2.予兆 雨の気配は家を出るころに急に濃くなった。遠くで雷鳴が響いている。遠くの空はわかりやすく鉛色で、ああもうすぐ一雨来るぞ、と思う。家から店までは自転車で二十分と少し。雨が先か、店に着くのが早いか、迷う時間も惜しく自転車に跨った。店に着く頃には空は今にも泣き出しそうな様相で、厚い雲の隙間からたまに雨粒が落ちてきて、リョータのシャツにぽつぽつと染みを作っていた。それでも濡れたうちには入らない。自転車を停めて、思わず勝ったぜ、と呟いた。
そのままコンビニに足を向けた。仕事前になにか腹に入れるものを買うためだが、コンビニに行くという行為が半ば習慣みたいになっていて、なんとなく行かないと落ち着かなくなっている。買うものはたいてい決まっている。おにぎり、具は鮭。ミニバスをしていたころ、コーチが疲労回復にいいからおにぎりの具は鮭にしろと言ったことがあって、それからなんとなく手が伸びる。こんなものでたまった疲労がなんとかなるとは思えないし、おにぎりの中のひとかけらの鮭にそんな大役を負わせることはないだろうと思いつつ、それでもやっぱり手が伸びる。それから野菜ジュース。こっちは不規則生活のせめてもの良心といったところだ。今日はビタミンプラスと書いてあるものを選んだ。
「雨だねえ、ミヤギさん」
レジで顔見知りの店員が言う。
「雨だねえ、オリさん」
リョータも返し、なんとなくガラスの向こうに目をやった。
「なんだよ? いつの間に? すげえ降ってるじゃん」
気がつけば外は暗い。短い間に雨は本降りになったようだ。確かに梅雨が明けてからとにかく蒸し暑く、一雨ほしい天気ではあった。だが、こういうスコールみたいな雨になるとそれはそれで鬱陶しい。
「タバコは?」
「おう、ひとついれておいて」
「これだね?」
気の利く店員はすでにリョータの買う煙草の銘柄まで覚えていた。
「ありあと」
気圧のせいか頭が重い。店に頭痛薬あったかなあ、とぼんやり考えながら出口に向かう。
「あっがとざぃましたー」
舌足らずな日本語が背中にかかり、自動ドアが開く。大粒の雨が音を立てて降っていた。煙草一本分ここで時間を潰すか、それとも走って行っちゃうか、リョータは店先でほんのひととき逡巡した。「7」の入っているビルまではここからほんの20メートルほど先だ。走れないこともないが、この雨だと結構濡れるのは間違いない。中に戻って、オリさんに傘借りるか。そう思った刹那、空が光ったかと思うと、美しい稲妻が鉛色の空を割るように走った。思わず息を呑むと、続いて地を揺るがすような音が響く。うおっ! 今度はさすがに声が出た。近くに落ちたか、そう思ったときだった。
「すっごい、ねえ、今の見た?」
突然声をかけられて驚いた。隣に男が立っていた。突然の雨と雷に気を取られていたせいか、近くにいた男の存在に全く気を配っていなかったらしい。
「すごくない? 俺、稲妻って初めて見たよ。アニメの中でしかないんだと思ってた、こんなの東京でも見られるんだねえ」
「お、おう」
そのまま男はこっちに数歩近寄り、並ぶようにして横に立った。顔はリョータより頭ひとつぶん上にある。でかい。ちょうどその顔を見上げたとき、長い睫毛の先についた水滴が瞬きと同時に頬に落ち、そこでその男の異様さに気づいた。大男は文字通りずぶ濡れだった。Tシャツはべったりと肌に張り付き、腕にひっかけているジャケットからは雫が落ちている。リョータの視線に気づき、こちらを見てへらり、と笑った顔を見て、あ、ドラッグか、とまず思う。この派手な濡れかた、好んで雨の中にいたとしか思えない。
ドラッグ、暴力、金、いい匂いをさせる偽りの花。この界隈では珍しいことでもない。歌舞伎町で一か月も働けば、そんなものにも慣れてしまう。むしろ昼間からドラッグなんていいご身分じゃないか、と思う。
「そうだな、東京じゃ俺も初めてかも」
こういうやつらと積極的にかかわりたいわけではないから、適当に答えを返しておく。このままこの場を離れたいが、走るにしてはいかんせん雨が強すぎた。さらに激しくなった雨に世界は白く紗がかかったようになっていて、アスファルトに叩きつけられて跳ねる雨粒は日ごろの鬱憤をまき散らしているみたいに見える。
「ねえ、煙草ある?」
男にそう声をかけられて、結局踏み出すタイミングを逃したのを知った。答える前にもう、コンビニのビニール袋を覗き込んでいた。お前、人を見る目があるぞ、と隣の男に思う。袋の中から、煙草を出して封を切った。普段自分では煙草は吸わないが、仕事のときたまに役に立つから、ポケットに欠かしたことはないだけ。今日は仕事をする前から出番が来たってわけだ。
「どうぞ」
男は礼を言って、ライターもある? と尋ねる。ポケットからライターを出し、火をつけてやった。ドラッグをやっているにしては煙草を持つ手は震えておらず、顔色は悪いが、目も血走ってはいない。それが少々意外だった。男はにっこりと笑い、それからまた前に視線を戻した。
「チキューオンダンカだねぇ、俺たち子供のころ、こんなバケツひっくり返したみたいな雨なかったよね。亜熱帯じゃんこれじゃ」
「チキューオンダンカ」が「地球温暖化」だとわかるまでに少し時間がかかった。切れ長の瞳は瞳孔が開くこともなく、賢そうな印象を与えるほどには眼光に鋭さが宿っている。意外にシラフかもしれないとそのとき気が付いた。だけど、シラフだとしたら、それはそれで怖い。なぜこんなに濡れてる?
「まさか降られるとは思ってなかったんだよ。ちょっと出てきたくらいのつもりで」
「帰りはタクシー捕まえたほうがいいかもな。あ、でもそれじゃ乗車拒否されるか。びちょびちょだもんな」
結局、成り行きでそのまま会話を続けることになり、リョータは当たり障りのない会話で返した。
「うーん、そうねー。だけどさ、金がないんだよね」
そのとき、再び空が光る。間を置かずに空を割るような雷鳴が轟き、地響きに思わず二人で肩をすくめた。
ドラッグじゃなく、そっちか……。リョータはさりげなく男の全身をチェックした。ガタイがよくて、そこそこ整った顔。襟足とサイドを綺麗に刈り上げた髪はトップでひとつにまとめているが、雨でぺしゃんこだ。ジャケットは残念ながら濡れていてモノの良し悪しの判断がつかない。ホスト? にしてはじゃらじゃら装飾品の部類をつけていないし、彼らはこの時間にはまだ歌舞伎町をうろうろすることはない。だいたい商売道具を好んで濡らすやつはいない。Tシャツはよれよれだし、靴は年季の入ったハイカットスニーカー、靴紐が片方解けている。ホストの線は消そう。だいたいホストなら顔にこんな傷は作らない。男の唇の端には古くない傷がある。殴られたときにできるようなやつだ。
さすがに美人局、はないか。ないよな? 怖いお兄さんたちも、このゆうに190ありそうな男をわざわざカモには選ばないだろう。となると、女とケンカして蹴り出されたか。それが一番現実的かもしれない。
きらびやかな世界は誰の目にも美しく映る。新宿のネオンに集まる人々のことを、リョータはたまに夏の夜、街灯に集まる蛾みたいだと思うことがある。昼間はどこにいるかわからない虫たちが、夜になれば灯を求めて、一斉にそこに集まるのだ。この街でもそれは同じ。そして夜の魔法が解けてしまっても、こうしてたまに行き場を失った虫がふらふらと飛んでいる。
「どうすんのよ?」
思わず気になって尋ねる。
「うーん、どうすっかな?」
「どうすっかな、ってあんたさ……」
男はぼんやりと答えた。自分よりでかいが、子供みたいなその男のことがだんだん心配になってくる。リョータ、自分のことはどうでもいいって態度を貫くくせに、人のことは放っておけないんだよね。ほんと、面倒見がいいっていうか、なんていうか。頭の中でヤスの困ったような顔が言う。放っておけないのではない。ただ単に面倒見の良い人、という仮面をつけて周囲と自分に対して何らかの言い訳みたいなものを作りたいだけだ。なんについての言い訳かも自分ではよくわかっていない。
「ま、でも雨の中のお散歩って感じかな」
だが、男のほうはのんびりとしたものだった。隣で悠長に構えられると、気の短いリョータのほうがいらいらさせられる。見上げた空、雨が弱まる気配はない。雷雲が通り過ぎるまでにはまだ少し時間がかかるかもしれない。
「あー、もう。ちょっとここで待ってられる?」
結局リョータはそう言いおいて、雨の中を飛び出した。全くもう、なんなんだよ……。濡れねずみでぼんやりしている男に言いたいのか、お節介な自分に言いたい一言だったのか。
道路を渡り、歩道にできた水たまりをうまく避け、ビルのエントランスまで走った。地下に続く階段にも雨が吹き込んでいた。店の鍵を開けて中に入ると、タオルを探し、それから客の置いて行った傘の中からまともそうなのを二本選んで再び外に出る。
通りの向こうに、大男の姿がまだ見える。
「あ、おにーさん」
男はリョータが近づくと、やっぱり幼いくらいのあけすけな笑顔を見せた。
「これ。まず髪を拭け」
リョータはタオルを手渡した。
「えー、やさしー」
男は遠慮なく頭からタオルをかぶる。
「あと、傘な。それから……」
財布から千円札を引き抜いて押し付け、ええい、これもだ。さっきから持ったままだったコンビニの袋も押し付ける。
「ええ?」
「とにかく、雨が少しおさまったら、これで家に帰りな」
どんぐりみたいな目だな、と思った。丸くてくるくるよく動く。それが驚きに何度も瞬きするのを眺めた。
「うわー、おにいさん、すっごい親切じゃん。こんなことまでしてくれるなんて感激だよ。大都会じゃ出会うことがほとんどなくなった類の親切だよねえ? 人との関りがどんどん淡白になっているって昨日テレビで――」
「どーでもいいよ」
見てらんねーだけだから。リョータはつぶやくと、男に背を向け、再び元来た道を戻り始めた。その背中に「おにーさん、ありがとう。このご恩は忘れません」というふざけた声がかけられたが、リョータはもう聞いちゃいなかった。
その午後の出来事は三井が求めるところの「なんかすっごいこと」では全くなかったの
で、リョータは誰にもそれを語ったりはしなかった。そして忙しい夜を過ごしてしまえば、もう雨に濡れた奇妙な男のことなど忘れていた。