墜天の王 3 蓮池の回想.
「貴方も入ったらどうだ。阿修羅」
池の中心から、手鞠を転がしたような軽やかな声が響いた。
白い脚が歩を進める度、衣が尾を引き水面を揺らめかせ広がる輪が夢幻に惑わせていたためか。その音が紡ぐ自分の名に気付きやっと目線を上げると、半身を水から出し白い薄衣を軽く羽織るだけの友人が、こちらを見ていた。
王城の傍ら、御膝元に堂々と居を構える貴族の敷地は、足を踏み入れることも躊躇われる豪勢な造りであるかに思えたが。
静けさを好む彼の趣向からだろうか。ここは、柔らかい風が運ばれ鳥の囀りに耳を澄ませながら、自然との調和に時を委ねるような優しい空間だった。だから居心地が良くてついぼんやりしてしまったのかもしれない。
心を感知する能力を一時休めるため、彼はよく蓮池に浸かっている。だから周囲への警戒も解けてしまう今の彼が、一番無防備で狙われやすい状態だと言える。
自警団の活動が大きくなるにつれて、懐疑の目も多く向けられるようになった。翼の団の活動を快く思わない輩も少なからずいる。それを危惧しているのだと伝えてはいないが、四六時中一緒にいることが当たり前になっている今の自分は用心棒も兼ねているようなもの。呆けていても侵入者の来訪を見逃したりはしないが。
共に蓮池を堪能した事もあるし、近隣の湯処を一緒に渡り歩いた仲だ。だから彼も別段、素肌を見せることを厭わない。
「俺はいい」
「ここは午前の間に充分な陽光が差す。水温もそれほど低くはないよ」
「目の保養に来ているだけだ。それで充分楽しめている」
「ああ、確かに。ここの蓮は特別手入れが行き届いているからな」
何に対しての言葉であるか、真っ直ぐに向けて含ませたつもりだったが。意識の欠片さえも届いていないのは、彼の能力が水の障壁に守られているからではない。自分の心にのみ、彼の力が及ばないからだ。
彼の素肌を滑り下りる視線に、邪な感情が全くないと言えば嘘になるが。伝えるべきではない心と、いつか伝えたい思いもある。今はまだ崇拝の念に近い仄かな慕情は、彼の身を案じる気持ちの方が強い。
「俺のことは気にせずゆっくり休め。今日は久々に時間が取れたのだからな」
その言葉に帝釈天は阿修羅を見たのち微笑んで、蓮を慈しむ手で撫で始めた。
水に委ねられた身体の眼は時折瞬くが、揺蕩う水面の下で静かな光を湛え、本当に安らいでいるように見える。
手に取った蓮の香りを楽しむその姿は、連日に及んだ遠征の疲れを漸く忘れ去れたようだ。
普段から穏やかな笑みを浮かべていたが、彼が本当に寛いでいる束の間の表情を見ていると、阿修羅も安心することが出来た。
いつか自分自身が彼の安らげる心の拠り所になれたらという密かな思いは、まだ心の奥底に仕舞い込んである。
「阿修羅」
名前を呼ばれて顔を向けると、帝釈天は傍に歩み寄り、水の中からこちらを見上げた。
「今日一番綺麗に咲いた蓮を、貴方に」
ああ、本当に。
この天域において最上の美しさで咲き誇る蓮華はそう言って柔らかく笑むと、玉露に濡れた透きとおる白蓮を差し出してくる。
阿修羅は肯定の意味を込めて帝釈天の瞳を真っ直ぐ見つめながらそれを受け取り、穏やかに笑顔を返した。
それから暫くが経ち、阿修羅が深淵へと落とされ帝釈天が王の座に就いた後。憎しみすら風化させるほどの年月を経て、二人は敵同士でありながらも自分たちの霊神体の影だけを相手の元へと送り、言葉遊びに興じるまでの間柄になっていた。
「懐かしいな。昔と同じだ。貴方はそうやって触れようともせず、ずっと蓮を眺めている」
もうわかっていそうなものだろうに。ここで、蓮を……と言ってくる辺りに不満を覚えるが。
あの頃とは違う厳かな佇まいの聖蓮池は、不浄を寄せ付けないほどの清らかな水を湛えていた。禍々しい自分の存在を跳ね除けようと、その神聖さで鋭く詰ってくるようだ。
不審者以外の何者でもない天魔の力の一端を王の傍へ簡単に通してしまう辺り、警備の手緩さが露呈しているが。今の彼は誰かが守ってやらねばならないほど弱くもない。
前回は毘瑠璃が去った後で堪らず蓮池に救いを求めていた。臣下の前で醜態は曝せないと気を張り詰め耐えているせいだろう。
誂うためにまた彼が蓮池に逃げ込んだところへ頃合いよく赴いてしまったようだと、影だけの姿で傍らに腰を落ち着けている阿修羅に、帝釈天は一瞥するだけでまた蓮へと向き直った。
「昔のままの俺ではないと、そう言ったのはお前だ」
鬼神の気配を色濃く放ち、彼の輝きと相反する闇を隠しもしない今の自分は、天人一族にとって脅威そのものだろう。
だが完全に魔に堕ちたわけでもないようだと評する帝釈天の言葉は、あながち間違ってもいない。ここで宿命の敵との会話に興じている辺り、天人だった頃の自分を捨てきれてはいなかった。
「そうだが。私は今でも貴方との思い出を大切に、なくさないようにと仕舞ってある」
振り向いて笑顔でそう話す帝釈天に、阿修羅は眉根を険しく寄せた。
彼が一方的に突き放したはずの友情の記憶を、今でも大事に持っていると言われても、心の汚泥は未だ澄んだ水を得ていない。
「蓮池で私の身を案じ見守っていてくれたことも、知っている」
今この場においてもそれだけの理由で傍に在れたなら、どんなに良かったか。
「この欠片が私を癒そうとする事も、貴方の心に準じた結果なのだろうか?」
「再会の日のためにだ。力を蓄えておけ」
こうやって、試そうとする言葉を敢えて投げかけてくる。故に阿修羅は声色を厳しく高め、強調して言い放つ。
最強に戻り、最高の自分になって俺を待てと彼に言ったあの言葉。深淵を支配する魔王である自分の前に天人全てを凌駕した王として、今一度相見えるその時は容赦はしないと断言するための言葉だ。
正しい在り方ではなくても、威厳ある王として最高に完成された形で咲き誇る彼の姿を目に焼き付けておきたい。その後で、奈落まで引き擦り下ろし蹂躙され支配される側の屈辱を味あわせて、絶望を植え付けてやってもいい。
だからこそ。持ち得る全ての力を出し切ってもらわなければ、対峙する意味がない。
我が旧友が悪意に満ちた顔をしているとでも思ったのだろう。表情を見て息を吐き軽く笑った後で帝釈天は口を開いた。
「その日の訪れを願って、また今日一番の蓮を貴方に贈りたいところだが」
「いい」
「残念だ」
「それよりも。今度、お前の鳩に蓮の種を運ばせろ」
「……?深淵で花は芽吹かないだろう。腹の足しになるとでも?」
「やってみなければわからないこともある」
ここに負けないくらいの見事な蓮池をいつか見せてお前の鼻を明かしてやろうか。等と、訪れるかもわからない未来を心に描いてしまう事だけは、伝えられるはずもない。
人払いをする聖蓮池の禊には自分と彼以外誰も居なかったが。それが終われば王は下の階位の神官たちに身の回りの世話をさせ、着替えまでも手伝わせていた。
貴族の出である彼にとっては普通のことだったのかもしれないが、本当はそれすらも阿修羅にとっては苛立ちの種であり、面白くはなかった。
彼の素肌を他の誰にも見せたくない。
触れることも敵わない状況下でそんな独占欲に身を焼かれ苛まれた。それでも光の世界への憧れは捨てきれずに、未練がましく蓮を育てている自分が滑稽で惨めに感じたが。その執着もあって闇に心が完全に堕ちてしまわなかったことは、せめてもの救いだったかもしれない。
闇夜を照らし見事に咲き誇った白蓮があの清らかな姿と重なるが。降り注ぐ光をその身に纏い、蓮と戯れる無垢な姿だけが見つからずに。
其処にはないその姿に、独り思いを募らせるばかりだ。