白い石で出来ている 和久井譲介は真田との約束通り本当に、 午前十一時に、ホテルのティールームにいた。真田はそれをホテル入り口から目で認めて、すこしばかり愉快になった。
いくらか古めかしく豪奢なティールームは内装にふんだんに臙脂と金の色彩を散りばめていて、慣れない人間をおのずとはじき出すような印象がある。その中に、白いシャツをぴったり着こんだ年若い人間がいて、居心地悪そうな様を隠しもせず、ひとり用ソファに身を預けている。正面のローテーブル上に白いコーヒーカップが鎮座しているが、足音を抑えつつ近づいて覗くに、カップの中身は大して減っていないようだった。
「よお」
背後から声をかける。和久井はゆっくりと真田を振り返り、立ち上がった。何を言うわけでもなく真田の姿をじろじろ眺め、「ああ、なるほど」と言った。それから席を離れて通路側に出て、つい先ほどまで己が座っていたソファを手で指して、真田に「どうぞ」と譲った。
真田が鼻白むと、和久井は肩を揺らして「まさか、立ったまま紅茶やコーヒーを愉しもうなんて言いませんよね」と皮肉っぽく言い、そのまま、反対の席へ移って腰を落ち着けてしまう。
「妙なことをする」
真田はやりようなく、和久井に譲られた席に座る。近づいてきた給仕にコーヒーを二つ頼み、和久井が先に頼んでいた、冷めたコーヒーを下げさせる。
「僕もいろいろ勉強したんです」
ソファの背もたれに身を預け、両手を膝の上で組んで、和久井が言った。
「年上の人間の労わり方とか、そういうものを」
長く聞かずにあった養い子の声が、自分の向かいから朗々と流れてくる。真田は和久井から目を外し、興味もないのにティールームのあちらこちらへ目をやって間を稼いだ。床は深い臙脂色の絨毯。同じ臙脂の飾り布に金の房飾りのついたものが、窓と窓の間の壁にそれぞれかかっている。各テーブルの真上からは、スズランの花のような形のランプシェードがつり下がって光を落としている。
店内には勤め人らしき数人のほか、身なりを整えた幾人かが、ぽつりぽつりとそこここの席に収まっているばかりだった。誰かが喫しているらしい紅茶の香りが、ゆるやかな微風に乗って鼻をくすぐる。
今ここに真田がいるのは、約束のためだった。約束と言っても、真田から取り付けたのではなかった。あの空港で、和久井から言い出したものだった。
あの日、和久井は「お使い」のため、海外からの客をアテンドする目的で空港にいたというのだった。和久井の勤め先だか、周辺の人間だかの客人ということだった。そこで真田を見つけたのだと。
真田を見つけてその前へ姿をさらした勇気ある和久井にはしかしあの日、時間がなかった。アテンド相手の客人たちには土地勘がまるでなく、もうひとりのアテンド役はフランス語に堪能だが、英語がおぼつかなかった。客人たちの半分は英語話者だった。
和久井は「どうせ使いやしないでしょうが」とポケットから自身の連絡先を載せた名刺めいたものを真田に握らせ、さるホテルの名前をそのカードの余白になぐり書きした。その上で「十日後にティールームで、午前十一時」と、それだけをなんとか言い切り、先を行った一団に合流すべく、走り去っていった。
和久井はきっと、ドクターTETSUが自分の願いをそっくり叶えてくれるものかどうか、確信があったのではないのだろう。
いざ約束の日になってティールームへ出かけたとして、ソファの上で一時間か二時間か、もしくはそれ以上の時間を費やして、現れることのないかつての養い親を待ち続け、貴重な一日を棒に振り、ついに悪態をついて家に帰る――そういうビジョンを脳裏にはっきり描きながら、この場へ出てきたに違いなかった。
しかし真田はきちんとこの場所に、約束通りの時刻にやって来た。自分でもなぜかと疑いたくなるほど素直な振る舞いを、和久井相手に自分に許した。
「意外だったか」
真田は問うた。給仕が運んできたコーヒーが、互いの顔の前に白い湯気を立ち上らせる。
「ええ、とても」
和久井は応えた。けぶる湯気越しに、睫毛が揺れる。「あなたが僕の思いの通りに振舞う日がくるなんてね」
「いいや。俺は俺の行き先はてめえで決める」
「行き先が僕の前であってもそうだなんて、知らなかったもので」
「もう覚えたな?」
「信じたわけではありませんが」
「覚え込むことと信じることにどれほどの違いがある?」
「…………」
和久井は口をつぐみ、爪短い指先でテーブルをゆるくひっかいた。きし、と音が立ち、テーブル上のコーヒーに小さな波紋が浮いた。
「少なくとも、同じじゃあない。僕にとっては」
目を上げ、その双眸を光らせて和久井が言う。真田はその、和久井の顔貌に滲む複雑な色模様を、とっくり眺めた。ソファの肘掛けに腕を置き、足を組む。
和久井のかんばせに浮かぶものの正体はなんだろうかと考えた。和久井は眉根を寄せ、つんとした眼差しで真田を射抜く。怒りにも見える。悲しみに似たものにも、諦念にも、憤りにも見える。しかし和久井は、瞬きひとつで表情を拭い、また別の顔になった。一瞬、憐れっぽい、物憂げな顔つきになり、次の瞬間には、したたかな風格を備えた若者の顔に変わった。
「あなたのことを覚えてる」
真田を正面から見つめて、和久井は言った。
「ドクターTETSU――かつてあなたが僕に何を言い、何をして、何をしなかったのか、あなたに対峙した僕が何をして、何を望んで、何をしなかったのかを、忘れることはきっとない。でもそれは、僕が僕を信じているのとは違うし、僕があなたを信じているということとも違う」
「そりゃあ、自分の目の前にいるのが信用に値する人間かどうか、見分けはついた方がいい」
「あなたの何もかもを、まるきり信じないと言うんじゃありません」
何かを引きちぎるような語調で和久井は言った。そうしてすぐに、恥じ入ったように顎を引き、目線を落とした。
「…………」
「でも……――」
そして言葉を切ったが最後、和久井の口から次のセリフがこぼれてくることはなかった。和久井の中に、言葉の格好に収まらないものがあって、それが喉や胸に閊えている風だった。煩悶があった。これを見て、真田は俄かになつかしさを覚えた。一番はじめの出会いの頃、和久井譲介という子供はいつでも何かに苦しんでいて、何かを恨み、苛立っていた。その時の印象がふと、真田の胸によみがえった。
「場所を決めろ」
とん、とテーブルをゆるく握った拳で打ち、真田は言った。
「日と、時と、場所を決めろ」
真田の言葉に、和久井が「なにを」と小さくつぶやく。
「お前の決めた通りの日に、お前の言う通りの時刻に、その場所に行ってやる」
また、和久井の顔つきが三通りほどの変化をした。はじめに呆気にとられたようになり、次第に訝し気になり、終わりには諦めと呆れを混ぜた目つきで唇の端を持ち上げて見せた。
「それでどうするんです? 僕が言いさえすれば、あなたは海辺のベンチに座って日没の橙の光をたっぷり浴びて黄昏てくれると?」
「その時はお前も海辺で黄昏て全身みかん色になるんだぜ」
「まさか」
「まさか、と来たもんだ」
思えば、自分とこの子供とは、互いの意思のもとに顔を合わせた経験に乏しい。養い子の反応がまったく奇怪なものを目にした人間のそれであることを、真田から指摘するわけにもいかなかった。和久井の中で、真田は――ドクターTETSUは和久井に向かって気軽に「定期的に待ち合わせをして、顔を合わせてお話をしましょう」などと持ち掛けてくるような人間ではないのだった。
しかし、真田の言っているのは真実、そういうことだ。
和久井は断らないだろう。真田は育ち切った養い子を見つめて、そう思った。
「いいですよ、売られた喧嘩は買います」
ややあって、またつんとした目つきで真田を睨むようにした和久井が言った。
「やめろ、さすがに俺に勝ち目がねえ」
真田はテーブルに置いた手をゆっくりと引っ込め、己の組んだ脚の膝辺りに置いた。真田が姿勢を後ろに引いた分だけ、和久井は体を前へせり出してくる。
「かのドクターTETSUがこの和久井譲介を知りたがってる。そういうことでいいのでしょう?」
に、と和久井が笑う。唇の端を左右均等に引き上げて、遠くを覗くように緩やかに目を細めて。
真田は黙したまま、浅く、ひどく浅く頷いて返した。
「そうしてあなたは僕を新しく覚えていく。僕もあなたを、いままでにない風に覚えていくでしょうね。その先に、覚えることと、信じることの差異がある?」
真田はゆっくりと首を横振った。ああ、そうか、と和久井がため息のような声をこぼした。
「そうか。あなたにとっては二つは本当に同じことなんだ。覚え続けることが、あなたにとって信じ続けることなんだ。なら、なおさらこの機会、逃せないな」
ひと際強く、和久井の目が輝いたように見えた。その輝きは白い石でつくったような青年の頬を濡らし、テーブルへ落ち、広がって、真田の膝まで滴った。