ふたりを結ぶもの雪がしんしんと降る上層区。
銀世界に目立つ黒装束。その衣は僅かに赤を纏っていたが、黒の上からでは目立たない。
ひたすらに歩いたその足は、ある一箇所へと向かう。扉を開けると、その姿は見えた。
「フェンリッヒ」
「─お帰りですか。お疲れ様でございました、閣下」
こちらを見つけたその顔は少しだけ綻ぶ。
以前のような砕けた言葉で話してくれなくなったのは寂しさを覚えるが、以前は仲間として、今はシモベとしてよく支えてくれている。
帰ってきた主から僅かにいつもと違うニオイを感じ取り、シモベの目が僅かに細まる。
「…お召し物に血がついておりますね。すぐに替えを」
「ああ、すまぬな。今回は少し苦戦した」
「また“絆”とやらにですか?」
「今回は違ったな…いや、ある意味そうなのか…?」
「…と、申されますと?」
「フェンリッヒよ」
考え込むヴァルバトーゼに声をかけると、名を呼ばれる。
目を見たフェンリッヒに、彼は静かに問いかけた。
「─口付けというものには、いかな効力がある?」
その一言に動揺するが、主のその表情は真顔そのものだ。
「………一般的には、愛情だとか恋情だとかいうものがあげられますね、その行為に関しては」
「ふむ、所謂“愛”というものか」
「そうなります。我々には最も無縁な感情ですが」
悪魔ゆえ、“愛”などは持つこともないし、持つ必要も無い。
「お前はしたことがあるのか?」
「…ありますが、特別何かが生まれるようなこともありませんよ」
服を準備しながら、フェンリッヒは後ろを向いてぶっきらぼうに返す。
いくら主との会話とはいえ、“愛”という単語に寒気を覚えない悪魔など普通はいないのだ。
─そう、“普通”なら。
「それならばフェンリッヒよ、俺としてみてくれないか。口付けとやらを」
持っていた服が落ちて、ドサリと音を立てた。
振り向くその動きは、まるで壊れた人形だ。
いきなり頼んできた意図もわからなければ、何が“それならば”なのかもわからない。
「ほ、本気で言ってらっしゃいますか?我々が男同士だということも加味しておられます?」
「?男同士では何か問題でもあるのか」
「いや、あのですね…」
どこからどう説明したものか、とフェンリッヒは頭を抱えた。
たまにこうして物事を知らぬ子供のように突拍子もないことを言い出すのだ。
「そういったものは、好き合っている男女がするものでしょう」
我ながら何を生娘のようなことを、とフェンリッヒは思ったが、主が言ったからということに了承していたら大変なことになる。
「なるほど。今日見たのも、確かに男女であった」
「そうでしょう?軽々しく試すものでもありませんよ」
「だが気になるな…今日見た男はその後、凄まじい力を発揮したぞ。それに少し苦戦させられたのだ」
「それは閣下のいつも仰る“絆”と似たような類のものでしょう」
軽々しくするものではない、とヴァルバトーゼは頭では理解出来た。だが、凄まじい力というものは見過ごせるものではない。
彼が“絆”や“仲間”を知りたいと思った発端でもあるからだ。
考え込むヴァルバトーゼを余所に、フェンリッヒは用意出来た服を目の前へ差し出す。
だが、それを受け取る手は出てこない。
「……なら、誰かで試してみるか」
「は!?…閣下、わたくしの話を聞いておられました?」
「聞いていた。軽々しくするものではないと理解もした。だが同時にどうしても気になるのだ。お前が嫌なら仕方あるまい」
あまりにも堂々と言うその態度に、フェンリッヒはまた頭を抱える。
行為自体に意味があるというより、気持ちに意味があるという意味は理解してくれていないらしい。
(…オレも閣下に充てられたか…?悪魔らしくもない)
そこまで思ったところで、以前とは考え方が変わったか、とフェンリッヒは頭を抱えたまま考える。
そうなってしまう程に、ヴァルバトーゼとは純粋すぎる悪魔だったのだ。
考え込むフェンリッヒを後目に、ヴァルバトーゼが行こうとする。
「お待ちください!わかりました、わたくしがお相手致しますから!」
「ほう、そうか!」
あまりの事態に思わず口走った言葉に、ヴァルバトーゼは満足気に返した。
そこまでが策だったのか、とフェンリッヒは重いため息を吐く。
勇ましく仁王立ちをするその姿は暴君そのものだが、知ろうとしている行為にその影は無い。
「…して、俺は何をすればいいのだ?」
「……とりあえず、目を閉じてくださいますか」
「うむ、わかった」
閉じられた目は、睫毛が意外と長い。
綺麗な顔立ちをした無防備な暴君に、フェンリッヒの動きが思わず止まる。
その美しさは、顔が近いことによってより顕著に感じられた。
「…フェンリッヒ?どうした?」
「っ、いえ、何も」
声をかけられて我に返り、フェンリッヒは小さく咳払いを挟んだ。
その白い頬に片手を添えると、暴君の肩がピクリと揺れる。
ゆっくりと縮まっていく距離に、ふたりとも言葉を発することは無い。
しばらくして、静かな空間にただ、ちゅ、と音が響いた。
小さなリップ音の後、お互いの距離が離れていく。
ゆっくり開けられた、瞼の下から出てきた真紅に囚われる。
「……何か、わかるものはありましたか」
長い沈黙が流れ、ようやく口を開いたのはフェンリッヒの方だった。
「…ふむ。これで凄まじい力を得られる仕組みはよく分からぬ。……だが」
「何かありました?」
「……熱が離れてゆくというのは、案外寂しいものだな、と」
「──っ!」
自分の唇に手を当てながら、独り言のように言う暴君に、フェンリッヒの顔が赤くなった。
ただ、興味があると言うから、下手に他へ言う前にと請け負っただけなのに、妙な気恥ずかしさが生まれる。
「な、何を妙な言い回しをされるんですか…」
「妙だったか?それはすまんな。確かにそう思ったから言っただけなのだが」
「も、もうわかりました」
「…?フェンリッヒ、お前顔が赤いぞ。大丈夫か?」
「大丈夫ですから!」
自分だけが意識している空間に耐えられなかったフェンリッヒが目を逸らして距離を取る。
「…そうか、まだそこまでの力がないということか」
「はい?」
「よし。フェンリッヒ、物は試しだ。明日からこれを毎日してみよう」
「は!?」
「あの男女程の絆がまだ俺たちにはないということだろう?」
「あのですね、閣下…」
今日一日で何回頭を悩ませれば気が済むんだ、とフェンリッヒが心の中で悪態をつく。
「これが会得出来れば、更なる力を手に入れることが出来るぞ!」
「……ダメだな、これは」
こう言い出してはいつも話を聞かない。
すぐに飽きるだろうと踏んで、フェンリッヒは「かしこまりました」と返した。
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もぞ、と動いて目が開き、意識が浮上する。
そこは暗い場所。
(…随分久しい夢を見たな)
ベッド代わりに寝ている棺桶の中で目覚めたのはヴァルバトーゼだった。
目覚める時間になると、蓋が勝手に開く。
ギギ、と音が鳴って徐々に光が差してきた。
「おはようございます、閣下」
朝日に照らされた銀髪に、真鍮の瞳。
柔らかな笑みを浮かべた男が、そこにいた。
「うむ。おはよう、フェンリッヒ」
お互いの顔が近付き、小さなリップ音がした。
離れるとお互い目を見たまま微笑む。
この習慣は、現在になっても続いていたのだ。
「フフ。フェンリッヒよ、すぐには飽きなかったな」
「……?」
「なに、懐かしい夢を見ただけだ」
「夢、ですか?」
「うむ。お前とこの習慣を始めたきっかけの話をな」
「ああ…飽きなかったって、そのことですか。…そうですね。飽きられなかったですね」
ふう、と少し困ったような笑顔を浮かべて言うシモベに、主は得意気に笑う。
「悪魔に愛など必要ないが─そんなもの関係なく、俺はお前を愛しく思っているぞ。これは、あの男女と同じ“絆”を会得出来たのだろうか」
「さあ?ですが─わたくしも変わらず、貴方をお慕いしております。この気持ち同士がそういうものなら…会得されているのでは?」
「そうだな。だが、会得出来たとてそれは通過点に過ぎぬ。まだまだ付き合ってもらうぞ?」
「ええ、貴方様となら地の底までも。なんなりとどうぞ」
もうすでに地の底だ、という言葉は再び重ねられた唇によって消える。
舌を入れようとした所でグッと押した。
「そ、それ以上はまただ」
「おや、手厳しい。…でも、“待て”をなさるのなら、後でご褒美を下さるのですね?」
「う…ま、また夜に、な」
「ふふ、そうですか」
ニコリと微笑み、差し出された手を取る。
寝床から出てマントを羽織り、部屋を出ると、そこはいつもの光景。
「ヴァルバトーゼ閣下、フェンリッヒ様!おはようございますッス!」
「うむ。プリニー共よ、今宵もきっちりと働くが良いッ!」
「アイアイサーッス!」
廊下を歩くと挨拶するプリニーひとりひとりにヴァルバトーゼは挨拶を返す。
フェンリッヒは「ああ」と返事しかしないが、それは合間にヴァルバトーゼへ今日のスケジュールについて説明しているからだ。
彼らにとっての日常である。
プリニーたちもいなくなり、ふたりきりになった時、手袋越しの手に暖かい手が触れる。
「…お前は、触れ合いを好むようになったな」
「ヴァル様との、ですがね」
「昔のお前は口付けひとつで真っ赤になるほど初心だったと言うのに…」
「記憶にございませんね」
「ふふ、俺の記憶にはバッチリ残っているぞ」
「そうですか。では─」
急に屈み、ヴァルバトーゼの耳元へと口が来る。
「そんな記憶が吹っ飛ぶ程、強烈な記憶を差し上げなければいけませんね?」
「〜〜〜ッ!!」
真っ赤な顔で耳を抑えながら睨みあげれば、余裕のある笑みで返される。
「なので、お覚悟を」
「……ふん。今日も仕事が山積みなのだ。それを終えてもそのような軽口が言えるのならな。
ゆくぞ、フェンリッヒ」
「かしこまりました、我が主」
絡められた指がスルリと離れる。
お互いにすら分からぬ激しい想いを秘めて、今日もふたりは執務へと赴く。
─ふたりだけの、約束を胸に。