクザもビジネスセンスがないと生き残れないピョン、などと言っている。ヤクザの世界はよくわからないが、どこでもみんな生き残りをかけて必死なんだなあとその話を聞いてのんきに思った。そのせいかどうか、店と山王組はヤクザドラマに出てきたような、脅し脅されたまに血を見る……などという光景とは無縁だし、リョータから見れば、つかず離れずの絶妙な関係を築いているように見える。山王組は店から定期的に情報を仕入れることで、シマで起こる出来事の把握に役立て、自分のシマで勝手されるような愚を犯されずに済むらしい。店のほうは、といえば、まあ保険みたいなものですね、とオーナーは言った。このあたりはね、「見えない面倒」が意外に多いですから。
その見えない面倒とやらはいつまでも見えないままでいたい、とリョータは心から思っている。平穏無事に日々を過ごすことこそ、リョータの信条だ。
「コーヒーくれピョン」
「あのさあ、ここ、喫茶店じゃないんですよ。コーヒーはないです」
「コーヒーがない?」
大げさに驚く深津にリョータは肩をすくめた。
「毎回この茶番やめましょうよ。何回言ってもコーヒーは出てこないっすから。ここにあるのはクランベリージュースかオレンジジュースか、あとグレープフルーツに牛乳。これだけ。どうします?」
話を勝手に進めたリョータに深津はため息を隠さない。
「俺は疲れてるピョン」
「三軒先にキャバクラありますよ。てか、深津さんお得意の合法ビジネスでお店持ってる
でしょうよ、きれいなおねーさんが慰めてくれるお店。そういうところに行ってください。ぴょんぴょん言うて、おねーさんの膝に頭載せて甘えてりゃいいじゃないすか。俺になんで癒しを求めようとするんですか?」
「中間管理職はつらいピョン。わかるピョン?」
あー、聞く耳もたねーわ。
「上の信頼を裏切るようなことはできないし、だけど下のやつらは好きにやりたがる。ついでに言うこと聞かない犬の世話係も俺だ。散歩はいらないけどしつけは必要ピョン。どいつもこいつも面倒は俺に押し付ければなんとかなると思ってる」
仕方ない、今日はクランベリージュースにするピョン。深津はそう話を締めくくった。いつもこの人の話はどこまでが本当でどこまでが嘘なのかわからないし、急に始まった話はどこに行きつくのかもよくわからない。なんだよ、犬って?
「ところで……」
ジュースの入ったグラスをカウンターに出したところで深津が再び静かに口を開く。さっきまでののんびりとした口調はそのままなのに、その色が少し変わっているのに気付いたリョータがすぐに反応する。
「ああ、そうでした」
酒が並んだ棚、前に並んだボトルを一本取り、リョータはその奥から缶を取り出した。蓋を開け、缶をひっくり返してカウンターに中身を落とす。ビニールに包まれた小さな包みがカウンターに転がった。
「ここ一か月ほどで二度ありました」
リョータは深津が無言でその包みを人差し指と親指でつまみ、ダウンライトに透かすようにして眺めるのを待って続けた。
「たぶんレイプドラッグです。客に入れてくれって頼まれたんですけど、ウチの店はご存じのとおりものすごくクリーンな店なので、はいはいって言って、代わりに粉砂糖入れときましたけど。もう一件は客がグラスに入れちゃったんで、ブツを押収できなかったっす。一か月に二度ってさすがに俺もここで結構働いてるけど、初めてですよ。たぶん同じもんじゃないかなと」
「ピョン」
今のピョンはそうだ、なのか、わかった、なのか、なんだ? 風変りで笑えるはずのピョンと無表情が合わさると、どうにも不気味になるから困る。
「あ、もしかして深津さんとこが売りさばいたりしてる?」
あてずっぽうで言ってみたら、深津の顔が今度はわかりやすく歪んだ。
「そんなふうに思われるのは心外だピョン。堂本組長は汚いことがお嫌いだから、大麻はオーケーでも脱法ドラッグはだめピョン。宮城ならそのくらいわかると思ってたピョン」
やれやれだ、とため息をつく深津に、ため息をつきたいのはこっちだと思った。アンタたちの事情は知らないし知りたくもない。ただ店で気になることを報告しただけだ。大麻も脱法ドラッグも俺はだめピョン、とでも言い返してやりたいくらいだ。
「それはこっちの管轄外なんで。ただ、これはちょっと耳に入れておかないとって思っただけっす。あとは適当にそっちでどーぞ」
「宮城はいい子ピョン。救われた子も喜んでるピョン」
「そりゃどうも」
だが、次の瞬間には深津のいつも以上に平坦な声が言う。
「俺たちのシマで、知らないやつが脱法ドラッグを売ってるとなったら問題ピョン。宮城、しばらく店に誰か寄越すか? 河田あたりがいいか?」
深津はリョータも一度会ったことのある男の名前を挙げた。深津とは全く方向性が違う見た目をしているが、河田もまた「いかにもその筋」を体現したような男だ。深津が何をしようが関係ないが、提案だけは拒否だ。
「遠慮します。河田さんが入り口にいたら、店に入るお客も入らなくなりますから」
絶対に逆効果ですよ、リョータは力説し、深津もまた本気で言ったわけでもないらしく、すぐに引き下がった。
ストローでクランベリージュースをすすりながら、しばらく冗談かそうじゃないのかわからない世間話をして、深津は帰っていった。滞在時間は十五分にも満たない。だが、どうにも疲れを感じるのは、その派手な服が目に眩しかったせいだろうか。それとも独特の圧みたいなものか。まあ、これでまたしばらくは深津の顔を見なくて済む。ピョン。リョータは深津お得意の接尾語をつけて、やっぱりだせーな、と思った。
深津を送り出すと、リョータはテレビのボリュームを上げた。お決まりのNBA。英語の実況と観客の声、ドリブルにボールが跳ねる重い音、そしてキュッキュッというシューズが床を蹴る音がBGMになる。体育館の匂いも、ボールが跳ねる音も、自分の手を離れたボールがゴールに吸いこまれるように落ちていくさまも、もう長いことバスケしてないのにすぐに思い出せるのが不思議だった。リョータはしばしその感覚が体を支配するのに合わせた。それから、よし、と気合を入れると、アイスピックを手に氷を削り始める。無心になるには四角い氷を丸くする作業がちょうどいい。美しく丸い氷ができれば、達成感も味わえる。
そうこうしているうちに、ほかのスタッフもやってきて、店は少しにぎやかになった。テレビが流すのは古い映画に変わり、スタッフの一人が表に看板を出しにいく。外、まだすっごく暑いですよ、ありえねー。戻ってきたスタッフが言っている。さて、また今日も忙しい一日がはじまる。景気づけにリョータはカウンターを掌で力強く叩いた。
◇
それは、店にとってはまだ宵の口、といった時間だった。誰かと待ち合わせる前に一杯ひっかける客はすでに去り、一軒目を出てもう一杯飲もうかとなるにはまだ早い時間。客の到来を告げるドアベルに頭を上げたリョータはカウンターに向かってくる背の高い男に目をやった。こいつ知ってる気がする、だれだっけ?
「わー、やっと見つけた! もう無理かと思ってたけど、運のいい俺があんたのこと見つけられないわけがないんだよね」
花が咲いたような笑顔と弾んだ声で言われ、そこで数日前の記憶がよみがえった。忘れていたのが信じられないくらい、鮮明に。リョータに向かって歩いてきたのは、コンビニの前でずぶ濡れになっていた男だった。
「先日はたいへんお世話になりました」
もちろん今日は濡れていない。後ろに撫でつけ、ひとつに結ばれた髪も乱れてはおらず、この暑い夜に、黒いジャケットと、黒いTシャツ、同色の細身のジーンズをさらりと着こなしている。地味どころかいい男がシンプルな服を着るとよりその魅力を引き出すことになる、というファッションの皮肉を体現した格好だ。いや、待て、それよりこの状況だ。なぜ、お前がここにいる?
「あの……」
二の句が継げないでいるリョータを気にもせず、彼はカウンターに腰かけた。
「え? もしかして俺を覚えてないとか、そういうことはないよね?」
この状況でもカウンターに誰か座ればコースターを出してしまう自分の手がなんとも疎ましい。
「いや、覚えてるけど……」
「ああ、よかった」
「っていうか、なんでここ……」
「お礼をしたいなーって思って」
「じゃなくて! どうしてここがわかったって聞いてる」
「だって、あんとき、あんたがこのビルに入っていくのが見えたから。でも何階かまではわからないからさ、とりあえず上から順番に攻めていこうかと思って……」
いや、お前、あのとき、ドラッグでハイになってるか、女に蹴り出されたかなんかじゃなかったっけ? なんで俺の入っていったビルまで覚えてんだよ? だが、それは口に出せず、当たり障りのないところで言葉を繋いだ。
「このビル9階建てだけど」
上から順番ってことはさ……。嫌な予感を笑顔が肯定している。
「そうなんだよね。地下から上がるか上から降りるか迷ってさ。失敗だったね。9階から順番に降りてきたの。カラオケ屋と美容室と、眼科はもう閉まってたから……ま、アンタ眼科って顔してないからそれはないかな、って思ったんだけどさ」
「そ、それは大変だったな」
がんばったでしょ? みたいな顔をしているからついねぎらうような言葉が先に出た。違うって。ちょっと考えただけで頭痛がする。すみません、人を探してるんです、ずかずかと店の中に入っていくこのなりの男には遭遇したくないと思った。
「で、これがお世話になったお礼です」
カウンターの上に紙袋が置かれた。伊勢丹のチェックが目に眩しい。
「いや、俺別にたいしたことは何もしてねーし」
「傘とおにぎりと野菜ジュースくれたよ。あの野菜ジュースおいしかったね。最近毎日飲んでる」
リョータの視線は紙袋と男の顔を行ったり来たりした。あのときは、ずぶ濡れで笑っている男が見るに堪えないってだけだった。いうなればただの気まぐれでお世話といえるほどのこともしていないから、受け取る義理はない。どう考えても伊勢丹分の働きはない。男がリョータのほうに包みを押しやる。
「お礼ってよくわかんないからさ、昨日ググりまくったの。あたりはずれがない、万人受けするものが一番らしいよ、知ってた?」
ここは受け取っておくのが正しいんだろう。リョータはそう判断した。あの日と同じ、目の前の男に漂う危うさみたいなものをリョータは確かに感じていた。人懐っこい笑みとちょっとばかっぽくも思えなくもない口調の裏に、とんでもないものが隠されているような不確かな恐れがある。
「あ、要冷蔵なの。開けて冷蔵庫入れてください」
ケーキ、プリン、水ようかん……リョータの頭の中に伊勢丹の地下の店がいくつか浮かんでは消えた。折衷案はすぐに見つかる。
「ありがとう。じゃあ、せっかくだから受け取っておく。その代わりに今日はごちそうするよ。時間があるなら、好きなもの、飲んでいって」
リョータは営業用の笑顔を見せ、紙袋を受け取った。まあ、あれだ、海老で鯛を釣るってやつだ。思い付きの行いが、プリン(あるいは水ようかん)を連れてくることもある。要冷蔵なら中身を空けて冷蔵庫に……そう思ってなんの気なしに袋を覗き込み、そして絶句した。
「あれ? まさか食べられませんとかそういう?」
袋を覗き込んだまま言葉を失っているリョータに男は悠長にそんなことを言った。ある意味食べられん! 叫び出したいのを、リョータは必死にこらえる。男に感じた「危うさ」がそこには体現されていた。――紙袋の中には発泡スチロールの箱が入っており、その上には「高級飛騨牛」とラベルが貼ってあったのだ。
「飛騨牛だあ?」
「え? なに、飛騨牛ってなんかすごいの?」
「いや……」
伊勢丹分の働きもしてなければ、飛騨牛分の働きなんて、あの短い時間にあるわけがなかった。親切をすれば自分に返ってくるというが、これは明らかに返りすぎだ。
「これは、ちょっとさあ……」
「なに?」
「いや、明らかにもらいすぎだと思う。どうすれば?」
遠慮がちに言ったリョータに彼は右手を上げて言った。
「はーい、俺と友達になろうよ」