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    koji_033

    @koji_033

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    koji_033

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    ますずしさんとの共作で書いた探偵パロの続編です。物語の設定等は前作をご覧下さい。

    ホウェア・イズ・ザ・ブラックラビット?.



    「……、ぅ……んん……」
     呻き声と共にもぞりとベッドの上で身動ぐ体。開け放たれた窓から直に降り注ぐ日差しに眉を顰め、それから逃れるべく布団を頭から被る。
    「……」
     そうして暫くじっと丸まっていたが、ふと日光の差し込む位置が普段よりも高いことに気が付いて目を開いた。億劫に手を伸ばし、懐中時計を布団の中に引き摺り込む。
    「……もうすぐ九時か……」
     さすがにこれ以上は寝過ぎだろう。昨夜は深酒をしてしまったためにまだ頭は鈍く重い感じがするが、事務所を開けることを考えればいい加減起きなければ。
     ヒメルはベッドから体を起こして大きく伸びをした。昨日帰ってくるなり着替えもせずにベッドへとダイブしてしまったために、白いシャツは皺くちゃだ。まずはシャワーを浴びて、シナモンで遅めの朝食をとり――いや、その前に、ヒメルが飼っている黒うさぎのイナバさんにごはんをあげなくては。
    「イナバさんも、遅くなって悪かったな」
     そんなことを呟きながらヒメルはイナバさんのカゴに近付いて行った。いつも上にかけてやっている麻布が少しだけずれており、その隙間から空のお皿が覗く。酔っていても、昨夜の自分はイナバさんにごはんをあげることとカゴに布をかけてやることは忘れなかったようだ。

     ごはんをあげ忘れて、ひもじい思いをさせていなくて良かった――。

     そう思いながらヒメルは布を取り去り、カゴの中にいる“はず”のイナバさんへと笑みを向けた。
    「おはよう、イナバ――」

     けれども、その言葉が“さん”と続くことはなかった。

     カゴの中が、もぬけの空であったから。



     八時に店を開く純喫茶シナモンは、仕事前に朝食をとりに来る労働者で朝から盛況だ。九時を過ぎると少しずつ客足が落ち着き、空いたカウンターの前にはマスターと馴染みの赤い髪の大男が現れる。この日も例に漏れず、天城はいつものカウンター席に陣取りニキと会話を交わしていた。
     そんな穏やかな空気の中、突如店の扉が大きな音を立てて開かれる。

     カラカラカランッ。

     普段は耳に心地良い音を響かせるベルがけたたましく鳴り響き、驚いた天城とニキが入り口に目を向けるのと同時に、血相を変えて飛び込んできた人物が場所も憚らずに叫ぶ。
    「大変です! イナバさんが! いなくなりました!」
     クールな風貌はどこへやら。皺くちゃのシャツと寝乱れた髪のまま、その人物――ヒメルは大股でカウンターの前までやって来た。尋常じゃない様子に天城は立ち上がり、どうどうと宥めるようなジェスチャーでヒメルを迎える。
    「おいおい、どうしたってンだよ。ンなに取り乱して、らしくねェ」
    「だから! イナバさんがいないのです! どこにも!」
     相当興奮しているのか、ヒメルは何を聞いても「イナバさんがいない」と繰り返すのみである。天城は腕を組み、訝しげな顔で首を傾けた。
    「ええ〜、ちゃんと探した? メルメルの部屋汚ねェか、ら――ッ!?」
     物で溢れかえった部屋を思い出しながら思わず口走った失言は、足先の激しい痛みによって最後まで口にすることは叶わない。
    「いってェ!」
     ヒメルに思いっきり踏まれた足を上げて痛みに呻いている間にも、ヒメルは「いいから来てください!」と抗議する隙も与えずに、天城の腕を引いて走り出した。勢いに気圧されるまま向かった先は、シナモンの二つ上の階にあるヒメルの自宅だ。
     鍵も閉めずに飛び出してきたらしい、ヒメルは勢いよく自室のドアを開けて天城を連れ込んだ。
    (うわぁ……)
     一歩踏み込むと同時に天城はげっそりと顔を歪める。もともと散らかっている部屋は、そこら中イナバさんを探し回ったせいかいつにも増して荒れていた。箪笥の引き出しは全て開け放たれ、床やベッドに服が散乱して足の踏み場もない状態だ。仮にこの中にイナバさんがいたとしても、探し出すのは至難の業なのではなかろうか。
     一応いつもイナバさんがいるカゴを覗き込んでみると、そこには空のエサ皿がポツンと取り残されているのみであった。ここからいなくなったと言うことは、恐らく蓋を閉め忘れたのだろう。
    「あー、メルメル……取り敢えず、この部屋をなんとかしねェと……」
     足を踏まれぬように警戒しながら、このままではイナバさん探しどころではないと天城は部屋の片付けを提案する。しかしヒメルは首を横に振り、必死の面持ちで天城に訴えた。
    「今朝はこんな状態ではなかったのです! 昨日要が片付けてくれたばかりでしたから……! ベッドの下も探しましたし、入り込むはずのない隙間まで全部探したのです! でも、どこにもいなくて……!」
    「ンなこと言ったって……」
     天城は今一度荒れた部屋を見回し、狼狽えるヒメルに視線を戻した。普段の様子からは想像もつかない程冷静さを欠き慌てるその姿に、少なからず天城も戸惑っている。いつもの彼ならもっと理路整然とこの状況を分析できるはずなのに。
    「ここにいないなら、どこ行ったってンだよ。まさか自分でドアなんか開けられないっしょ?」
    「……」
     天城のその指摘にヒメルは暫し沈黙した。俯きがちに何かを考え込むように視線を彷徨わせ、じっくり時間をとった後やがて顔を上げて天城を不安げに見つめる。
    「……唯一、思い当たるとすれば……朝目が覚めた時、窓が開いていたのです」
    「窓……?」
     そうして天城はヒメルがチラリと視線を向けた先に目をやった。ベッドの近く、シナモンの入り口側に配置されている表通り向きの窓だ。そこが開いていた、と。
    「何故開いていたのかは全く覚えていないのです。ただ……昨晩は相当酔っていたので……」
    「……」
     つまり、昨夜酒に酔っていたヒメルは、窓もイナバさんのカゴも閉めるのを忘れて寝てしまったと。そしてイナバさんが部屋の中のどこにもいないとなれば、自ずと考えられるのは――。
    「……窓から逃げたってことか?」
     天城が言葉にしたその瞬間、ヒメルは肩をビクリと震わせた。無理もないだろう。だってここはアパートの三階だ。天城のような人並外れた身体能力を持った人間ならまだしも、あんな小さなうさぎがここから落ちたらひとたまりもない。
     天城は窓に近付き、下を覗き込む。シナモン前の歩道には、早朝も過ぎて活動を開始した人々の行き交う姿がちらほらと見てとれた。
    「……この高さじゃ……」
     険しい顔でじっと窓の外を見つめる天城に、ヒメルが焦ったような声で言う。
    「でも、怪我をしたならまだ下にいるはずです。いないと言うことは、きっと自分でどこかへ行ってしまったのです。だから早く探しに行かないと……!」
    「……」
     ヒメルはそう主張して天城にも手伝うように要求する。だが、実際にこの高さを目の当たりにした天城にはとてもあの小うさぎが無事でいるとは思えなかった。下にいないということは――既に
    死んでしまって、役所の人間に片付けられたと考えるのが自然だ。
    「……仮に怪我で済んでどっかに行っちまったとしても、危険は危険っしょ」
    「……」
     天城は窓の外から室内のヒメルへと視線を戻し、苦々しい思いでそう告げる。ヒメルの瞳がゆらりと揺れるのが分かったが、残酷でも伝えるべきことは伝えなければ。
    「この辺りは人通りも多い。雑踏に紛れちまったら踏まれちまうかもしれねェし、そうじゃなくても自転車に轢かれるとか、野犬に襲われるとか……」
     そう言った天城に悪気はなかった。寧ろ、天城なりの気遣いであるとさえ思っていた。少ない可能性にかけて徒らに探し回ったところで、僅かに抱いていた希望がどんどん絶望に変わって、徐々に体を蝕む悲しみにただただ傷付いてしまうだけだ。だったら最初からあの小さなうさぎが辿ったであろう結末を告げてやるのが優しさだろうと。ヒメルだって本当は分かっているはずだ。ここから落ちて助かる可能性がどれだけ低いか。
     ――けれども。
    「……」
     天城の話をじっと黙って聞いていたヒメルの瞳から、不意にぼろりと一粒、涙が零れ落ちた。
    「え、はっ……、」
     それを皮切りに、言葉を失う天城の前でヒメルの白い頬を大粒の涙が次々と伝っていく。
     こんな風にヒメルが人目を憚らずぼろぼろ泣く姿など初めて見た。ベッドの中でさえ、これほど涙を零したりはしないのに。
     天城を見つめたまま唇を引き結ぶヒメルをなんとか宥めようと、天城は自身の無神経な発言を悔やみつつ必死でフォローの言葉をかける。
    「い、いやでも、あんなこと言っちまったけど案外平気かもしンねェし! ほら、イナバさんはちっせェから軽いっしょ? だから落ちた時の衝撃も少ねェっつーか!」
    「……」
    「それに、どっかの親切な人が保護してくれたって可能性もあンだろ? そうだ、そうかもしンねェなぁ! いやー、それに思い至らず俺っちってやつは自転車がどうだの野犬がどうだのひでェことを――」
    「…………」
     矢継ぎ早に言葉を紡ぐも、ヒメルはやがて俯いてしまった。涙は止まるどころかパタリと床に染みを作る。そして、震える声で呟いた。
    「ごめんな……イナバさん……俺がだらしないばっかりに……ごめん……」
    「……」
     それっきり、ヒメルはシーツまで引っ剥がしたベッドに座り込んでしまった。何度も何度もイナバさんへの謝罪の言葉を繰り返し、失言をした天城を責めることもせずに項垂れる。酷く悔やんでいるのだ。何故カゴを閉め忘れたのか。何故窓を開けたまま寝てしまったのか――。
    「メルメル……」
     そんなヒメルの姿に、天城はそれ以上掛ける言葉がなかった。きっと今のヒメルには何を言っても届かない。ヒメルの涙を止められるものがあるとすれば、それは多分、イナバさんが無事戻ってくることくらい。
    「……」
     天城は軽くヒメルの肩をぽんぽんと叩くと、そのまま部屋を出ていった。ドアを閉める直前まで、啜り泣く声に後ろ髪を引かれながら。



    「……さて」
     建物の外へ出た天城は、腰に手を当て周囲を見回した。イナバさんが落ちたと思しき窓の下を中心に念入りに確認してみるが、側溝に落ちたとか、物陰に隠れているとかいうこともなさそうだ。念のため周辺の通行人にも黒いうさぎを見なかったか確認するも、目撃情報はない。それもそうか。見かけた人間がいるとすれば、それはもっと早い時間にここを通りかかった人間だ。つまり、現時点での手がかりはゼロと言って差し支えない。
     けれど。
    (希望は薄いかもしンねェけど……泣かせたのは俺っちだし)
     このまま「いませんでした」とあっさり諦めるわけにはいかない。ヒメルは暫く動けないだろうから、探すならこれ以上時間が経過する前に探し始めないと。
     とは言えこのまま闇雲に探していても仕方がないので、天城は一旦足で探し回ることは避け、可能性の高そうな場所から当たることにした。
    「物探しの定石は……まずはあそこっしょ」
     正直“そこ”へ行くのは気が進まないが、ヒメルのためなら致し方なし。天城は街の中心部へと向かって足を進めた。


    「なんや、ヒメルはんとこの駄犬はんやないか」
     顔を合わせるや否や飛んできた罵倒とも言える言葉に苦笑いしつつ、天城は片手を上げて応える。天城がまず訪れた場所――ここは、ヒメルのアパートからほど近い交番だ。
    「なんでこはくちゃんがいンだよ。交番勤務じゃないはずっしょ?」
    「警邏中に立ち寄ったんじゃ。街の様子を確認するのも仕事やからな」
     普段は警察署の本部で茨と共に働いている桜河こはくは、ちょうど今抱えている事件がないからと街へ出てきたようだ。顔見知りがいるなら都合が良い。天城はヒメルの名前は出さず、こはくに尋ねる。
    「なァ、こはくちゃん。黒いうさぎとかって届けられてたりしねェ?」
    「は? なんやそれ」
     こはくは目を丸くして素っ頓狂な声を出す。まぁ普通はそういう反応だろう。うさぎの落とし物なんてまずないだろうし、届けられていたらいたでこんなに簡単に見つかるものかと若干拍子抜けでもある。
     “あー、悪ィ。気にすんな”
     天城はそう言って立ち去ろうとしたが、それより一瞬早くこはくは「ああ、そや!」と手を叩いた。
    「あったわ! うさぎの届け物!」
    「え? マジ?」
    「ちょい待っとき」
     そうしてこはくは交番の奥の部屋へと引っ込んでいった。
    「マジで? 届けられてんの? イナバさん」
     であれば、先程拍子抜けとは言ったものの、実際これほど幸運なことはないが。
    「……メルメル、喜んでくれるよな」
     すっかり意気消沈してしまったヒメルの悲しげな表情を思い浮かべながら、天城は知らず安堵の笑みを浮かべる。これでヒメルは――。
    「待たせたな、ほれ」
     少しして戻ってきたこはくは、腕にしっかり抱いたそれを天城に向かって差し出した。黒い毛、長い耳、つぶらな瞳を持った小さなうさぎ――の、ぬいぐるみだ。
    「……」
    「ぬしはんのやったんか、これ。なんや、このうさちゃんがおらんと眠れんのかい。意外とかわええとこあるやん」
    「ちげーよ……」
     天城はがっくりと肩を落とし、鼻先に突きつけられたうさぎと目を合わせた。確かにイナバさんに似てはいるが、生気のない作り物の瞳は天城を見つめ返さない。これが本物のイナバさんだったら、やたらと天城を嫌っているあのうさぎから蹴りの一つももらっているところである。
     落ち込む天城に、何故かこはくの方もどこか残念そうな顔を見せた。
    「なんや、違うんかい。実はわしらもちっと困っとったから、持ち主が見つかったんなら喜ばしいことやったんやけど」
    「ああン? 何が困るってンだよ?」
    「どうもこのうさぎ外国で作られたみたいで、かなり高価なもんなんやないかって話や。わしらとしてもそないに価値のあるもんをずっと預かっとく言うのもな」
    「これがねェ……」
     確かに、言われてみれば毛並みといい作りといい、上質なものであることが伺える。こういうものが持てるとしたら貴族や富豪であろうか。
     いずれにせよ、今の天城にぬいぐるみのうさぎは不要の産物だ。一応こはくには本物の黒うさぎが見つかったら保護しておいてもらえるように頼み、交番を後にする。
    「交番に届けられてねェなら次は……」
     あり得そうなのは動物病院。この街には一箇所しかないため、誰かが保護してくれたならそこへ連れて行くかもしれない。望みは薄いながらも、天城は記憶を頼りに病院へ向かって歩き出した。


     *


     病院にイナバさんはおらず、その後も天城はアパートの周辺を中心に探し回った。今朝アパートの前を通り掛かったであろう通行人が帰ってくる頃合いを見計らって聞き込みもしてみたが、イナバさんの手がかりは見つからないまま陽が落ちる。ただでさえ小さな黒うさぎを夜の闇の中で探したところで見つかりようもないので、仕方なく天城はこの日の捜索を断念してシナモンへと戻ることにした。
    「つっかれた〜。ニキ〜、飯」
     店の扉を開けるなりそんなことを言いながらカウンター席にどっかり座る天城に、皿を拭いていたニキは軽くため息を吐いて肩を竦める。
    「いつも言ってるけど、自分の家みたいに入ってこないで欲しいっす」
    「ンだよ、もう殆ど家みてェなもんっしょ」
    「……」
     じとりと恨めしげな目を向けるも、ニキは黙ってメニューを差し出した。メニューなど見なくても大体何があるかは把握しているが、一応は目を滑らせてから適当に注文する。
    「メルメルの様子どう?」
     料理が出来上がるのを待っている間そう尋ねると、ニキは手元から顔を上げた。その表情は困ったように眉が垂れ下がり、「それが……」と歯切れ悪く話し出す。
    「今日はまだ一度もご飯食べに来てくれてないんすよ」
    「……マジ?」
     天城は軽く目を瞠り、思わず上階を見上げた。ヒメルは料理も皿洗いもめんどくさがって、三食全てシナモンで済ませている。そんなヒメルが食事をしに来ていないということは、つまり朝から何も食べていないということ。
     ニキが言うにはそれだけではない。
    「それどころか今日は事務所も開けてないみたいだし、多分一日中閉じこもってるんじゃないっすかね。昼過ぎにちょっと軽食持って行ってみたんすけど、結局返事もしてくれなくて」
    「……」
    「ご飯も喉を通らないくらいの悲しみって、僕には想像もつかないっす……きっと相当辛い思いをしてるんすよね」
     ヒメルがそんなことになっている原因は、言わずもがなのイナバさんだろう。あのうさぎがいなくなったショックで食べ物も喉を通らないらしい。
     まさかここまでヒメルが深く落ち込むとは。確かに泣くほどショックを受けてはいたが、少なくとも食事くらいはしに来ると思っていたし、ニキの美味しいご飯を食べて腹が満たされれば、幾分か心も落ち着いてきて少しずつ元気になり、自分でイナバさんを探すくらいのことはしているだろうと思っていたのに。
     だが、その考えは甘かった。
    (まぁ……可愛がってたしな……)
     これまで何度かヒメルの部屋を訪れたとき、ことあるごとにイナバさんに話しかけ、朝一で「おはよう、イナバさん」と挨拶をしていた横顔を思い出す。どうしてだかあのうさぎは天城には全く懐かなかったが、ヒメルがカゴを覗き込めばぴょんぴょんと近寄ってきてヒメルを喜ばせた。

     ――そしてまた嬉しそうにはにかむヒメルの顔に、今朝会った時の涙に暮れた悲しげな表情が重なる。ヒメルにあんな顔をさせたのは……自分だ。

    「俺っち、無神経なこと言っちまったよなぁ……」
    「あんた何か酷いこと言ったんすか? サイテー、だからいつまで経っても体の関係止まりなんすよ」
     思わず漏らした天城の独り言を聞きつけたニキが料理を置きながらそんなことを言うので、一つに束ねた髪を思い切り引っ張ってやった。「イデデデ!」という悲鳴を聞き流し、天城は内心で密かに決意する。
    (好きな子が泣いてるのを止めてやれないンじゃあ、男じゃねェっしょ)
     明日また、本腰を入れて捜索をしよう。そうして、どんな形であれもう一度ヒメルをイナバさんと会わせてやるのだ。


     * * *


     イナバさんが行方不明になって二日目。
     まだシナモンも開店していない早朝から、天城はヒメルのアパートの前にいた。捜査の基本はまず事件当時と同じ状況で調べること。イナバさんがいなくなったと思われるその時間の現場の様子を確認するのだ。
     シナモン前の通りは、時折ニキが店の外へ出て来ては開いた扉から仕込みの良い匂いが漂ってくること以外は、特に変わった様子はない。人通りが少ないことだけが日中と異なる部分だ。
    (あそこが寝室の窓……)
     アパート全体を見られるよう、少し離れた場所から、通りに面した例の窓を見上げる。窓の真下には歩道があるだけで他には何もない。あの窓から落ちたとしたら、地面に叩きつけられる以外はないだろう。
    「……」
     天城は窓を睨み付けつつ、イナバさんが消える直前までの様子を推理する。天城が思うに、イナバさんは夜が明けてからいなくなったのではなかろうか。
    (一昨日の夜、メルメルは酔って帰宅した)
     ヒメルが自室ではなく街の酒場で飲んでいたことは確認済みだ。夜遅く帰ってきたヒメルは着替えもせずに寝てしまったわけだが、イナバさんに食事を与えることは忘れなかった。カゴの中に空の皿が残っていたからだ。ヒメルは、イナバさんが食べ終われば毎回皿を下げていた。
    (食事をやって、カゴを閉め忘れたままイナバさんの前を離れて……昨夜は少し蒸したからな、窓を開けた)
     そしてそのまま寝てしまった、と。ここまではまず間違いないだろう。問題はその後だ。
    (食事を終えたイナバさんは、カゴの中を見回した。いつもはメルメルが皿を下げるはずなのにそれをしない。よく見てみれば、カゴの蓋が開いている……)
     そうしてイナバさんは、カゴを抜け出した。上にかけてあった麻布を押し退けて、自由になった身でもう一度部屋の中をじっくり観察すると――。
    (ベッドの上でメルメルが寝てる、と)
     ここで普段のイナバさんの様子を思い出す。賢いあのうさぎはすっかりヒメルに懐いていて、ヒメルが座るとすぐに膝に飛び乗った。そんなイナバさんが、寝ているヒメルを無視して真っ先に窓へと駆け寄るとは思えない。多分だが、イナバさんは朝までヒメルと一緒に寝ていたのではなかろうか。
    (ベッドに飛び乗り、メルメルにひっついて寝た。そのまま朝になって、寝坊したメルメルより先にイナバさんが起きる)
     目が覚めたイナバさんはヒメルの顔を覗き込むが、まだ起きる気配がない。暫くヒメルの周囲をウロウロするも、次第にお腹が空いてくる。夕食は遅かったものの、ヒメルが寝坊した分だけ朝食も遅れているわけだからイナバさんは空腹だったはずだ。

     ――そんな時、開けっ放しの窓からシナモンの仕込みの匂いが漂ってきた。

    「……」
     天城は窓を睨む目を細めた。

     匂いにつられたイナバさんは、ヒメルを乗り越えて窓枠に飛び乗り、下を覗き込む。そして……。

     キキィーッ

     小さな黒うさぎが窓から落ちていく様を脳裏に浮かべる天城の耳に、不意に空気をつん裂くような音が響いた。ハッとして目線を窓から下ろせば、一台の自転車が建物前に停まっている。そしてその運転手の姿を認めた瞬間天城は咄嗟に近くの街灯の陰に隠れた。
    (やべっ……!)
    「うん?」
     少し離れてはいるものの、自転車の運転手は何かに勘づいたのか辺りを見回す。天城は冷や汗を垂らしながら息を潜め、早くいなくなれと念じた。
     その願いが通じたのかは分からないが、運転手は荷台に積んであるカゴから布の覆いを剥がし、中に入れてある紙束をいくつか持ってアパートへと入っていく。どうやら天城の存在には気付かなかったようだ。
    (あぶねー……)
     天城はほっと胸を撫で下ろす。……別に、見つかったからと言ってどうと言うことはないけれど。なんとなく、だ。
    (あいつ、こんな早い時間から配達してンのか……)
     先程自転車に乗ってやって来たのは郵便屋だ。咄嗟に隠れたのは、それが見知った相手であったから。
     新聞屋でもあるまいしこんな早朝から配達なんてと呆れかけるも、ふと彼が建物沿いに停めていった自転車が目に留まる。布の覆いが開けっ放しの大きなカゴには、配達用の手紙が無造作に積まれているらしい。
    (あんなとこに放置してくなんて、不用心だなァ……カゴも開けっ放し、じゃ……)

     そうしてなんとなしに視線を上げた天城は、気付く。郵便屋の自転車が、イナバさんの落ちた窓のちょうど真下に停められていることに。

    「……」
     もし、昨日も同じ時間、同じ場所にあの自転車が停められていたとしたら。そして、手紙が山ほど積まれたカゴの中にイナバさんが落ちたとしたら――。
    「……無事かもしンねェな」
     配達を終えた郵便屋がアパートから降りて来て、カゴの中を特に確認することもなく蓋をして走り去っていく。天城はその後ろ姿を見送った後、反対方向へと歩き出した。郵便局はこっちだ。

     *

    「カゴにうさぎぃ?」
     郵便局に着き手近な人間に声を掛けると、尤もな反応が返って来た。見知らぬ男からいきなり「昨日配達用の自転車のカゴにうさぎが紛れ込んでいなかったか」なんて聞かれれば、そりゃそういう反応にもなるだろう。
     しかし、天城にとっては漸く掴んだかもしれない手掛かりだ。これを逃すわけにはいかないと、忙しなく動く男の後をついて回る。
    「なァ、思い出してみてくれよ。誰かそう言うこと言ってるやついなかった? ここまで戻って来なくても、途中でそれっぽいの見かけたとか、手紙に動物の毛がついてたとか」
    「しつこいなぁ。そんなもんあるわけ――」
     郵便局員の男はそうあしらおうとして、はたと動きを止めた。それが何かを思い出したような仕草に見えて、天城は思わず前のめりになる。
    「お、なんかあった!?」
    「そう言えば……一彩のやつが何か言ってたな。配達の途中でカゴから何かが飛び出して来たとかなんとか……そん時はどうせ野良猫だろって話してたんだが」
    (それだ!)
     一彩とは今朝ヒメルのアパートへ来ていた配達員だ。昨日の今日で担当地区が変わるとも思えないから、昨日ヒメルのアパートを訪れていたのも一彩であるはず。であれば、十中八九その飛び出して行った何者かはイナバさんだろう。やはりイナバさんは無事だったのだ。
     そうと分かれば、次は場所である。
    「その飛び出してったのってどこだとか言ってたか?」
    「そんなこと言われてもなぁ……昼休憩の雑談でちょっと話したくらいだし……もう少し待てば本人が戻ってくるが」
    「そ……れは最終手段にしてェところだけど……」
    「なんだそれ、あんた変な奴だな」
     男は突然歯切れが悪くなった天城に疑念の目を向けるも、昨日一彩とした会話を思い出しているのか「そうだなぁ」と視線を斜め上へと投げる。天城からすればこの男の記憶だけが頼りなので祈るような思いで男の言葉を待つ。
    「茂みの中に逃げてったとか言ってたか……大きな屋敷の近くに自転車を停めて……そうだ、公園の向かいにある家に配達する時だったか。富豪かなんかの大きな洋館だ」
    (公園の近くの洋館……)
     思い当たるのは一箇所。ヒメルのアパートからさほど遠くはない。確か貿易か何かで財を成した家だったか。近くに大きな公園があって、そこなら小動物が隠れられる場所もありそうだ。
    「助かった、ありがとな!」
     天城は男に礼を言い、イナバさんを探すため――そして、その内ここに戻ってくるであろう一彩という郵便局員と出会さないために、急ぎその場を後にした。


     *


     男の言っていた屋敷は周囲が鉄の柵で囲われており、建物の外壁がここらでは珍しい淡い桃色をしているため、それなりに目立つ。けれども周りの景色からそこまで浮いていないのは、家の広い庭に種々の草花が植えられているからであろう。
     洒落た家だな、などと横目に思いながら、天城はそのすぐ向かい側にあるイナバさんが逃げ込んだと思しき公園へと足を踏み入れた。周囲をぐるりと生垣で囲われたその公園には遊具があると言うわけではなく、西洋風のベンチや噴水が設置された所謂“憩いの場”だ。天城はあまり訪れたことはないが、日中は誰かしらがのんびり本を読んだり連れ合いと談笑したりしている様子が見られる。
     ただ、陽が落ちてくるとどこからともなく野犬が現れるため、夜に限って言えばあまり安全とは言い難い。イナバさんがいなくなった早朝の様子は分からないが、何匹か彷徨いていても不思議ではなかった。
    「イナバさんが餌食になってなきゃいいが……」
     天城は辺りを見回し、地面についた小さな足跡を見つけて眉を顰めた。これは大きさ的に恐らくイナバさんではなく、懸念していた野犬のものであろう。
    (イナバさんはちっこいが、俺っちを見るなり突進して噛み付いてくる強気な奴だ。そう簡単にやられるタマじゃねェとは思うが……)
     とは言え、うさぎと野犬ではイナバさんに勝ち目はない。仮に野犬に追いかけられたとして、イナバさんが逃げ込むならどこだろう。ベンチの下はダメ。噴水に飛び乗っても意味はない。イナバさんに入り込めて、野犬では入れないような場所は――。
    「……あそこか」
     天城は公園の周囲を囲む生垣に目を向けた。あの茂みの中であればイナバさんの小ささなら入り込めるであろうし、逆に野犬くらいのサイズになると枝に体が引っ掛かって追いかけるのは難しそうだ。イナバさんは賢いうさぎであるため、もし野犬に襲われていれば天城の予想通りの行動をとっていてもおかしくはない。
     天城は公園の周囲をぐるりと囲む生垣を慎重に見て回った。葉や枝が乱れているところはないか、獣道になっているところはないか。
     そうして公園の入口からぐるりと一周回りかけたところで――。
    「……これ、」
     天城は入口付近にある生垣の前でしゃがみ込んだ。昨日、今日と特に風が強いわけでもないが、生垣の葉が他の場所に比べて不自然に落ちている箇所がある。よくよく目を凝らしてみると、枝に何か黒い毛のようなものがついているようだ。
    「イナバさんじゃねェか……?」
     天城はふわふわのそれを手に取り、生垣の中を覗き込んだ。大柄な男が地面に這いつくばって何をやっているんだかとは思うが、着実にイナバさんに近付いてきていることを思えばなりふり構ってなどいられない。イナバさんが今もどこかで一人逃げ回っているなら早く見つけてやらなければ。ヒメルのためにも、イナバさんのためにも。
    「近くにはいねェか……」
     一度立ち上がり周囲を見回してみた。野犬に追いかけられて逃げ込んだとすれば、イナバさんはそのまま生垣の中を移動したと思われる。
    「野犬を避けながら移動したとして、まだこん中のどっかにいるのか、或いは隙を見て逃げたか……」
     生垣沿いに歩きながらイナバさんを探す天城の目に、ふと公園の隣に立つ豪邸が目に入った。芝生が敷かれ、草木も生える緑豊かな庭。敷地を囲む鉄製の柵は等間隔に並び、人間は勿論、野犬も通り抜けられないくらいだが……イナバさんなら。
    「……」
     吸い寄せられるように公園を出てその屋敷へと近付いた。二階建ての西洋建築で、門もきっちり閉じられている。この屋敷の敷地内であれば野犬は入って来られない。イナバさんにとってこれ以上ない安全圏だ。
     そして、天城が屋敷の二階を見上げたその時。
    「――!」
     角の部屋にある出窓からじっとこちらを見つめている小さな生き物と目が合った。黒くて、長い耳を持つふわふわの――。
    「イナバさん……」
     思わずその名を口走ったと同時に、イナバさんと思しきうさぎの隣にもう一つ小さな影が現れる。まだ幼い女の子だ。この家の娘だろう。
     少女は出窓に立つイナバさんを抱き上げ部屋の奥へと引っ込んでいった。それっきり暫く待っていても二人が戻ってくることはなかったが、もしあのうさぎが本当にイナバさんであるなら、この家で保護されていることになる。
     天城は一旦イナバさんらしき姿の見えた窓から離れ、屋敷の正面へと回った。固く閉じられた門扉を前にどうしたものかと考えを巡らせていると、折良く屋敷の扉が開き、中からメイドと思しき女性が出てくる。
    (おっと、これは好都合っと)
     天城はすかさずメイドに向けて右手を上げ、ニコリと愛想良く微笑んでみせた。
    「?」
     メイドは不思議そうにしながらも、特に警戒した様子もなく天城の方へと近寄ってくる。こういう場合は、下手にコソコソして不審がられるよりもさっさと声を掛けて身分を明かすに限るのだ。尤も、その明かした身分が本物とは限らないけれど。
    「お忙しいところ申し訳ございません。わたくしこういう者でして……」
     天城は上着のポケットから名刺を取り出し、メイドに差し出した。「これはご丁寧に……」と受け取ったメイドは、名刺と天城とを交互に見ながら呟く。
    「探偵さん……ですか」
    「ええ。人探し専門の、ですが」
     勿論、名刺に記された名前も肩書きも偽物だ。盗みに入る対象を調べる時に使う七つ道具のようなもの。嘘であろうとなんだろうと、堂々としていれば案外バレないものである。
    「人探し専門ということは、どなたかお探しでいらっしゃるの?」
     そう尋ねるメイドに、天城は頷く。
    「ええ、まぁ。ただ、今回はちょっと例外的な依頼を受けていまして……逃げた愛玩用の動物を探しているのです。黒いうさぎ、見かけませんでしたか?」
     “黒いうさぎ”の部分をわざと強調して、メイドの反応を見る。心当たりがあれば何かしら表に現れるはずだ。
     しかし、メイドはきょとんと目を瞬かせるだけで、その様子からは心当たりがあるようには見えなかった。
    「うさぎ……ですか。生憎見ていませんわ」
    (見てない……?)
     そんなことはあるだろうか。この屋敷でイナバさんを保護したなら、世話はメイドの誰かがやっていそうなものだが。
    (もう少しだけ突っ込んでみるか……)
     天城は「そうですか……」と声に落胆を含ませ、困ったように眉尻を下げて見せた。チラリと屋敷の二階に目をやりながら、独り言を装って呟く。
    「こちらのお嬢さんがうさぎを連れていたという目撃情報があったんですが……」
     さて、これに対する反応はどうだろうか。
     横目でメイドを見やれば、先程とは打って変わって「ああ、それでしたら」と良い反応が返ってきた。ただし、彼女が口にした内容は天城の期待するものではなかったけれど。
     メイドは笑いながら言う。
    「ぬいぐるみですわ。お嬢様は旦那様からお土産でいただいた黒いうさぎのぬいぐるみをいつも大切に持ち歩いていますの。目撃した方というのは、それをご覧になったのでしょうね」
    「……なるほど、納得いたしました。お時間を取らせまして失礼いたしました」
    「いえ。御免くださいませ」
     天城はそのまま素直に屋敷の前を立ち去り、公園の中まで戻ってきた。あまり未練がましくウロウロしていたのでは、せっかく穏便に済んだところを無駄に警戒させてしまう。
     メイドが言うには、あのうさぎはぬいぐるみだ、と。
    (……でもありゃ確かに本物だったよな……)
     距離はあったけれど、確かに窓辺のうさぎが動いたのを見た。いくら精巧に作られたぬいぐるみと言えど、からくり仕掛けでもなければ自分で動いたりはしないだろう。少女が持ち上げた時だって、大きなお尻に引っ張られ、体がびよんと伸びていたし。あれが“ぬいぐるみ”だなんてまさか――。
    「……ん? “ぬいぐるみ”って……どっかで……」





     その夜。
     屋敷では家族揃っての夕食をとっていた。屋敷の主と、その妻と、幼い娘。
     ワインを手に取る主の男に、妻が「そう言えば」と話しかける。
    「昼間、探偵さんが訪ねてらしたそうですよ」
    「探偵?」
     男は怪訝な顔で妻に言葉を返した。その表情には警戒が見える。
    「探偵とは、少し前に怪盗の嫌疑を掛けられていた……?」
     その探偵が訪ねてくるなんて、まさか次はこの屋敷が怪盗に狙われているのでは。
     不穏な空気を漂わせる夫に対し、妻は笑顔で首を横に振る。
    「いいえ、その方とは違いますわ。人探し専門の探偵さんなんですって。それが……ふふ、どなたかに飼われているうさぎさんを探していたらしくて。この子のぬいぐるみを、本物と勘違いしたようなの」
     メイドから聞いたのであろう、妻はその話が余程おかしかったらしく、くすくすと上品に笑った。警戒していた男も、それを聞いてほっとしたように表情を緩める。
    「そそっかしい探偵だな」
    「ええ。それと……逃げてしまったうさぎさんも。とってもお転婆ですわ」
     そんな和やかに繰り広げられる会話の中で、一人だけぎくりと体をこわばらせる人物がいた。
    「……、」
     黙って両親の話に聞き入っていた、幼い娘だ。
    「あれはなかなか良くできているからな。遠目には分からなかったのかも知れない」
    「この子ったら、どこへ行くにもあのぬいぐるみを持ち歩いているから――あら」
     そこでふと、妻は娘の皿を見て言葉を止めた。柔らかだった表情を少しだけ曇らせ、やや硬い声で言う。
    「お野菜を残しているじゃない。いけませんよ、ちゃんと食べないと」
     妻の言う通り、娘の皿にはにんじんやキャベツなど、野菜だけが綺麗に残されていた。母親に注意された少女は何か言いたげにもごもごと口を動かした後、突然「ガタッ」と大きな音を立てて席を立ち上がる。
     呆気に取られる両親に、少女はサラダの皿を持って叫んだ。
    「お、お部屋でゆっくり食べる!」
     そしてそのまま自室と思われる方へと走っていってしまった。


    (あの子の部屋は……と、ここか)
     一連のやり取りを天井裏から見ていた天城は、やっとのことで少女の部屋の屋根裏に辿り着いた。メイドを何人も抱える富豪の屋敷といえどもこんなところまで掃除が行き届いているはずもなく、鮮やかな赤い髪は埃と蜘蛛の巣に塗れて散々だ。心中で何度も「メルメルのため、メルメルのため……」と唱えながら、天城はそっと部屋の様子を伺う。
    「……」
     少女は食堂から持ち去った皿を床に置いてしゃがみ込んでいた。そして、小さな体の陰になっている部分で、更に小さな何かがもぞもぞと動く。
     少女が残したサラダを勢いよく食べていたのは――。
    (……)
    「……この子はミミちゃんだもん……ミミちゃんが本物になって帰ってきたんだもん……」
     そんな呟きが背中越しに聞こえてきた。そして、その呟きを持って天城の中で全てが一つに繋がった。サラダをもりもり食べているあのうさぎは、やはりぬいぐるみなんかではない。
    (あの子はいつも黒いうさぎのぬいぐるみを持ち歩いてた。ンで、どっかで落としちまったンだ)
     交番に届けられていたぬいぐるみ、おそらくそれが少女の言うところの“ミミちゃん”なのだろう。けれど、父親からもらった大切なぬいぐるを「なくした」なんて言えなくて、幼い少女はどうすればいいのか分からずに困り果てていた。そんな時――この屋敷の庭にイナバさんが迷い込んで来たのだ。

     迷子のぬいぐるみが本物になって帰ってきた。

     あの子はそう信じて、屋敷の者には内緒でイナバさんを匿っている、というわけだ。
     この少女もヒメルと同じ。大切な友だちを失って悲しんでいる。
    「……」
     それでも、このままここへイナバさんを置いていくわけにはいかない。イナバさんの帰りをずっと待っている人がいるのだから。
     天城は懐からカードとペンを取り出した。部屋から漏れる細い灯りを頼りにサラサラと文章を書き連ね、最後には小さく“R”のサイン。

     そして少女が部屋を出た隙を見て、その短い“予告状”をそっと窓に挟み込んだのだった。


    “あすのよる
    そらのてっぺんにまんげつがのぼるころ
    あなたのちいさなゆうじんを
    ちょうだいしにあがります R”


    * * *


     月が中天に差し掛かり、家人も寝静まった深夜。小さな少女は、腕の中に黒いうさぎを抱いて暗い部屋の真ん中で縮こまっていた。今夜は風が強く、時折窓枠がガタッと音を立てるのに小さく肩を震わせる。
    「……、」
     昨夜窓の隙間から差し込まれていた手紙のことは誰にも言っていない。だって大人に言ったらきっとこの腕の中にいるうさぎを取り上げられてしまうから。ミミちゃんが本物になって帰ってきたなんて、誰も信じてはくれないだろう。だからこの子は自分一人の力で守らないと。
     そうは言っても、少女自身もうさぎと同じくか弱く小さな存在だ。ほんの少しの物音でもビクビクと怯え、忙しなく視線を彷徨わせる。
     と、その時。

     トンッ……

     廊下の方で小さな物音がした。
    「ひっ……!」
     慌てて扉を振り返るも、その後は特に何事もなく、風だけが音を奏でる夜に戻る。
    「……」
     廊下に誰かいるのだろうか。もしかして、怪盗?
     少女は立ち上がり、恐る恐るドアに近付いた。腕の中のうさぎはひくひくと鼻を動かしている。
     そして、ドアノブに手を伸ばしたところで――。

     ガタンッ!

    「わっ……!」
     ドアとは真逆――出窓の方から突然大きな音が響き、振り返る間もなく突風が部屋の中へと吹き込んできた。風で窓が開いたのだ。鍵はしっかりと閉めたはずなのに、何故。
     少女の長い髪は風にはね上げられ、思わず目を閉じた。なんとか髪を除けようと、そして吹き付ける風を防ごうと両腕を顔の前に掲げる。
     その一瞬は、自分が腕の中に抱えていたものの存在を忘れてしまった。
    「……、あっ……!」
     しまった、と思った時にはもう遅い。今し方まで腕の中にあった温かくて柔らかな感触はするりと抜け出して、少女は月明かりだけが照らす部屋の中、慌てて床を見回した。
    「どこ……!? ミミちゃん!」
     けれどもその姿はどこにもなく、ハッとして風に開いた窓へと視線を上げる。
     そこにいたのは。

    「イデッ、イデデデッ……!」

     ――真紅のジャケットを纏った男。彼は窓枠に足を引っ掛け立っていた。外の月明かりが強くて、顔は良く見えない。
     そしてその人物の腕の中では、一匹の黒うさぎが暴れていた。自分を抱き抱える人物の指を噛んだり、手の甲を引っ掻いたり。全力で大暴れしているので、腹にもキックが入っている。状況はよく分からないが、なんとかうさぎを大人しくさせようと四苦八苦しているらしい。
    「ったく……! お前は、間違いなくイナバさんだよっ」
     聞こえた声は若かった。口ぶりから、彼はあのうさぎのことを知っているのだろうか。そして今夜、連れ戻しにここへ。あの子は……ミミちゃんではなかったのだ。
     暴れるうさぎと手こずる怪盗。その様子を少女は悲しげな瞳で見つめていた。
    「連れていっちゃうの?」
    「あ……?」
     小さなその呟きは男に届いたらしい。なんとかうさぎを抱え込んだ男は、漸く少女に向き合った。表情は窺えないながらも互いにじっと見つめ合った後、一つ咳払いをして男は畏まったように語り出す。
    「この子がいなくなって、悲しんでいる人がいるのです。レディ、あなたには分かるでしょう?」
    「……」
     少女は俯き、寝巻きの裾をきゅっと握りしめた。いなくなってしまった大事な大事なミミちゃん。自分が不注意だったばかりにどこかへ行ってしまった……大切な、お友だち。あのうさぎにも自分のように、いなくなって悲しんでいるお友だちがいる。それがどれだけ寂しいか、男の言う通り少女は知っていた。
     項垂れる少女に、男は「大丈夫」と優しく声を掛ける。
    「ほら、あちらをご覧なさい」
    「……?」
     しなやかな手が指し示すのに導かれ、少女はベッドの方へと目を向けた。初めは暗くてよく見えなかったものの、目を凝らしてみると枕元に何かある。
    「あっ……!」
     大きく声を上げ、少女は急いでベッドへと駆け寄った。白いシーツに黒く影を作っているそれは、長い耳を持つ、黒いうさぎのぬいぐるみ。
    「ミミちゃん!」
     抱き上げて、抱きしめて、その感触を確かめる。間違いない。あの子ほど温かくはなくて、あの子ほど重くはなくて――でも、腕によく馴染むこのうさぎは、間違いなく“ミミちゃん”だ。
     少女は窓を振り返った。ちょうど男が窓の外へと飛び出そうとしているところだ。
     その輪郭が一瞬だけ月明かりに照らされて、優しく笑う口元が見えた。
    「今度は決して離してはいけませんよ。――大切ならな」

     そうしてそのまま、男は夜の闇へと消えていった。





    「……」
     もう何日ここでこうしているのだろう。床に座り込んで、空になったカゴをぼんやりと眺める。何も考えられないのに、頭の中では自分を責める言葉が止まない。どうして飲まれるほど酒を飲んでしまったのか、どうしてカゴを閉め忘れたのか、どうして窓なんか開けたのか、どうして閉めなかったのか――。
     そうやって自責の念に駆られる度、頬をするりと涙が滑り落ちていく。謝っても謝りきれない。ヒメルが守ってやらなければならなかったのに。絶対に大切に育てると決めて迎え入れたのに。
    「イナバさん……」
     もう何度目かになる、いなくなってしまった大切な友人の名を呟いたその時。


     ゴンゴンゴンッ!


     ドアノッカーがけたたましい音を立てた。

    「……」
     チラリと懐中時計を見る。時刻は未明だ。こんな非常識な時間に一体誰だろう。
     不審極まりないが、やはりヒメルは何も行動を起こす気にならず、相手が誰かも確認せずに床に座ったままぼーっとしていた。無視をしていれば諦めて帰るだろう。もしくは相手が不審者で、ドアを破って入ってくるなら――それはそれで、己に科せられた罰なのかも。
     などと投げやりなことを考えている間もドアノッカーは激しく鳴り続け、やがて聞き慣れた男の悲鳴とも取れる叫び声が聞こえてきた。
    「メルメル! 俺っち! 開けてくれ! いてっ、いてェって! メルメル!」
    「…………?」
     これにはさすがのヒメルも眉を顰めた。ゆっくりと床から立ち上がり、玄関へと近付く。わざわざ覗き穴から確認しなくてもあの呼び方と声は天城だろうと確信を持って、ヒメルは鍵を開け、ドアノブを捻った。
     静かに開くドア。その隙間から。

    「うわっ……」

     するりと飛び込んできた黒い影がヒメルの足元を通り過ぎていった。目にも止まらぬ速さで部屋の中をぴょんぴょん跳ね回り、やがてベッドに跳躍して静止する。
    「……」
     ちょこんと座り、じっとヒメルを見つめるその姿は。
    「……イナバさん……?」
     絞り出した声は掠れており、満月のように丸くなったヒメルの瞳はベッドの上のうさぎに釘付けだ。ヒメルの声を聞こうとしているのだろうか、長い耳がピクピクと動く。
    「いってェー……もう、俺っちの白魚のような綺麗な手が傷だらけっしょ」
     不意に背後からそんな声が聞こえて、ヒメルははっと振り返った。すっかり頭から抜けてしまっていたが、そもそも天城がここへ訪ねてきたのだった。
     室内へと入ってきた天城は、赤い筋がいくつも走った手をぶらぶらと振っていた。着衣も乱れ、所々に黒い毛が付いている。
    「……探してくれたのですか?」
     なんとかそれだけを尋ねることができた。それ以上は言葉にならなくて。
     対する天城は、不自然に視線を逸らして言い淀む。
    「あー、いや……別にそう言うわけじゃ……まぁ、その辺ふらついてたら、たまたま見かけて……?」
    「……」
     本人はそう言っているが、噓を吐いているのはバレバレだ。この男は変にかっこつけたがるところがあるから。探して、見つけてきてくれたのだろう。座り込むばかりで何も出来なかったヒメルに代わって、自分自身は傷だらけになって。
     目を逸らしたまま「だから気にすンな」と下手に誤魔化す天城に、ヒメルは手を伸ばした。踵を少しだけ持ち上げて首にぎゅうっと抱きつく。すぐ耳元で天城が息を呑む音がした。忽ち体が硬くなる。
    「ありがとう、ございます……」
     なんとか告げた言葉は涙交じりの半べそで、ヒメルは隠すように首筋に顔を埋めた。天城ほどかっこつけではないけれど、こんな情けない顔はとてもじゃないが見せられない。
    「……、」
     普段であればヒメルのこの行動を茶化したであろう男は、固まったまま息を詰めるばかりで何も言わなかった。合わせた胸からドキドキと鼓動が伝わってきて彼が今緊張していることが窺える。
    (今更抱きついたくらいで何を照れているのだか……)
     もっと深いところまで知っているくせに。これっぽっちのことで照れられては、こちらの方まで恥ずかしくなるというものだ。
     けれど、こうして触れ合って天城の体温を感じていると不思議と安心する。ヒメルはこの男に対していつも冷たい態度ばかりとってしまうが、頼り甲斐のある厚い胸も、甘いけれどどこか“男”を感じる香りも、本当は、ヒメルは――。
    「……メルメル、あのさ、」
     それまで口を噤んでいた天城に名を呼ばれ、ヒメルはゆっくりと顔を上げた。すぐ近くで碧い瞳と視線がぶつかり、吸い寄せられるように見つめ合う。天城の眼は頼りなく揺らぎながらも、何かを言わんとしていることは明白で。

     ああ、何を言われるのだろう。

     次第にヒメルの鼓動も速まり、胸が高鳴っていく。これは“期待”? 期待って一体何を。その答えは、この後天城がくれるのだろうか。

     そしていよいよ、天城が続きを告げようと口を開く。

    「俺、あんたが――ッ、イッテェ!!」

    「!?」
     突如、鼓膜をつん裂くような声で叫ばれてヒメルは思わず飛び退いた。予期せぬことに何が起こったか分からず暫し呆然とするも、「痛い痛い」と飛び跳ねる天城の足元に目をやれば黒い毛玉がしがみ付いている。
    「イナバさん?」
     天城のアキレス腱やらなんやらに噛み付いたらしいイナバさんを抱き上げて剥がしてやると、天城は涙目でヒメルの腕の中を睨み付けた。この男が泣くなんて、相当痛かったみたいだ。
    「こンのッ……! 誰が見つけてやったと思ってッ……!」
    「……」
     自分の何十倍も大きな相手に凄まれてもイナバさんはどこ吹く風だ。それどころかどことなく反抗的にも見える目で天城を見つめ返すものだから、ヒメルは思わず笑みをこぼす。
    「……ふふ、お腹空いたな、イナバさん」
     宥めるように小さな頭を撫で、そのままイナバさんを抱いて台所へと向かった。そう言えば行方をくらませていた間イナバさんはちゃんと食事できていたのだろうか。抱いた感じ、痩せてはいないようだけど。
    「……」
     背後から天城の恨めしげな視線が突き刺さっている気がするが、それはそれ。申し訳ないとは思うが、今は帰ってきてくれた――いや、天城が探してきてくれたこの子との時間を大切にしなければ。
     ヒメルは抱きしめた黒いふわふわに頬を埋める。
    「今度はもう絶対に離さないからな、イナバさん」
     天城が言いかけた言葉は聞きそびれてしまったけれど、チラリと見えた表情は「仕方ないな」と言っているかのような穏やかなものに変わっていたので、今日のところはイナバさんを優先させてもらおう。続きはまた、別の機会に聞かせてもらうから。


     ――その後、ヒメルは部屋にいる時間の多くをイナバさんを抱いて過ごすようになり、天城は以前よりもヒメルに近付きにくくなったのであった。ヒメルの膝に乗るイナバさんは、どこか勝ち誇った顔で天城を見ているように見えたのだとか。

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