もしかしたら夢を見ているのかもしれない、と未だに思うときがパンドロにはある。そう、今この瞬間にも。
「ソラネルのあちこちに木の実が落ちていて。見つけるとつい拾ってしまうんですが、正直使い道が分からないんです」
招かれた神竜の私室。寝台に並んで腰を下ろし、すぐ隣にいるリュールがそういえば、と話を始めた。
「ソラにあげたら喜ぶかと思って与えてみたんですが、なんだかしょっぱい顔をするんですよね」
「しょっぱい顔?」
神竜の口から出てくるとは思えない言葉にパンドロは思わず目を瞬く。リュールははい、と頷き、パンドロに向かって表情を変えた。
「こんな感じです」
見るからにしょぼんとしていそうな、それでいてどことなく不満がありそうなその顔は確かにしょっぱい、といった体だ。だがその表情の絶妙さよりも、リュールが躊躇いなくおかしな顔をしてみせたことそのものがパンドロには堪らなくなってしまった。
「ぶっ、……ご、ごめんなさい……神竜様」
笑いを堪えきれず、口元を押さえてパンドロは顔を背ける。吹き出してしまったことを詫びはしたが、リュールはむしろパンドロの反応を喜ぶようににこにこと笑っていた。
「良かった。うまく伝わったみたいですね」
「いやもううまいなんてもんじゃないですよ。神竜様、意外な特技をお持ちなんですね」
しょっぱい顔をしたソラの様子が容易に脳裏に浮かび、パンドロはまた吹き出しそうになるのをどうにか我慢する。そこまでおかしいことではないのかもしれないが、妙に笑いのツボに入ってしまったのかもしれない。
「ふふ、そんなに似ていましたか? ソラと一緒にいるうちに、なんとなくコツを掴んでしまったのかもしれません」
リュールは尚もこちらの反応に喜び嬉しそうに笑う。気さくなその姿を見ていると、パンドロも心の奥がじんわりと暖かくなっていくのを感じていた。
(神竜様……こんなかわいらしい一面もおありなんだな)
またひとつ新たなリュールを知ることができた、と思えば抑えようもなく気分が高揚していく。
(本当に……こんな風にお側にいられるなんて)
夢みたいだ、とそっと胸のうちでひとりごちる。
御伽話に聞いていた信仰対象と対面を果たすどころか会話を交わすことができるようになるなど、昔の自分に教えてやってもきっと信じはしないだろう。姿を目にすることができるだけでも僥倖と言って差し支えないほどなのに、仲間として共に戦うことを許され、そして。
(こんなこと……夢に見ることさえおこがましいくらいだ……)
友人となり、更にはそれすら飛び越えパートナーとなれた現状が時折信じられなくなる。だが。
「パンドロ」
柔らかく微笑み、リュールがそっと手を重ねてくる。そんな些細な接触にさえ、いとも容易くパンドロの心は揺れる。
「こんなどうでもいい話を聞いてくれてありがとうございます」
「い、いえ! どうでもいいなんてことは全然! オレは神竜様のお話されることなら」
どんなことでも聞けるのが嬉しい、と続けようとした言葉は、けれど微笑むリュールの表情に目を奪われて紡げなくなる。
(神竜様……)
彼が向けるその表情が、パートナーである自分にだけ見せる特別なものだともう分かっている。だからこそ嬉しくて堪らなくて、あまりの幸福感に胸がいっぱいになってしまった。
「パンドロは、ちょっと私を甘やかしすぎだと思います」
笑んだまま目を細め、リュールは重ねたときと同様にそっと指を絡めてくる。パンドロが思わず息を呑むと、それすら喜ぶように更に目を細めた。
「あ、甘……? そ、そんなことは、な、い……かと」
繋いだ指に意識が行ってしまい、パンドロはついしどろもどろになってしまう。煽る訳ではないのだろうが、リュールから繋ぐ指に僅かな力を籠められれば更に心の奥がきゅうっとなった。
「ありますよ。パンドロはいつも何でも私の言うことを嬉しそうに聞いてくれるので、つい私も調子に乗ってどうでもいいことを」
「で、ですから、神竜様の話されることでどうでもいいいことなんて、オレには」
「そういうところです」
困ったような、けれどとびきり嬉しそうな顔でリュールがパンドロを見つめてくる。繋いだままの指、齎される言葉、優しい笑顔。そのどれもがこんなにもパンドロの心を掻き乱すをことに、彼は気づいていないのだろうか。
「でも、嬉しいです」
「神竜様……」
「そんなあなただから、私は……」
一度言葉を区切り、改めて視線を向けリュールが口を開いた。
「好きです、パンドロ」
「っ、」
「私はあなたのことを愛おしく思います。……心から、とても」
偽らない言葉で告げられた想いに、今度こそ胸がいっぱいになって苦しいほどの感情に襲われる。
(こんなに……幸せなことが、あるなんて)
もし夢だとしても構わない。身に余る数々のことを強く胸に刻み、パンドロは精一杯の笑顔を向けた。
「オレも……お慕いしています、神竜様。変わらずにずっと……あなただけを」
パンドロの言葉を聞き、リュールがひどく嬉しそうに顔を綻ばせる。少しでも彼の心に響くものがあったらと願いながら、パンドロもぎこちなく繋いだ指を握り返した。
(……嬉しい、な)
純粋なリュールと、畏れ多さが先行してしまうパンドロ。二人の交際は初心さが際立つばかりで、長らく健全な状態が続いていた。パンドロとしてはリュールの側にいられるだけで幸せという気持ちが強かったのだが、リュールはそうではないらしいと知ったのは少し前のことだ。誰から聞いたのか、それとも何かの書物で知識を得たのか。所謂パートナーとしての接触を試みるようになり、その度パンドロは激しく動揺しつつも何とか受け入れ先に進んできた。こうして手を繋ぐことに慣れたのもごく最近のことだ。
(そりゃ、オレだって……考えないとは言わないけど……)
心から愛するひとと触れ合うことが嬉しくない訳がないし、もっと、と思う気持ちも否定できない。だが、相手が神竜であるが故に拭えない不敬という思いがどうしてもパンドロを躊躇わせていた。
(だって、なあ……)
ふと視線を向ければ、神々しい姿のリュールが目に入る。
(神竜様……)
一遍の曇りもないそのうつくしさは、どれほど目に焼き付けようともパンドロの心を掴んで離さない。今すぐ祈りたい、という衝動を抑えつつ、けれどぼうっと見惚れてしまうことは避けようがなかった。
(こんなに近くから神竜様のお顔を拝見できるなんて……)
勿体なさすぎて涙が出そうだ、と考えていると、ふと更にリュールがパンドロへ顔を近づけてくる。
(あ、もっとお近くで……)
こんな至近距離から見つめることを許されるのはパートナーの特権だろうな、そんなことをぼんやりと思っているうちに、さらに距離が縮まってきた。
(あれ、なんか)
近すぎるような、と思った次の瞬間、間近にあった青と赤のうつくしい瞳が伏せられる。光を刷く長い睫毛にも見惚れていたところで、不意に唇にやわらかい感触が訪れた。
(……え)
何が起きているのか、パンドロはすぐには理解できなかった。ただ分かるのは、ひどく間近にあるリュールの顔と、唇に重ねられた感触。
(…………、キ)
キスされている、と認識した途端、それまで停止していた思考が突如として目まぐるしく回り始めた。
(う、……うわー! うわーーーー キ、……うわあああああ)
だが思考が動き始めたところで現状をどうすればいいのかは分からない。脳内でひとしきり叫んだところで、ゆっくりとリュールの唇が離れていった。
「……、っ」
触れていたのは実際にはほんの僅かな時間だったのだろう。けれどあまりに衝撃が大きすぎて言葉にならず、パンドロは飛び跳ねようとする身体を懸命に抑えつつ真っ赤になったまま口をぱくぱくとさせることしかできなかった。
「……パンドロ」
まだ息が触れそうな距離から見つめ、リュールが赤い頬に触れてくる。
「し、しんりゅう、さま」
かろうじて口にできたのはその呼びかけだけだ。赤面し続けるパンドロの頬を撫で、リュールがふっと微笑んだ。
「パンドロの頬、すごく熱いですね」
「ご……ごめんな、さい……」
「謝ることではないと思いますが」
触れる手が優しくて、だからこそ余計に顔が赤くなってしまう。うう、と呻き己の不甲斐なさを恥じたところで、ふとリュールが不安そうな瞳を見せた。
「ごめんなさいパンドロ、もしかして……嫌でしたか……?」
「え、」
「愛おしくてついキスしてしまいましたが、あなたの了承を得ていませんでした。もし嫌だったのなら、私はあなたに申し訳ないことを」
「ち、違います!」
誤解を与えてはいけないと、パンドロは必死に口を開く。
「嫌だとかは全然ありません。本当に、全く、これっぽっちもありませんので!」
「そうなんですか? でも飛び退きそうな勢いだったので、もしかして不快だったのかと……」
「お、驚いてしまっただけです。本当に……嫌なんて、そんな訳……ありません。オレは……あなたにされて、嫌なことなんて……ひとつもありませんから……」
「パンドロ……」
ぎゅっと手を握りしめ、パンドロはリュールを見つめる。確かに突然のことで驚いてしまったのは事実だが、触れられることが嫌などあり得ないのだ。それだけはきちんと伝えなければならない。
「そうなんですか。……良かったです」
嫌われてしまったらどうしようかと思いました、と、心底ほっとした様子でリュールが笑う。要らぬ心配をさせてしまったことは心苦しいが、彼が自分のことで心を揺らしたのだという事実に申し訳ないと思いながらも嬉しさを覚えてしまった。
「……あの、神竜様」
それならばせめて、自分も勇気を振り絞りたい。リュールの手に触れながら、パンドロは愛しいひとを見つめる。
「オレからも……あなたに触れて、構いませんか……?」
「え?」
「さっきは驚いていてよく分からなかったので、その……、……もう一度、確かめさせてください……」
自分からこのようなことをねだるなど、不敬どころの話ではない。だが、疚しい気持ちだと分かっていても、今はパートナーとしてこのままにしたくなかった。
「……パンドロ」
リュールが目を瞠る。きっと彼のうつくしい瞳に映る自分は必死すぎる情けない姿をしているだろう。それでも、リュールが許してくれるのなら。
「はい」
嬉しそうに微笑み、リュールが頷く。
「もう一度あなたに触れたい……触れて欲しいです、パンドロ」
こちらの手を握り返し了承を伝えるパートナーに、もう何度目か分からない感慨が胸に込み上げる。有難うございます、と告げ、パンドロは躊躇いつつも顔を寄せた。
「…………、……っ……」
目を閉じ、震える唇をそっと重ね合わせる。先程と同じやわらかな感触と、先程は得ることのできなかった実感が胸に押し寄せてきた。
(オレ……神竜様と……キス、したんだ……)
触れたときと同様にそっと離れ、リュールの様子を窺う。ゆっくりと瞼を持ち上げ、綺麗な左右非対称の色の瞳がパンドロを捉えた。
「ありがとうございます、パンドロ。……すごく、嬉しかったです」
微笑む表情に、心からの喜びが伝わってくる。羞恥は拭えなかったが、リュールのその顔を見ていたら些細なことだと思えた。
「オレも……嬉しかったです。ありがとうございます、神竜様……」
精一杯の想いを伝えると、不意にリュールが切なげに目を細める。どうしたのかと思っていると、手が伸び強く抱き寄せられた。
「し、神竜様」
「ごめんなさい、パンドロ。少しだけ……こうしていてもいいですか」
どうしてもあなたへの気持ちが抑えられそうにありません。
リュールの飾らない言葉にまた胸がいっぱいになる。
「……はい」
その背に自分からも腕を回し、身体を預けてパンドロは目を閉じた。
(オレの方が……抑えられないあなたへの気持ちが溢れ出そうです……)
確かに伝わる体温を、この上なくかけがえのないものだと思いながら。