鈍い音と短い呻き声が静かな朝をぶち壊した。乱れたシーツの上で夢と現実の狭間を彷徨っていた僕は音の方へゆっくりと視線を向ける。
「……なにやってんだよドジ」
そこにはベッドの足に小指をぶつけたらしいウルフウッドが痛みに耐えるようにして蹲っていた。
「うっさいわ!誰のせい、」
途中まで言いかけて口を噤んだ男は僕を睨み付けると、怠そうに腰を摩りながらバスルームに消えて行った。
「なんだよあいつ…………あ」
彼が腰を摩る理由を察して、一人きりになった部屋で口元を緩ませながら赤面する。小指をぶつけたのは身体がふらついたせいだろう。申し訳ない気持ちはあるが、それよりも数時間前の出来事が夢ではなく現実であることが嬉しかったのだ。
数分後。何事もなかったかのような顔で部屋へと戻ってきたウルフウッドと入れ替わるようにして、今度は僕がバスルームに向かう。洗面台の鏡を眺めながら、彼と再び出会った夜から今朝までのことを思い返した。
再会した日の夜、僕は寝たふりをしたウルフウッドにキスをした。翌日になってもそのことに触れなかったのはただの気遣いだと思っていたが、実際はただ恥ずかしかっただけではないだろうか。見た目と異なる実年齢と、意外にも敬虔な信者である彼は恐らく性的なことに不慣れであったに違いない。キスだけならまだしも、昨夜は……。
「……あいつのこと笑えないな」
一度は熱が引いた顔が再び熱くなるのを感じて、僕は思わず苦笑した。
「考えたんだけどさ」
程良く焦げ目のついたライ麦パンを齧りながら、僕の正面に座って新聞を読む男に喋りかけると、怪訝そうな顔がこちらを向いた。食べながら喋るな。僕を見る鉄灰色の瞳がそう言っているような気がした。
互いに素知らぬ顔をして身支度を済ませた後、朝食を摂るため宿に併設されたダイナーへと足を運んだ。ささくれが目立つ古いテーブルに向かい合って座り、目に留まったメニューを注文する。食事をするのは僕一人だ。ウルフウッドは何も頼まなかった。何せ、今の彼には内臓がないのだから。口にするものと言ったら水と、ちょっとした衝撃で崩壊してしまう身体の再生に必要な少量の血液だけだ。そう言えば……今朝ベッドの足にぶつけた彼の小指は平気だったのだろうか。もしかしたら欠けてしまっているのではないかと心配になる。
後で確かめなきゃな。こいつ、小さい傷とか隠しそうだし。
小指のことはさておき、今の僕らの最優先事項はこれから何をすべきかを話し合うことだ。
「君の墓参りに行こうと思う」
「ワイの墓参りぃ?」
特段おかしなことを言ったつもりはなかったが、ウルフウッドは口を開けて呆れたような表情をしている。
「そ。てゆーか、君の墓に行くつもりでこの街まで来てたんだよね。そしたら……こうなっちゃったわけで……」
僕らが今いる街は、彼の故郷があるディセムバまではそう離れていない。ウルフウッドの死後、僕は頻繁に彼の墓を訪れていた。通いすぎて近くに住む子どもたちからまた来たのかと声をかけられるくらいだ。
……このことはウルフウッドには黙っておこう。
密かに気恥ずかしさを感じる僕とは反対に、男は不服そうな表情を浮かべていた。
「墓行ってどないするん」
もっともな質問だ。参る相手なら既に目の前にいるのだから。
「君の遺体を調べる」
「調べてどないするん」
「……」
自身の口から吐き出された言葉に僕ですら疑問を感じていた。
調べて、どうするんだろう。
そんなことをして何か変わるのか。泥から作られた彼の身体をどうにかできるのか。そんな都合の良いことはあり得ないと思う。無意味。無駄。ウルフウッドから言外に匂わされたようで、僕は閉口した。
でも、もしかしたら。
諦めの悪い僕はそう願わずにはいられないのだ。
これは俺のエゴで、ただの我儘。
「……このままじゃ、アカンのか」
注文を叫ぶ客。雑に応える店員。熱した鉄の上で焼かれる肉や卵。洗われた皿同士がぶつかり合う。誰かがグラスを床に落とした。がたついた戸が開閉し、往来のざわめきを連れて客が出入りする。それらの音にかき消されてしまいそうな小さな声で呟かれたウルフウッドの言葉に、僕はすぐに答えることができなかった。
自分の墓を、遺体を調べると言われて良い気持ちになる者はいないと思う。……死者に墓を暴く許可を求める状況なんてそうそうないだろうけど。
僕だって彼の遺体を掘り返すなんてことはしたくない。でも、このまま何もせずにいつ君の身体が崩れて消えてしまわないかと怯えて過ごすのは嫌だった。
「お前が……またいなくなったらって、考えただけで……っ」
一度だって耐えられなかったのだから、二度もウルフウッドを見送るなんてことになれば僕は一体どうなってしまうのだろう。
「君を失いたくない」
騒がしい朝のダイナーでパンを片手に言うには些か場違いにも思える言葉。せめてパンは皿の上に置いておくべきだった。
ウルフウッドを失いたくない。
口を衝いて出た正直な気持ち。俺はこいつと一緒にいたい。一緒にいたいから。
「遺体を調べれば万事解決ってワケじゃないことはわかってるよ。でも可能性はゼロじゃないと思うんだ。だから……」
皿に食べかけのパンをそっと置き、指先についた粉を払った。ウルフウッドはその動きを無言で見つめている。
「あはは……僕さっきから自分の都合ばっかりだな」
身勝手なことしか言っていないし、格好もつかないし、散々だ。
「すまない」
ウルフウッドの瞳を真っ直ぐに見つめて詫びると、それまで固く閉ざされていた彼の口がようやく開いた。
「トンガリが納得できるんやったら、好きなだけ掘り返せばええ」
「……いいの?」
意外にもあっさりと聞き入れられたことに驚く僕を見ながら、ウルフウッドは静かに笑っていた。やっぱりこいつは僕に甘い。
「ありがと……」
我儘ばかり言ってすまないと思う。墓を暴くなどという蛮行を許してくれてありがたいと思う。自分勝手な僕に変わらず優しくしてくれて嬉しいと思う。僕の胸中は心苦しさと喜びとで煩雑としていた。
「ちうか、ワイの墓あるんやな」
「えっ、あ……うん。俺が建てたんだけど……言ってなかったっけ」
「トンガリがぁ?……ちゃんとしとるんやろうな?採点したるわ」
「は?百点満点の出来ですけど」
お気楽なのか、肝が据わっているのか。それとも平気なふりをしているだけか。いつも通りの軽口に安堵しながらも僕の心はざわついたままだ。昨夜は手に取るように分かったウルフウッドの気持ちが今は全く分からなかった。
「意外と近いもんだね」
次々と通り過ぎていく低い建物の合間に覗く鐘塔。揺れるバスの車窓からそれを眺めながら、隣に座る男に話しかけた。
「相変わらず田舎やなぁ」
のんびりとした声で答えが返ってくる。これから自分の墓を掘り返されるとは思えない穏やかな表情。ぼんやりと男の横顔を見つめていると、いつの間にかバスは停まっていた。
一度は焦土と化した彼の故郷。長い年月は過去の痕跡をいとも簡単に隠してしまう。崩壊した教会は元通りの姿を取り戻し、かつて死闘が繰り広げられたとは思えない平穏な様子を見せていた。ざりざりと砂を踏む足音は二人分。この地をウルフウッドと並んで歩く日が来るなんて思いもしなかった。急ぐ必要もなかったから、ゆっくりと歩いた。すごくすごくゆっくりと。不自然なくらい緩慢な足取りにも関わらず、ウルフウッドは何も言わずに歩調を合わせてくれた。
本当は怖かったのだ。彼の墓に辿り着いてしまうことが。彼の墓を掘り返すことが。確かめたい気持ちと、知りたくない気持ち。相反する感情の間で僕は揺れていた。
少しでも気を紛らせようと何となく周囲を見渡したところで違和感に気付いた。静かすぎる。いつもならば孤児院の子どもたちが駆け回っているはずなのだが、辺りに人の影はない。
「なんで誰もいないんだろ」