名前を呼んで 〜花屋アンネリー〜「桜井さーん!」
聞き覚えのある声が、聞き覚えのない呼び方で自分を呼んできて、思わず「えっ?」という気の抜けた反応をしてしまった。少し離れたところで接客をしていたアイツが、きょとんとした顔でこちらを見てくる。傍らにはお客さんが待っていて、何か俺に用があるから声をかけてきたみたいだ。ちょっと混乱した頭を仕事モードに切り替えて、はいはい、と応じた。
「桜井さん、ここにあった花って――」
また聞き慣れない呼び方をされて、思わず固まる。今度はふたりきりでの話だったからすぐ近くにいて、表情の切り替わりをばっちり見られてしまった。不審がった彼女の言葉が止まる。
「どうしたの?」
「……名前、呼んでくれないの?」
素直に理由を伝えると、またきょとんとした顔をされる。いつもみたいに「琉夏くん」と呼んでもらえないことが思ったよりも自分の中で引っかかっていた。
「えっ、だって、バイト中だよ? 他の人もみんな苗字で呼んでるし」
「他の人がどうとかじゃなくて、オマエから名前で呼ばれないのが、なんかヤダ」
そう言われても……とアイツは困った顔をした。確かに、困るしかないと思う。俺だって他の人は苗字で呼んでるし、他の人から呼ばれるのはなんとも思ってない。ネームプレートに書かれているのも《桜井》の苗字だ。でも、だからこそ、自分の中で特別な存在になってきている彼女からは名前で呼んでほしかった。
どうしたらいいかな、と少し考えて、ピンと気がつく。
「じゃあ、これ『琉夏』に変えよう! そしたら名前で呼んでも変じゃない。だろ?」
胸元につけたバッジのネームプレートを指差し、にこにこ伝えたのに向こうはますます困った顔をしてきた。
「琉夏くんだけ名前なのは、お客さんから変に思われるんじゃないかな……
あと、そういうのは店長さんに相談しないと」
会話の流れで名前を言われただけなのにテンションが上がって、ちょっと声が大きくなる。
「じゃあさ、みんな名前にしたらいい。苗字よりもフレンドリーだし」
《るか》と宙にひらがなで名前を書いた。うん、いい感じだ。
「店長も名前で呼ぶの?」
「もちろん」
「それはちょっと……面白いかも」
笑いだしたアイツの顔を見ると、こっちまで笑いだしたくなる。冗談だと思われて笑われてる気がしてるけど、彼女が楽しそうなら別によかった。
俺の提案はそのあと店長から見事に断られたので、ネームプレートは《桜井》のままだ。けれど、俺がアイツのことを名前で呼び続けたら、向こうもふたりのときはこっそり名前で読んでくれるようになった。
「琉夏くん」
やっぱり彼女から出る「琉夏」の音は、他の誰から呼ばれるよりも嬉しく聞こえる。