扉の開く音が来客を告げる。
振り返る必要はない。この部屋にそうやって入ってこられる人物など限られている。
「ハインライン大尉」
「お疲れ様です、艦長。何かトラブルでもありましたか」
予想通りの声に手を止めぬまま答えれば溜め息が聞こえてくる。
「トラブルと言うか苦情だな。”ハインライン大尉が物凄い勢いで作業を進めていて他が休むに休めない”と」
連続した足音がすぐ後ろで止まった。
「別に他の者に同程度の作業は要求していません。休みたいのなら休めばいい」
「しかしなぁ」
椅子の背に手を掛けてディスプレイを覗き込んでくる。
「あぁ、やっぱり。どれもこれも今すぐ、君がやらなければならないものじゃないじゃないか」
艦長の言う通り本来今頃作業している筈だったものはとっくに終わらせていて、今やっているのはまだ時期的に余裕のある細々とした確認ばかりだ。
「えぇ。ですが私がやった方がより早く、より確実に、より良い艦が仕上がります」
「それはそうだろうが」
「艦長」
手を止めて斜め後ろを振り返る。
「お気遣い感謝しますが、問題ありません。食事と睡眠の時間はきちんと確保しています」
食事は三食摂っているし、夜は決まった時間にベッドに入っている。……内容については別の話だが。
じっとこちらの顔を確認したあと、先程よりも深い溜め息をついて肩を叩く。
「くれぐれも無茶はしないように」
「心得ています」
これ以上は無駄だと悟ったのだろう。それだけ言うとあっさり部屋を出て行った。
閉まった扉を確認して、すぐにディスプレイに向き直る。
実のところ、本当は何を心配されているのかは分かっている。傍から見ればこんなことをしている場合ではないことも。
だが、彼が救出されて十日。体調は順調に回復していると聞いている。
そうであれば自分にできることはない。彼の知り合いではない自分には。だからできることをしているだけである。
再び集中しようとしたところでこつん、と軽い何かが足に当たる感触がした。下を見れば濃紺の球体が転がっている。
拾い上げて、机の端に置く。それはゆらゆらと揺れながら二つの小さな楕円をゆっくりと点滅させていた。まるでこちらを気遣うかのように。
これはいわゆるハロである。ただし先行の物より随分小さい。事前に確認した際に”あの大きさだと連れ歩くにはちょっと…”と、彼が難色を示したためだ。
そう、これは私が作って彼に贈ったものである。それが今ここにあるのは四日前に彼の部屋から回収してきたからだ。彼の状態を考えれば恐らくこれのことも覚えていないだろう。自分の部屋に戻った時に見覚えのない物体が転がっていれば困惑するに違いない、と、他のいくつかと共に持って帰ってきたのだ。
軽くつつけば耳のようなパーツを数度開閉させる。……音声は切ってある。ONにすることは二度とないかもしれない。
彼は間違いなく以前の生活に戻れる。薬物の後遺症はなく、外傷も完治するものであり、記憶も……たった一人に関するエピソード記憶以外、全く問題ないからだ。
だからこそ。
ハロのことを意識外に追い出して作業に戻る。
彼は必ずこの艦の操舵手になる。
あの艦長の下で、彼の代わりを務められる者などいない。
たった一人を覚えられないだけで外せるわけがない。
しかもその一人は同艦のクルーではないのだから職務遂行には全く支障がない。
そう、何も問題はないのだ。
たとえ記憶が戻らなくとも。
永遠に初対面であるとしても。
この艦は君を守り、君と共にどこまでも飛んで行く。
だからこそ、より良い艦を。
自分の全てを捧げて。
唯一無二の艦を君に贈るために。
ザフトの技術開発局とオーブのモルゲンレーテ社が手を組んで建造した新しい戦艦が今日竣工、初出港を迎える。
共にコンパス戦力の中核を成すとは言え戦艦に関しては建造もクルーも分離、独立していた両陣営が初めて共同で作り上げた艦だ。世界へのアピールも兼ねて大々的に式典が行われることになった。その式典に設計者の一人として是非、と参加の打診を受けたが断った。
この艦の設計に僕が関わったことを彼に知られるわけにはいかない。もしも知られた場合、艦についての記憶に影響が出ないとも限らないからだ。このような重要な場面に顔を出して彼に問題が起きてはいけない。
だから遠く、一般参加者の最後列から艦を見上げる。
美しい白が青空に映える。塗装には関わっていないがあの大天使を踏襲したのは明白だ。やはりあの色合いこそ彼らの艦に相応しい。
祝砲が上がり、その大きな船体がゆったりと、滑るように動き出す。操舵士の腕前がよく分かる。静かに速度を上げ、離水。エンジンの出力も安定しているようだ。
ばらばらと散り始める群衆の中、ただただ艦を見つめる。水平線の先へとその姿が消えるまで。
頬を滑り落ちるものは、長く携わった艦が無事に出港したことへの安堵に違いない。
ミレニアム内、食堂。昼食を口に運びながら、トレーを片付け出口に向かう金色の髪を目で追う。
「シン」
向かいに座ったルナに、注意するように名前を呼ばれた。
「ジロジロ見すぎ。どうしたの?」
「いや、その。先月の式典、ハインライン大尉は出席しなかったんだよなーって」
「そうね」
俺達も参加したコンパスの新しい艦の初出港の式典に、設計者の一人であるハインライン大尉は参加しなかった。普通なら、真っ先に招待される人物なのに。
理由は知っている。アークエンジェルのお世話になっていた俺達はあの人とも知り合いだから教えてもらった。特に俺はうっかり話を出したりしないようルナにも釘を刺されている。
「まぁ、仕方ないわよね。それで?」
「事情は分かるけどさ、前列じゃなくて後ろの方で、とか何か方法があったんじゃないかってさ。遠くから見るだけでもダメなのかな……」
「ハインライン大尉が後列に並んでたら不自然でしょ?……どうしようもなかったのよ」
ルナが視線を落とす。俺も手を下ろした。
お互い生きていて、同じ組織に所属して、居場所も分かっていて、会おうと思えば会いに行けるのに。それでも会わないってどんな気持ちなんだろうかと想像する。
「……大尉はすごいなって思って」
俺にはとてもできそうにない。
それは大尉が俺よりずっと大人だからなのか。それとも大尉個人の性質によるものなのか。
「その程度のものだったってことじゃないの?」
「アグネス!」
考え込んでいたところを止めたのはルナの隣に座ったアグネスの声。ルナが、さっき俺にしたのよりも強く制する。
「だって相手はナチュラルの操舵士でしょ?いくら腕が良くても限度があるでしょうし、そもそも活躍の機会なんてそうないじゃない。悪い噂は聞かないけどパッとしないし顔も平凡。あのハインライン家の神様が気に入るなんておかしいと思わない?」
「アグネスは知らないから……」
ルナと二人でため息をつく。
あの人の操縦する艦と戦ったこともなければファウンデーションとの戦いでも乗っていなかったアグネスがピンとこないのは仕方ないとは思う。あの人のすごさは実際に体験しないと分からない。
「結局珍しいおもちゃに興味があっただけで愛とか恋とかそういうのじゃなかったんでしょ」
どう説明するべきか迷っていたら、二人の後ろから声が降ってきた。
「ギーベンラート中尉」
「はっ」
アグネスが勢いよく立ち上がって振り返る。
声の正体はトライン副長だ。ただ、抑えた話し方だし、顔もほとんど無表情なので雰囲気がいつもとまったく違う。さすがのアグネスも敬礼したまま動かない。
「発言の撤回を」
「失言でした、撤回いたします。大変申し訳……」
「謝罪は必要ない。その代わり、二度と口にしないように」
「はい」
それだけ言ってトレーを持ったまま立ち去る。
返却口に寄ってから食堂を出ていったのを確認して、アグネスが机に突っ伏した。
「なんでトライン少佐が怒るのよ!」
「まあ、これに懲りてもう他人の恋愛にあれこれ言うのやめなね」
涙声のアグネスをルナが宥めるのを聞きながら思い返す。
―さっきのアーサー、怒ってるってのとはちょっと違ったような……―
職権濫用だと言われればその通りだと思う。本人は面と向かって言われたところで気にも留めないだろう。それでも聞かせたい言葉ではないし、艦内の人間関係を良好に保つためには口にさせない方が良い。実際、彼女の言葉に身を固くしたクルーは何人も居た。彼女を含めたパイロット達は、新型艦での運用訓練を兼ねてあちらに乗っていることが多かったので分からないのも無理はないのだが。
食堂を出た後、距離を取ってハインライン大尉を追う。
―今日はこっちか……―
休憩時間のハインライン大尉の行先は二つに限定されている。自室か、その時地球が見える場所か。この方向は自室ではない。
何度か角を曲がり、ある休憩室に入ったことを確認すると扉に付いている窓から見えないギリギリまで近付いて壁を背にし後ろ手を組む。
ハインライン大尉の元には不定期に例の艦に関わるデータが送られてきている。と言っても大したデータではない。いくら同じ組織とはいえ作戦上の機密もあるし、精々無事に稼働していることが分かる程度のもの。それだって新型の艦だから、設計者の視点が欲しい、技術者としての腕を見込んで、とそれらしい理由を付けてようやく受け取らせたものだ。
あれだけ固辞していた大尉だけれど、新しいデータが届くとこうして地球を眺めながら中身を確認している。そこに誰を見ているのか、少なくともブリッジクルーはみんな分かっている。本当は、会いたいだろうに。彼は決して口にしない。素振りすら見せない。それは彼のため。
大尉に関する彼の記憶は眠るとリセットされるが、その消え方が良くなかった。存在ではなく場面を消してしまうのだ。映像の編集で例えるなら、大尉だけを塗りつぶしたり消去するのではなく、大尉が登場する場面そのものを切り取って削除してしまうやり方だ。これでは記憶の連続性に問題が出る。彼にとっては前日の自分の行動が意味不明、なんてことになりかねない。
さらに、どの程度まで消去されるのかが分からない。直接会話をしなければ平気なのか、それとも視界に入るだけでもダメなのか。周囲から名前が聞こえてきたらどうなるのか。
こちらは検証を行っていない。記憶が消えると判明した段階で、連続性に問題が出ることを懸念して離れることを考えていたからだ。会うのは医務室に居る期間、ごく短時間だけと初めから決めていたらしい。その間に改善の兆しが見られなければ二度と会わないつもりで、実際その通りにしている。
そして堪えた様子を見せないのもそう。大尉に取り入りたい者や一部の熱狂的な者が、大尉の為を名分に不用意なことをしないようわざと何事も無いように振舞っているのだ。外部の者や悪意のある者よりも、内部の好意的な者の方が厄介な時もあるから。そういう意味では彼女の発言は思惑通りなのだけれど。
そういった理由で大尉は全てを押し殺している。
全ては彼が選んだ道を妨げないため。
どんなに辛くとも、悲しくとも、会いたくて、触れたくて堪らなくとも。相手のために全てに耐える。
それを愛と呼ばずに何と呼ぶのか。
そんな詮無いことを考えていると通路の向こうから声が聞こえてきた。角を曲がって見えてきた服装は整備班のものだ。話しながら歩いてきた二人の視線がこちらを向き、口が“あ”の形になった。敬礼をして慌てて元来た方へと引き返す。
―あんなに慌てなくてもいいのに―
苦笑いで、去っていく背中を見送る。
ハインライン大尉は恐らく気付いているだろうし、余計なお世話だと思っているかもしれない。それでも何も言われないのを良いことに、あの式典の日以降僕もしくはコノエ艦長の休憩時間を大尉と合わせるようにしている。大尉が自室に戻るならそれでいい。そうでない時にはこうして通路に立ってガードマンもどきをしているのだ。
せめて一時だけでも人目を気にすることなく。そう願って。
いつか報われる日が来ますようにと祈りながら。
あの式典から半年を前にしてモルゲンレーテから依頼が来た。何でも運用開始半年に合わせて一度大掛かりな点検を行いたいということだ。
「行ってきたらいいじゃないか」
話を持ってきたコノエ艦長は観光でも勧めるような軽さでそう言った。
「こちらを手薄にする訳には行きませんので。それに私が参加しところで大した違いはありません」
あちらがドックに入るのであればその間の監視活動はこちらに一任される。ブリッジクルーである自分が艦を離れる訳にはいかないと断ろうとしたのだが。
「ミレニアムが前線に出るような事態の情報は無いよ。それから、実際に運用してからしか分からない不具合、想定外の効果や負荷もあるから設計の意図を踏まえた上でしっかり点検、整備をしたいと書いてあるだろう。設計中にやり取りをしていたにしても君の意図するところ全てを察しろというのは酷ではないかな?」
「…………」
そう言われてしまうと否定できない。“何を考えているのか分からない”と言われた経験は一度や二度ではないのだ。
「あの艦はコンパスにとって特別な艦だ。完成後も両陣営共同で整備、運用していればそれだけで抑止力になり得る」
単なる贈り物では渡す側の意思の継続が示しにくい。完全には手放さず時折手を入れることで戦艦のデータを開示できるほどにプラントとオーブの関係は良好だと見せつけたい、ということだろう。理屈は分かるが。
まだ渋っていると艦長がにっこりと笑った。口の端が引き攣る。この笑い方には良い記憶が無い。
「それに君、もう随分休暇を申請してないだろう。というか、この数年で半年前の一度きりだ」
「……」
コンパス設立からファウンデーション事変の前後までは忙しくてそんな暇が無かった。あの事件後は休みを取る意味が無かった。この数年は休まされるから仕方なく休むという感覚だったから確かに自分から取得してはいない。
「いくら君が優秀で、かつ忙しい部署だからと言って全く休みを取らないのではね。部下に示しがつかないし、情勢が落ち着いている今そんな状況では組織として外聞が悪い。この辺りで一度しっかり休んで貰わないと困るんだよね」
「…………次回のプラント寄港時では」
「業務的には休暇を取る余裕があるのにモルゲンレーテからの依頼は断るのかい?ハインライン大尉はオーブがお嫌いかな?」
本気で言っているのではない。“反対派にそうやって揚げ足を取られたらどうする?”と聞かれているのだ。
「……」
自分の立場が憎らしい。それなりに地位と知名度があるから有り得ないことだと切り捨てられない。
「日数には余裕を持たせておくから、羽を伸ばしておいで」
もう反論はないと判断したのだろう。と言うより艦長が心を決めていた以上自分に勝ち目はない。時間が空いたところで観光などする質ではないのだが。まったくもって余計なお世話だが結局押し切られてしまった。
あれ以来半年振りに地球に降りた。
エリカ女史を中心とする面々に迎えられ、自分が設計を担当した箇所について説明と確認を行っていく。特に新しい兵装については念入りに。そうして数日を過ごしたところでラミアス大佐が訪ねてきた。
「久しぶりね、ハインライン大尉。わざわざ来てもらったのに挨拶が遅れてごめんなさい」
「いえ、こちらこそ艦長の貴女に挨拶もせず失礼致しました」
「構わないわ。大尉にはとてもお世話になってるもの」
挨拶に行かなかったのはわざとだ。彼女は彼に近過ぎる。迂闊に近づいてうっかり顔を合わせる事態は避けたい。分かっているだろうに微笑む彼女はさすがあのような指揮を執るだけある。
「お世話になりついでに少しお願いが」
「……何でしょう」
「ブリッジの点検をお願いできないかしら」
作業用のタブレットを持つ手に力が入る。
「計器類とかサポート用のプログラムとか、ブリッジにも大尉が関わっているものが多いでしょう?特にオートパイロットは実際の航行データを反映して調整してもらえるとありがたいのだけど」
確かにそれは自分の担当だ。しかもオートパイロットのプログラムはこの艦に合わせて一から組んだものである。自分が調整するのが一番早いし、万一問題が起こっても対処がしやすい。
「解りました。案内をお願いします」
「ありがとう。それじゃあ、少し大尉を借りていくわね」
ラミアス大佐に従って艦内を進む間、余計な事を考えないようブリッジ内の担当箇所を反芻する。チェックすべき項目、その手順、想定される数値とエラー、対処法。少しでも早く作業を済ませるためにあらゆる可能性を想定しておく。
しばらく歩いてようやくブリッジに着いた。
「どうぞ、中へ」
促され中へ入る。最終チェックの時以来のブリッジは、あの時とは違いほんの少し人の気配がした。私物などそうそう持ち込まないところでも実際に使っているとそれなりに変わっていくものだ。らしくもなく感傷を覚える。
「それじゃあよろしくお願いね」
「はい……え?」
返事をして、何かおかしいと振り返るとちょうど扉が閉まるところだった。
まさかの置き去り。オーブ所属の戦艦のブリッジに。ザフトからの出向者を。一人で。
天井を仰ぎ、目元を覆う。これはいつから謀られていたのだろうか。
「…………」
溜息をついて手を下ろす。こんな単純な手に引っかかった自分が情けないがすぐに出ていくわけにも行かない。何せ他の作業員がいる前で艦長からの依頼を引き受けたのだ。戻れば怪しまれる。他の箇所を点検していても怪しまれる。しばらくここに居るしかない。
ならばと開き直って足を進める。向かう先は最前……操舵席だ。
斜め後ろで足を止め見下ろす。ここに、彼が座っている。
「……長時間座っていても疲労の少ないよう、また戦闘中に滑ったり、逆に動きを阻害したりしないよう形状、材質共にこだわった」
操舵は意外と全身を使う。ただ長く座れるだけの椅子ではいけない。操舵手を支え、助けるものでなければ。
「機器は最新の物だが配置はアークエンジェルを参考にした」
戦場では一秒の遅れが命取りになり、咄嗟の動きには経験が出やすい。少しでも無駄を減らすために。
「身長、体重、腕の長さ、手の大きさ、筋力、関節の可動域、視野……あらゆるデータを参照した」
負担を減らし最大限に能力を発揮できるように。君の望みをこの艦が叶えるように。
「これは、君の席だ」
本来こんなにも個人に合わせた設計などしない。してはならない。この艦は公的な組織の共有物だ。クルーが変わっても問題なく運用されなければならない。勿論席を移動しなくとも権限は副操舵士へ移せるし、座席は取り替え可能、操舵桿は微調整ができるようにしてある。それでもこの席は間違いなく彼のためだけに作った席だ。
この操舵席の設計図を提出した時、当然修正が入るものだと考えていた。差し戻しに備えて汎用性の高い設計図もきちんと用意していた。しかし、修正依頼は来なかった。あまりにも身勝手な設計なので呆れて依頼すらしなかったのだと思った。
完成したのは提出した設計図通りの席。
「君の仲間はお人好しばかりだ」
数年前まで敵であった一員の、エゴとも言える設計を許容し、失敗が許されない式典に招き、既に手を離れた戦艦のデータを提供し、監視もなく一人ブリッジに残す。本来なら有り得ないそれらが、自分と彼との間に何とか繋がりを残そうと心を砕いているのだということくらいは人の機微に疎い自分にだって解る。
「……見てみたかったな」
この席に座っている君を。
背もたれの上部に手を滑らせた。その時。
「いつでもお見せしますよ」
聞こえるはずのない声が聞こえた。
ゆっくりと後ろを振り返ると、数メートル先に居るはずのない人物が立っている。
―……幻覚か?―
いよいよ自分はおかしくなったのか。頭の先から床の影まで確認して視線を顔に戻す。物理学的におかしな点は無い。
―記憶が戻った?―
それならさすがに連絡が来ているであろうし、二人きりのこの場で敬語など使うはずがない。
「初めまして、ハインライン大尉」
やはりそうだ。思い出したわけではない。しかし彼は私に関する記憶を保持できないはず。
―今朝目覚めてから情報を詰め込んだ?―
それにしては親しげだ。特に表情は随分と柔らかく、本当の初対面の時より余程友好的である。まるで、今この時を待ち焦がれていたとでも言うように。
「……ノイマン、大尉」
なんとか絞り出した声はみっともなく震えている。
かつて経験の無いほど混乱していた。様々な感情がないまぜになってそれ以上の言葉が出てこない。
こぼした言葉を呼び掛けと判断したのか、応えるように笑みを深めて足を踏み出す。
「お察しの通り記憶はまだ戻っていません。でも、貴方のことを覚えていられるようにはなりました」
「なぜ……」
規則的な足音が近付いてくる。
「貴方のおかげですよ」
あと半歩で肩が触れる距離で止まった。
「この席が教えてくれました」
右手が背もたれに乗せられる。自分の手をほんの少し動かすだけで触れてしまえる位置。
「ずっとお礼を言いたかったんです。この艦を、この席を作ってくれたこと」
座席を見る眼差しは慈しむようで。その柔らかな熱を持ったまま、緑の瞳がこちらを向く。
「ずっと、貴方に会いたかった」
覚えのある微笑みに釘付けになる。なのに。
「……この艦を気に入っていただけたようで何よりです」
そんな言葉しか出てこない。
じっとこちらを見つめる緑色は何かを探しているようにも見える。
「……明日、仕事が終わった後お時間頂けませんか?」
「構いませんが」
「ありがとうございます」
手が離れる。
「作業の邪魔をしてすみません」
数歩下がる。
「それじゃあ、また明日」
くるりと背を向け、そのままブリッジを出ていった。
「…………」
どれだけそうしていたのか。気付くと出入り口を見つめて立ち尽くしていた。
―……作業。そうだ。点検を、しなければ―
自分はその為にここに来たのだ。まずは記録されたデータを確認しようと一歩踏み出そうとして。
「っ」
足が動かなかった。膝が折れて床に崩れ落ちる。タブレットが手を離れて滑って行った。
「…………は」
立ち上がれない。
「はは、あははははは、ふふ、はっ」
呼吸が浅くなり、震える手で顔を覆う。
「っふ、う……っ……」
作業は何一つ進まなかった。
翌日。昨日一切進まなかったブリッジ内の点検作業を進めながら、頭の一部で状況を整理する。
―今回の依頼は彼と会わせる為に計画されていた。これは間違いない。なにせ今日は作業員達が居る―
自分の手は止めないまま簡単な確認や基本的な調整の指示を出す。
―となるとコノエ艦長もグルか……。あの押しの強さは知っていたに違いない―
作業員が持ってきた数値を確認し、修正箇所を指摘。
―ラミアス大佐が数日経ってから来たのは油断させる為。初日にいきなりブリッジに誘われていたらさすがに警戒しただろう。まず普通に作業させて、あくまで点検が目的だと思わせてから誘導した―
読み込んだ航行データに合わせてプログラムを微調整。それから各種計器のエラーチェックを行い調整が反映されているかのテスト。
―つまり全部掌の上だったというわけだ! ―
こめかみと頬がひくつく。
―いくらなんでもこんな理由で当たり散らしはしないが人目がなければ拳を叩き付けたかった―
数値は良好、エラー表示もない。
―どれだけ視野が狭まっていたんだ。いくらなんでも察しが悪すぎて自分の愚かさに目眩がする。わざわざ彼の近くに来させて何もない、などあの曲者艦長達が許すはずがなかった―
操舵席を離れ、苦戦している様子のCIC席へ移動する。
―正面から説得しても首を縦に振らないと予想してのことだろうが……ザフトはともかくオーブ軍にモルゲンレーテ、一体何人抱き込んだんだ―
初期設定に手を加えたらしい。これは自分がやった方が早いと判断し担当者に別の作業を任せる。手を入れた誰かの癖に合わせてアプローチを変更する。
―そこまでして、自分と彼を会わせようとした。何の為に。記憶障害の治療?僕の様子を見かねて?それとも―
修正内容自体はそれほど複雑ではない。一気に片付けてしまおうとタイプスピードを上げる。
〝ずっと、貴方に会いたかった〟
手元が狂った。打ち間違えた文字を消し入力し直す。
―彼が会いたいと言ったから……か?白昼夢を見たのでなければ、彼は確かにそう言っていた―
テスト。問題ない。作業を保存し席を離れる。
―……そう言えば、今日の仕事終わりに会うのだったか―
声を掛けられ作業用のタブレットを覗き込む。表示されている数値が想定範囲から少しばかり外れている。
―場所の指定はなかったから訪ねてくる気だろう。……本当に来るのだろうか―
念の為もう一度計器を繋ぎ直し数値を確認する。やはり外れている。これは手が掛かりそうだ。思考を中断し目の前の作業に集中する。
結局原因の特定と修正にこの日の作業時間を使い果たすことになった。
「お疲れ様です、ハインライン大尉」
勤務時間終了後、ブリッジを出たところで声を掛けられた。確認するまでもなく彼である。
―来るに決まっていたな―
彼が緊急事態以外を理由に約束を反故にしたことなどない。人格が変わった訳ではないのだから行動が変わらないのは当たり前だ。
「……明日にした方が良いでしょうか」
無言を疲労と捉えたらしい。彼らしい気遣いだが、この程度で疲労すると考えるとは、やはり記憶は戻っていないようだ。
「いえ、問題ありません。要件をお伺いしましょう」
「大尉にお話したいことがあります。個人的な内容なので私の部屋にいらしていただいてもよろしいですか?」
身体の後ろで手を握る。表情を伺うが構えた様子は見られない。〝自室〟という点に人目を避ける以外の意味は無いように見える。
「えぇ、構いません」
「良かった。このまま向かって構いませんか?」
「えぇ」
背を向けた彼の後ろを黙って着いていく。その背中を見詰めているうちにふと過ぎる。
―ここで僕が居なくなったら―
不自然にならない程度に深く息を吐いて考えを打ち消す。了承しておいてそれはさすがに不誠実だし、何より彼ならばすぐに気が付くだろう。無駄な抵抗である。
―……無様だな―
ここまで来てまだ及び腰な自分に辟易する。艦長達の企みは正解だったと言う他ないだろう。感謝するかどうかはこの後次第だが。
お互い無言でただ歩く。
今彼は何を考えているのだろうか。彼から声を掛けてきたのだから自分のような不安は無いだろう。昨日の言葉を信じるならもしかしたら胸躍らせているかもしれない。それとも珍しく緊張していたりするのだろうか。
そのうちに彼が立ち止まる。案内された部屋の位置は記憶と変わらなかった。
「どうぞ中へ」
促され、続いて中に入る。
この手で痕跡を消したあの日以来の彼の部屋。少しばかり物が増えた気がする。特に机の上にはノートが何冊も積まれている。
―あれは……―
その机の端に見慣れないものがある。手の平に収まる程度の、黄色い小さな月のオブジェだ。
―珍しい……いや、違うか―
あれからそれなりに時間が経った。自分の知らない趣味嗜好を持っていたとて不思議ではない。
「ハインライン大尉」
逸れた意識を呼び戻される。
そちらを向けば力強い視線とぶつかった。目を背けてはいけない。
「まずは機会をくださってありがとうございます」
「いいえ。礼を言われる程のことではありません」
「その上で厚かましいお願いをします」
〝お願い〟の言葉に口を引き結ぶ。覚悟を、決めなければ。
「もう一度、私との関係を始めてくれませんか」
予想できたことだ。日常で接点の無い者同士をわざわざ引き合わせたのだから挨拶をして終わりなどということはありえない。
「私と居ることは貴方にとって快いことではないでしょう。それでも私は貴方のことを知りたい。貴方と時を共にし、同じものを見て、語り合いたい」
彼の表情は真剣そのものだ。またこちらを気遣いながらも譲る気配は見られない。そしてゆっくりと深く頭を下げる。
「どうか、お願いします」
人が良さそうに見えて意外と頑固。外堀から埋めるようなことはせず正面からぶつかってくる。変わらない。
「……顔を上げてください」
二度と会わないと決めていた。一度でも会ってしまえば再度の離別には耐えられないと解っていたから。
「それは私が言うべきことです」
だから、手を伸ばすべきは自分だ。
「もう一度、よろしくお願いします。ノイマン大尉」
右手を差し出す。
もう一度始めよう。辿る道が、行き着く先が同じではないとしても。
「ありがとうございます」
上がった顔が綻んで、しっかりと手を握られる。その懐かしい温度と感触に僅かに気が緩んだ。
「……随分と嬉しそうですね」
一拍置いて、見開かれる瞳に失敗を悟る。以前であればなんてことのない言葉であるが今の彼には皮肉に聞こえたかもしれない。
言葉に詰まっているうちに表情が変化する。予想に反して先程以上に柔らかな笑顔に。
「嬉しいですよ。昨日も言いましたが、ずっとお会いしたかったので」
「……理由を伺っても?」
「勿論。むしろ聞いていただけるとありがたいです。記憶障害の改善にも関係があるので」
備え付けの椅子を勧められ腰を下ろす。彼は用意していたのだろう簡易の椅子を持ち出して、顔が見えるよう少し角度をつけて隣に座った。
「確か、〝席が教えてくれた〟と言っていましたね」
「そうです。初めて座った時に直感しました。これは私の席だと」
彼が初めてあの席に座ったのは試運転の時だ。初出港より前のことになる。
「座る度に思いました。この席を作った人は私のことをよく知っているはずだ、私のことをとても……大切に思ってくれているはずだ、と」
「なぜそんな風に思ったのですか?」
「違和感が全く無かったからです。新しい艦の何の調整もしていない席なのに、あつらえたかのようにしっくり来て動作にも一切無駄が出ない。戦艦の座席でそんなことは普通有り得ません」
確かにそうだろう。新人でもあるまいし、彼が気付いても不自然はない。しかし一つ引っかかることがある。
「……気味が悪いとは思いませんでしたか?」
「え?」
「見も知らぬ誰かが自分についてあまりにも詳しいことは嫌悪や恐怖の対象になり得ると思いますが」
自分でやっておいて言うことではないが、彼の状況を考えれば不審感を抱いても不思議ではない。
首を傾げた彼は数度瞬きをしたあと口元に手を当てた。
「考えたこともありませんでした」
心底想定外という顔をしている。
「むしろ座ると安心します。無機質なただの座席なのに、なんだか温かいような気がして」
また柔らかく微笑む。
「ですから、どんな人なんだろうって気になっていました。障害が改善してからは貴方の経歴や実績を調べたり、周りに話を聞いたりして。ただ、調べたのはあくまで〝ハインライン大尉〟のことだったので少し、その、イメージが」
言い淀んで目を逸らす。おおかた部下を罵倒した話でも聞いたのだろう。
「でも実際に会って納得しました。あの席は間違いなく貴方が作ったものだ」
昨日の自分は一体どんな顔をしていたのだろうか。醜態を晒していないことだけは信じたい。
「ですので今こうして話す機会を貰えてすごく嬉しいです」
「……そうですか」
上機嫌な彼に返せる言葉がない。
というのも元々言い寄ったのは自分の方であったし彼の性分として解りやすく好意を示すことが得意ではなかったようで、こんなにあからさまに表現されたことがないので戸惑っているのだ。正直な話、距離を測り兼ねている。さすがに以前のようには接せないが、かと言ってあまり他人行儀でも気を使わせるかもしれない。
語気を抑えつつ、無愛想にならないよう言葉を選ぶ。
「理由は解りました。ですが改善までは時間を要したようですね」
「その通りです」
初めて座った時に改善していたのであればいくらなんでも期間が開き過ぎている。そこを指摘すればすんなりと頷いた。
「改善のきっかけは何だったのですか?」
「それもあの席です」
何かとの接触が他に影響を及ぼす場合、変化が起こる可能性が最も高いのは初回である。それは未知と既知の差が理由だ。学習する生物にとって二回目以降はどうしても衝撃の度合いが低下する。繰り返すことで少しずつ変化が起こることもあるが彼の場合有効性は低かった。何があったのだろうか。
「実は初めて座った時に少し驚いてしまって。その様子を見ていたラミアス艦長から後で貴方のことと記憶障害のことを教わりました。……それからどうにかできないかと色々試したんですがなかなか上手くいかなくて」
初めての時からということは随分長い間試行錯誤していたのではないか。
―まさか式典参加の打診はその一環で?―
会うことで刺激を与えようとしていたのでは。自分が頑なだったせいで進展が遅れたのか。もしも事情を説明されていれば……いや、例え聞いていたとしても断っただろう。二週間毎日顔を合わせても変化はなかった、同じ方法は無意味だ、と。
「手詰まりで……正直な話、少し、寝不足気味で。補給中にうっかり居眠りしてしまったんですよ」
「居眠り……」
「あ、勿論休憩中でしたよ。部屋に戻って休めって言われていたのを、座ったままぼーっとしてる内に、つい」
〝少し〟と言ったが、責任感の強い彼が休憩中とはいえ平時に操舵席で居眠りするとは、実際はかなり思い詰めていたのではないだろうか。
「ほんの五分十分のことだったんですけどね。目が覚めて、記憶が続いてることに気が付いて。ですがその時は時間が短かったからだろうと思って気にしてなかったんです。さすがにまずいと思ってすぐに部屋に戻って休みました。……でも、次に目が覚めても忘れていなかった」
噛み締めるような言い方にその時の彼の思いが透けて見えた。
その様と明かされた事情に胸を衝かれる。
―そんなことが有り得るのか―
座席で僅かな時間眠っただけ。たったそれだけで年単位で進展の無かった症状が改善した。
「嘘も誇張もありませんよ。間違いなく貴方のおかげです」
「……私は設計しただけで製作には携わっていません。加えて本来あんな設計は認められませんから許可を出した者、正確に作り上げた者のおかげでしょう」
あまりに信じられなくて否定する言葉が転がり落ちる。
「貴方が真摯だったから、周りも力を貸したいと思ったのではありませんか?」
「まさか。あれは我欲の塊です。真摯さなど欠片も無い」
「では貴方がひたむきだったからでは」
どうして。
「たとえ個人的な欲が理由であっても貴方は一途に、かつ正当な手順を踏んであの席を設計したんでしょう?そういうズルはしない方だと思うのですが」
「……ミレニアムの件を聞いていませんか?」
「聞きました。轟天と結晶装甲のことですよね。でもあれ、聞かれなかったから言わなかっただけで騙したわけではないのでは」
どうして。
「途中で尋ねられていた場合、嘘をつかずに堂々と説明したのではありませんか?」
彼にとっては昨日が初対面なのに。周りから話を聞いていたにしてもどうしてそんなに肯定的なのか。どうしてそんなに確信した顔で微笑みかけるのか。
何かが溢れ出しそうになって眉間に力が入る。
不意に手が伸びてきた。指先が優しく目尻の下に触れる。
「!」
「あ。すみません、急に」
自分でもなぜこんなことをしたのか解っていないようで引っ込めた手をじっと見つめている。
その理由を、僕は知っている。
昔から感情を抑える時に眉間に皺が寄る癖があった。ただそれがどんな感情からなのかはほとんど誰にも分からなかった。自分にも同じ顔に見えた。唯一の例外がコノエ艦長で、彼は負の感情か否かを見極めることができた。それが限界だと思っていたところ、君は三つに見分けてみせた。そして思い通りにいかずに苛立っている時には眉間、嬉しいが素直に表せない時には頬、耐えている時には目尻の下に触れた。〝あんた結構顔に出るし、分かりやすいぞ?〟そう言って。
―あぁ、そうか―
記憶が消えて、部屋に残った痕跡も徹底的に消して、全て失ったつもりでいたが違ったのだ。彼はただ思い出せないだけ。身に付いた勘や癖も失われていない。全てそこにある。
何かが解けた気がした。
「ノイマン大尉」
今度はこちらから呼びかける。
「はい」
「今日貴方と話ができて良かった」
直接顔を合わせて話したからこそ解った。もう一度始めることは、決して〝初めから〟ということではないのだ。
「ありがとうございます」
いつだって君は僕が気付かないもの、見落としていたものを教えてくれる。僕の想定を軽々と超え、僕がただの人間であると示してくれる。
もう大丈夫だ。
「こちらこそ」
君が隣で笑っているのだから。
二人並んで話をした。
新しい艦のこと、共通の知り合いのこと、互いの近況など、とにかく色々な話を。時折行きつ戻りつしながら、けれどある一点には触れぬまま。
しかしこれ以上話を続けるにはそこに触れなければならない、というところまで来た。さすがに一日目でそこまで踏み込んでいいものか迷っていると、彼の拳が緩く握られるのが見えた。
「ところで確認なんですけど」
「はい」
踏み込むことに決めたようだ。
「俺と貴方は恋人、だったんですよね?」
「えぇ、そうです」
当然知っているだろうな。そして気になるところだろう。どの程度まで明かすべきかと考えを巡らせる。が。
「この部屋にそういう感じの形跡が全く無いのは……」
「……」
いきなりそっちに向かうとは思っていなかった。
パスを教えられているとはいえ勝手に入って勝手に持ち出したのは確かなので若干の後ろめたさがある。それが伝わったのだろう。形ばかりの疑問文が続く。
「入ったんですね?」
「……その通りです」
記憶を取り戻そうとして苦しんだだろうことを思えば彼の知りたいという気持ちを無下にすることはできず、肯定する。
「捨てたんですか?」
「捨てては、いません。ですが持ち出したのは筆記具やコップ、予備の着替えなど支給品ばかりですから貴方の手元に戻すほどでは……」
そこでさっと頬に赤みが差した。今の発言のどこに赤面する要素があったか。
「着替え……」
呟いた言葉で何を想像したのか解った。恐らく話を振ってはみたものの、あくまで知識として知っているだけで実感は伴っていなかったのだろう。迂闊だった。
ひとしきり視線をさまよわせてからもう一度こちらを見る。
「その、じゃあ、端末にも一切無いのは?」
「………………」
今度はこちらが視線を外す。彼は一切引く気がないようで上体を前傾させて覗き込んできた。
「いじったんですね?」
「……はい」
状況から考えれば答えは一つしかない。嘘をついても意味が無いので正直に白状する。
「アドレスと通話履歴は消去しました。メディア関係は私と日常的に会話するようになって以降の日付の物が無かったので何もしていません」
「メールやメッセージは?」
「……非表示にしました」
「そんな機能あるんですか?」
「ありません」
言い切ると片眉が寄って半眼になった。あぁ、この表情は知っている。呆れている顔だ。
―記憶が戻っていたなら察して拳の一発あたりで済まされただろうに半端な状態のせいで詳しく説明する羽目になったのは因果応報と言うやつか―
内心頭を抱えていると彼が何か思いついた様子で端末を取り出した。
「非表示ってことは消去してはいないんですよね?再表示できますか?」
「……可能です」
「今できます?」
追い打ちをかけられて言葉に詰まる。
お互いあからさまに表現する質ではないにしても相応のやり取りはしていた。それを“未知のこと”として本人に客観的な視点で見られるというのは何とも複雑な心境だ。
ため息を飲み込んで手を出す。
「ロックを解除して、こちらに」
仕事上がりでそのまま来たので残念ながらタブレットとケーブルを持っている。差し出された端末を受け取って繋ぎ、本体とアプリケーションの設定をいくつか変更すると問題なくデータが再表示された。削除、あるいは破損による復元とは違い、あくまで見えなくしただけなので時間も掛からない。
「どうぞ」
ケーブルを抜いた端末を戻すとまじまじと画面を確認し、薄く微笑んでから端末をしまった。
「見ないんですか?」
「あとで見ます。今は、貴方が居るので」
嬉しそうに言われてはどう反応したらいいのか解らない。
―新手の拷問か……? ―
恋人だった時より好意を感じるのに当人の実感は薄いのだから手を伸ばせば引かれるかもしれない。勘弁して欲しい。
「ところでどうやってロックの解除を?」
しかも容赦がない。飴と鞭か。今度こそ指を額に当てる。
これが一番の問題点だ。扉と同じようにパスを知っていただけなら良かったのだが。
「……貴方の端末には私の指紋が登録されていました」
それなりの年齢の軍人同士。色々と話し合い覚悟を決めてから関係を結んだが目に見える形にするには日が浅く、有り体に言えば照れくさかった。それでも何か、特別であると示したくて。そして万が一の時に――可能性は低いだろうが――端末が残ったなら、と。
正しく意図が伝わったようで、一度瞬きをしてからしまったばかりの端末に目を向けた。
「私の端末にも貴方の指紋が登録されていますよ」
ぱっと上がった顔がさっきまでと少し違う。不安や焦りではない。何だろうか。緊張が一番近い気がする。
「……試してみてもいいですか?」
語尾の違いに気付いたのだろう。しかしこれは本当の疑問文だ。きっと断れば無理強いはしない。
「中身は見ませんから」
むしろ中身だけ見られた方がマシだ。だが、表情が気になる。自分の恥と彼の心情。天秤に掛けるまでもない。
「どうぞ」
ポケットから端末を取り出し、彼の手に預ける。
「登録されているのは薬指です。……左手の」
緑色の瞳が零れそうなほど見開かれる。
「万が一のためのものですから日常生活で不意に触れないよう、また触れていた時に遠目でも違和感を覚えるよう決めました」
この端末の指紋認証は画面に触れるタイプなので、薬指であればうっかり解除することはまずない。これは嘘ではないが理由の全てでもない。だから不要になっても自分の端末からは消せなかったのだ。無様な未練と執着の証。しかし、それが彼にとって益となるならば。
彼の喉仏が上下する。ゆっくりと視線が手元に落ちて、まずは画面が明るくなる。静かに、まるで壊れ物に触れるように薬指が触れる。
「開いた……」
操作はしない。ただ画面を見つめている。薄く開いていた唇が結ばれて、端末を持つ手に力が入った。一つ、深く息を吐いてこちらへ戻す。
「ありがとうございました」
何を考えていたのかはおそらく尋ねても答えないだろう。
「いえ」
だから聞かない。
端末をしまって向き直る。
「私からも一ついいでしょうか」
できない話はさっさと流してしまえばいい。
「はい」
「机の上の、月のオブジェなのですが」
部屋に入った時から気になっていたあのオブジェに目を向ける。
「貴方がああいった物を飾るのは珍しいのではと、思っ……」
視線を戻して、言葉を忘れた。真っ赤だった。見たこともないほどに。
「あ、あれは」
そんな反応をされるとは思っていなかった。ほんの世間話程度のつもりだったのだが。
「答えにくいのであれば無理強いはしません」
「いえ、その……お恥ずかしいんですが、貴方みたいだ、と思いまして……」
「私?」
もう一度しっかりとオブジェを見る。地上から見る、空に上がったばかりの満月のような黄色く丸い月。
「髪色ですか」
共通点といえば色だろうか。まさか、遠くから眺める分にはいいが近付いてみると……ということではないと信じたい。
「それもありますけど、月は地球の衛星ですから」
頬に赤みを残したまま小さな月を見つめる。
「昼間だったり曇っていたり、もしくは新月であって地上からは見えなくても……いつでも地球の傍にあるでしょう」
衛星なのだから当然の話である。しかし彼はそれを“貴方みたいだ”と言った。
「……艦長達が貴方と会う機会を作ると言ってくださってはいたんですが、少し期間があったので、つい」
“見えなくともある”とはつまり“会えなくともいる”という意味か。
「障害が改善したのはいつですか?」
「六週間前です」
「あれを購入したのは?」
「一ヶ月前です。……すみません、片付けておくべきでした」
「不快ではないので構いませんが」
この数分の会話を振り返る。
恋人であると確かめて、まず気にしたのが痕跡を消したのかどうか。次にその方法。加えて指紋の話をした時の表情を考えるに、おそらく証拠を求めていたのだ。“自分の恋人であるアルバート・ハインライン”が確かに実在するという証拠を。
自分のような恋人ができることは想像もしていなかったと聞いた覚えがある。ならば今の彼は突然想像もしていない状況に陥った状態だ。実在を疑うのも無理はない。いくら周囲が話しても、本人に覚えがなくそれらしい物もない以上、完全に疑念を晴らすことはできないだろう。
あの月は“いる”と信じるためのよすがだったのだ。
「……本当に私に会いたかったのですね」
「そう言ってるじゃないですか……」
昨日から言われていたがようやく腑に落ちた。思わず呟けば恨めしげに睨まれる。今までで一番らしい表情ではあるが、まだ頬が赤いので威力は半減している。
「それにしては昨日は随分あっさり引きましたね」
「あれはコノエ大佐が」
嫌な名前が出てきた。
「“会話を始めてから数分以内に連続して二文以上喋らない場合、処理落ちしているので時間を置いた方がいい”と」
確かにあのまま会話に入っていたらろくに成立しなかったと断言できるのでありがたいといえばありがたいのだが、他に言い方はなかったのか。
「他には何か言われましたか?」
妙なことを吹き込まれては居ないかと確認する。
「“不機嫌そうに見えても嫌がっているわけではないから多少強引に行って構わない”とも」
眉間に皺を寄せる癖のことだろう。結果的には必要ないアドバイスであったが、是が非でも事態を進展させようとしていたようだ。額を抑えて天井を仰ぐ。
「騙し討ちのような形になってすみませんでした」
「発案者はコノエ艦長でしょう。貴方が謝る必要はありません」
「ですが、今回貴方が呼ばれたのは私のせいですし」
「誰かに怒っているのではなく自分に呆れているだけですよ」
今こうして彼と向き合ってみて、自覚していた以上に思い詰めていたのだと理解した。周囲はさぞ気を揉んだことだろう。中でも付き合いの長いコノエ艦長には特に心配をかけたようだ。
―自分なら大丈夫だと思っていた―
二度と会わないという選択は一生貫き通すつもりだったし可能だと思っていたが、実際は自己を客観視できなくなるほどの精神的ダメージを負っていた。でなければ艦長達の言動を怪しみもしないなどありえない。あのままではいつか、そう遠くないうちに破綻していただろう。
本当に、彼に関することだけは想定通りに行かないものだ。
「あの」
思考に沈んでいると遠慮がちに声を掛けられた。
「ハインライン大尉は明日休養日ですよね?」
「そうですが」
オーバーホールに近い点検作業なので日数がかかるため、当然休みもある。肯定すれば自信なさげにこちらを見上げてくる。
「無理に、とは言いませんが……」
―なぜこうなった……?―
オロファトの繁華街を二人で歩いている。あの後“一緒に出かけませんか?”と言われてなんと答えたのか、正直覚えていない。断らなかったことは確かだが。
―あんな不安げに、上目遣いで言われて断れるものか―
記憶があったらやらないだろうが、記憶が無いのに正確に撃ち抜いてくるのはなぜなのか。恐ろしい。
隣を窺えば、制服でも普段着でもない初めて見るよそ行きの格好をした彼がいる。派手好みではないと知ってはいたが、モノトーンですっきりとまとめたスタイルがよく似合っている。普段、着崩さない彼が台襟ボタンを開けているのが新鮮だ。あまり見るのも失礼かと思うが珍しい姿につい目をやってしまう。
実を言うとプライベートに二人きりで出掛けるのは初めてなのだ。何せお互い多忙な立場である上に遠距離だったので。
「アルバートさん」
彼がこちらを向く。名前については念の為にファーストネームで呼び合うことにしたものだ。
「なんでしょう」
「なにか食べられない物はありますか?」
「アレルギーはありませんが、食への興味が薄いので食べたことのない物は人より多いかと」
「あー……じゃあ名物系はやめた方がいいか……」
あそこはだめだな、こっちも一応、あれは行けるか?など、だいぶ迷っているらしい呟きが聞こえる。
「そんなに変わった物が多いのですか?」
「オーブの食文化は結構独特だと思います。俺も初めの頃は驚きましたし。箸は使えますか?」
「見たことはあります」
「分かりました。やめましょう」
神妙に頷かれた。今度練習しておこう。
「よし、そこの角を右に行きます。少し歩きますけどメニューが多くて」
街中に不似合いな音が声を遮る。自動車のエンジンを吹かす音だ。
二人とも反射的に顔を向ければ不必要なスピードで交差点に突っ込んでくる車が、横から来た別の車を避けて、こっちへ。
「っ」
何かを考える余裕もなかった。夢中で彼を抱え込む。僅かな間の後、耳障りな大音が響き背後から衝撃を受けた。
周囲が騒がしい。
「――」
彼が何か叫んでいる。
「――」
聞き取れない。
―大声を出せるなら大丈夫だろう―
その先は、覚えていない。
ふわふわ
ゆらゆら
やわらかい
あたたかい
ここちよい
なつかしい
おだやかに
やすらかに
おとが きえる
ねつが きえる
どこへいった
さがさなければ
たしかに
このてに
つかんだはずの
「彼は無事だよ」
ゆっくりと目を開け、瞬きを繰り返す。
白を基調とした殺風景な天井。規則的に繰り返される電子音。吊り下げられている液体の入った透明な袋。ひどく重く感じる自分の身体。
声の主は、すぐ隣に居た。
「……なんにち、たちました?」
「四日だ。よく分かったね」
人生で最も見ている顔――コノエ艦長が覗き込んでくる。
回らない舌と掠れた声が彼の言葉を裏付ける。思ったよりも長く掛かったようだ。
「その日のうちにあなたが来られるはずがない」
緊急事態とはいえ、長の地位にある者がそうそう艦を離れられるわけがない。しかし自分の周りの諸々を考慮すれば身元引受人になれるのは彼しかいない。つまり日数が経過しているのは明白である。
「それだけ頭が回るなら大丈夫だな。安心したよ」
軽く視線を巡らせるが、部屋には二人だけのようだ。
艦長がくすりと笑う。
「気になることもあるだろうがまずは診察を受けなさい。話はその後だ」
ベッドガードに下がっていたナースコールを手に取ったのを確認して目を閉じる。
「寝るんじゃないぞ」
「わかってますよ」
存外低い声が降ってきたので大人しく目を開ける。猶予は数分だろうが面倒事の前に少しだけ考えをまとめておこうと思っただけだというのに。
「……」
看護師と話している声を横に、先程までの会話を反芻する。
〝彼は無事だ〟
完全に覚醒する寸前、艦長は確かにそう言った。
意識を失う前に彼の声を聞いた気はしたが外傷の箇所によっては発話に影響がないこともある。自分がそれなりに大怪我を負ったようなので気掛かりだったが、艦長であれば自分に気を使って隠し立てすることもない。本当に無事なのだろう。
―良かった―
安堵に深く息を吐く。
―……まずは事故の対応と付き添いに感謝を―
立場上搬送できる病院は限られる。その手配や現場での対応は彼がやってくれたのだろう。
―それから……謝罪しなければならないな―
車が正面に見えた瞬間、思わず彼を抱え込んでいた。頭が真っ白で、反射的に身体が動くなんてことは初めてだった。しかし、あれは悪手だった。
―彼も車に気付いていた。彼の身体能力を考えれば避けられたはず―
彼を庇うのではなく自分の安全確保を優先すれば、少なくともその場で意識を失うような大怪我は避けられた。
軍人である彼を庇ったことで彼の矜恃を傷つけたのではないか。しかもそのせいで被害が大きくなったのだから尚のこと。
そう思いかけて昨日……五日前の様子が頭をよぎる。
―怒っている方がマシか―
彼は自分を好意的に見て積極的に交流を図ろうとしていたが、記憶が無い分以前より気遣いがあった。今の彼なら怒りを抱くよりも責任を感じているかもしれない。
病室の扉がノックされ、思考を止めた。
診察の結果は各項目異常無し。管も最低限を残して取り外された。
医療者達が出て行って、部屋の隅で立ち会っていた艦長が戻ってくる。
「さて。どこまで解っている?」
「彼と移動中に車が、おそらくアクセルとブレーキを踏み間違えたのでしょう、明らかに異常な速度で交差点内に進入し、他の車両との衝突を避けた結果こちらへ向かってきたことまでは」
「十分だな」
今の質問は事故当時の記憶の有無を確認されたのだろう。艦長が息をついて深く頷く。
「君の推測通り、原因はアクセルとブレーキの踏み間違いだ。君達から見て左前方から来た車が信号待ちのために止まろうとして誤ってアクセルを踏み込み、予想外の急加速に気が動転して踏みかえることができずに暴走したわけだな。負傷については?」
「背後から衝撃を受けたことは覚えています。直接ぶつかられたのではないと思いますが、詳しくは」
「まぁ、そんなものだろう。暴走車は他の車を避けたのと同じく咄嗟にハンドルを切ったのでそのまま歩道に突っ込むことはなかった。だが、やはり曲がりきれずに片輪が歩道に乗り上げ標識を薙ぎ倒し、その標識が倒れた方向に君達がいた」
根元が深く地中に埋まっている標識を薙ぎ倒すとは、ほとんど減速しなかったようだ。直撃されなかったことはかなり幸運だったかもしれない。
「上部の金属板が君の身体と垂直方向に倒れてきて背中に刺さったんだ。神経や内臓は無事だったが出血量が多くてね。危ないところだったんだよ」
ナチュラルより頑丈な身体を持つコーディネーターであっても、血液量が多い訳ではない。出血の危険度は同じである。
「ご心配をおかけしました」
しかも、事故後三日も目を覚まさなかったとなれば周囲はさぞ気を揉んだことだろう。素直に頭を下げる。
「……」
しかし艦長は無言のままじっとこちらを見ている。
「艦長?」
怒っているのではない。呆れているのとも違う。感情が読み取れなくて不安が過ぎる。言葉を間違えただろうか。
「いや、何でもない。とにかく君の意識が戻って良かった」
瞬き一つで感情は隠された。追求しても答えてはくれないだろう。
「……彼は無事だとおっしゃっていましたが」
「あぁ。多少の打撲と擦過傷はあるがそれだけだ。昨日私が到着するまでは君に付いていてくれたんだがね。さすがに帰らせた」
「そうですか」
「君が診察を受けている間に連絡を入れておいたからそろそろ着くのではないかな?」
「……そうですか」
根回しがいいことだ。やはり先程考えをまとめておいて正解だった。
不意に、投げ出していた手を取られる。
「本当に、良かった」
長い付き合いの中で聞いたことがない切々とした声。先程の視線といい、何か含みを感じる。
「艦」
「来たようだね」
疑問は足音に遮られた。
「それじゃあ私は外すよ。連絡は入れたんだが代表が心配なさっていたので直接話してくる」
「……はい」
知りたければ彼と話せ、ということだろう。ならばせめて。
「アレクセイ」
背に声を掛ける。
「ありがとうございました」
様々な意味を込めて。
艦長は半分だけ振り返り目と口元を緩めた。そのまま何も言わずに出て行く。
扉の外には既に人の気配。挨拶でもしているのか、艦長の手が扉を支えたままだ。
ゆっくりと息を吸って、深く吐き出す。
「失礼します」
硬い声。ほとんど音を立てずに入ってくる。目が合って、瞳が揺れた。
「ア……ハインライン大尉」
不自然な「ア」は、ファーストネームで呼ぼうとしたためだろう。別に構わないというのに。
扉が閉まり二人きりになる。
「どうぞ座ってください」
「……はい」
横に置かれた椅子をすすめるとぎこちなく寄ってきて座った。これは思った以上に衝撃を与えてしまったらしい。先日の親しげな様子が嘘のように動作も表情も硬い。
「コノエ艦長から聞きました。艦長が到着するまで付き添っていてくださったそうですね。ありがとうございます」
「いただけ、ですけど……」
「まさか。特に事故後の対応は大変だったでしょう。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんて」
視線が落ち、膝に置かれた拳に力が入った。
「貴方は、俺を庇って怪我をしたのに」
やはり責任を感じさせてしまっている。そんなものはないのに。
「いいえ。貴方であればあの程度、十分回避できたでしょう。この怪我は余計なことをした私の自業自得です。結果論にはなりますがこうして無事意識も戻ったのですから、貴方が責任を感じる必要はありません」
努めて平坦に、感情ではなく客観的な事実を述べる。何を言っても納得はしないのだろうが。
顔が上がってじっと見つめられる。先程のコノエ艦長のように。
「……覚えて、ないんですね」
独り言のような呟きは震えていた。
やはり何かあったのだ。朦朧とした意識で何か口走ったか。
「貴方、事故の翌日には目を開けたんですよ」
記憶が無い。固唾を呑んで言葉を待つ。
「けど、反応が無くて」
「……え?」
話の流れが予想と違う。
「ただ呼吸と生理的な瞬きをするだけで、何も返ってこなくて。生きてて良かったなんて、言える状態じゃなくて……全然無事なんかじゃなかったんです。とても危険な状態だったんですよ」
事故翌日から三日間その状態であれば麻酔の影響にしては長過ぎる。艦長のあの態度も理解できるし、昨日まで付き添っていたという彼はどれほど心を痛めたことか。
「ノイマン大」
「目は開いてるのに何も見てない、手は暖かいのに握り返されない、呼吸はしてるのに言葉どころか声も出ない。〝検査は異常なし〟、〝バイタルは安定している〟。そう言われても、安心なんてできなかった」
顔も拳も真っ白にして。自分の行動がこれほどまでに彼を追い詰めた。
「このままあんたの意識が戻らなかったら……そう思って、怖くて……」
〝生きていればいい〟なんて、簡単に言える言葉でないことはよく知っている。……アーノルドにそんな思いをさせたのだ。
「……浅慮でした。すみません」
助かったと、一度は安堵したからこそ深く強く突き落とされる。自分が口にした〝無事〟の一言はそんな絶望を味わっただろうアーノルドの心情を逆撫でしてしまった。
「いえ、俺の方こそ……責めるような言い方を。すみません」
入ってきた時よりも表情が暗い。気持ちを軽くさせようとしたのだが、完全に逆効果だった。一つ気になることがあるのだが、この重苦しい空気の中では触れにくい。どうにか悔恨を軽減できないかと考えを巡らす。
「思い返してみたのですが」
事故後から艦長との会話までの間、確かにはっきりとした記憶はないが言われてみれば覚えがある。
「触れられているとは解りませんでしたが暖かいとは感じていました」
今思い出さなければ特に意識することなく忘れてしまっていただろうあやふやな感覚。
「〝音がしていた〟という認識もあります。……どちらもとても心地好かった」
不思議そうにしていた目が少しずつ見開かれていく。
「あれは貴方だったのですね」
薄く開いた唇が、音を発することなく閉じられる。
「あまりに好いものですからついうとうとと」
「……うとうとと?」
「……」
口が滑った。
「ハインライン大尉?」
言ってしまった以上取り消せないし、自分の失錯なのでむしろ明かした方がいいかもしれない。もし怒らせたなら謝ろうと腹を括る。
「休日の朝のような、急ぎの案件が無い時期のような、まぁいいだろうという、気分で」
「……つまり、気が抜けて……寝ぼけてた?」
「はい」
「俺が、傍に居たから?」
「そうです」
おそらくは理性の働かない状況でアーノルドの気配を感じたために、このままでいたいと覚醒を拒否したのだ。我ながら愚かな理由である。
今度はぽかんと口を開けて、やはり言葉を発さないままベッドへと突っ伏した。
「…………にどとつきそわない」
力の無い声が布団に吸収されて一層小さくなる。本当に申し訳ないことをしたと思う。しかし気が抜けた様子の今なら聞けるだろう。
「アーノルド」
「なんだよ」
「いつ思い出した?」
勢いよく上体が起き上がり、じろりと睨まれた。その顔が歪んで、崩れ、力を失う。
「ベッドに寝かされてるあんたを見た時」
タイミングをはかっていただけで隠すつもりは無かったのだろう、あっさりと認めた。
「……死にはしないって判断の上での行動だとは思うが、客観的に見れば無謀だ。それで助かったって嬉しくない。もう少し自分を省みろ」
どうやらストッパーも無くなったようだ。滑らかに文句が出てくる。
「全部一人で背負いやがって。危険だって分けろよ。そうすれば、ここまで大事にはならなかったんだ」
反論したい気持ちも無くはないが、今言い返すと確実に火に油を注ぐことになるので黙って受け止める。
「対等なはずなのに全面的に庇われて、どんなに悔しかったか。ただ見ているだけしかできなくて、どんなに苦しかったか」
そこまで言って額に手を当て、それはそれは深いため息をついた。
「……っていう文句も言えなかったんだよな、あんたは」
一瞬で火が消える。
―あぁ、なんだ―
そもそも怒っていないのだ。
「ごめん」
なぜならアーノルドの言葉は全て彼自身にも当てはまることだから。テロリスト共に連れ去られたあの日の彼に。
「甘く見たつもりはなかったが、とっさの事だったし考えが足りなかったのは確かだ。まさかこんなことになるなんて思ってなかった」
推測していたことだが、先程の言葉でようやく確証が得られた。やはりアーノルドは自分の意志で記憶を封じたのだ。ならば返答は一つ。
「……0から1と1から2は、単純な足し算であればどちらも同じく1増えただけの事だ」
突然始まった計算の話に片眉を顰めているが、口を挟むことなく待ってくれている。
「だが実生活ではそうではない。0から1への変化は無から有への移行であり、経験の有無は時に断絶を生むほどの差異となる」
「……それは」
言いたいことに気が付いたようだ。なぜ知っているのかと視線が訴えている。
「ミレニアムに戻る直前、フラガ大佐がいらした」
そうして自分が一度記憶を無くし、その後取り戻した経験があることを教えてくれた。アーノルドもまた当事者であり、その経験から記憶を封じるなどという無茶なまねをしたのかもしれないと、どう考えても機密だろう事実を明かして頭まで下げた。
「……あんたは、何て?」
「〝経験によって行動が変化する事は学習によって長らえてきた人類にとって当然のことだから誰かに責任のあることではない〟と」
既に起きたことを検証するのは今後に活かすため。しかしこの件に関しては誰かを責めても益はない。
アーノルドは痛みを堪えるような表情をしている。けれど、もう謝罪の言葉は出ない。求めていないと伝わったからだろう。
「〝二度とするな〟とは言えない。僕だって今回と同じ事が起これば同じ事をする可能性は十分ある。だから、〝可能な限り他の方法を探してくれ〟」
求めるのは過去への謝罪ではなく〝これから〟だ。
「約束する」
「僕でなくて構わないから、もう少し周りを頼れ」
「分かった」
「……自分を、大事にして欲しい」
「善処する」
ここで頷かないのがアーノルドらしいけれど、そのまま流すのは癪なので。
「君のハロに自動追尾機能を付けるから部屋に置きっぱなしにないように」
「ああ」
「緊急用の警報装置と発信機も組み込む」
「……うん」
一瞬頬が引きつったが受け入れた。
「一定以上離れたら自動的に発報するようにするからな」
「……はい」
肩を窄めてがっくりと頭を下げる。今ならなんでも了承しそうだ。
「それから」
まだあるのかとでも言いたげにのろのろと顔を上げる。目が合って、その緑色が見開かれた。
「少しだけ、目を閉じていてくれると助かる」
椅子から腰を浮かせ、こちらへ伸ばした右手の指が目尻の下に触れた。それから頬を撫で、左手が回って肩を抱き寄せられる。
「もう、いいよ」
言葉が沈んでいく。鍵を掛けて閉じ込めた、その奥底まで。
―もういいのか―
ゆるんで、こぼれる。
「……アーノルド」
「ん?」
優しい声。
「かなしかった」
「うん」
柔らかな温もり。
「さびしかった」
「そうだよな」
懐かしい匂い。
「……あいたかった」
腕の力が強くなる。
「ずっと、きみに、あいたかった」