【つるみか】五月の新刊予定進捗 鶴丸が顕現したとき、目の前には幼子を抱いた三日月宗近がいた。
幼子は、まだ二歳か三歳程度に見えた。短く整えられた髪と着ている着物の色を見るに、男児のように思えた。彼は三日月の腕の中で、まるい目を大きく見開いて鶴丸を見ていた。そして、三日月もまた同じだった。
「鶴丸国永だ。俺みたいなのが突然来て驚いたか?」
鶴丸は、どうやら自分が彼らに驚きを与えられたらしいと知って満足しながらそう告げた。しかしすぐ、逆に驚かされてしまった。騒がしい足音が近づいてきたかと思うと、二振りの刀が部屋へ飛び込んできたのである。へし切長谷部と、加州清光であった。
「これは」
長谷部と加州は、鶴丸を見て同じく目を丸くした。その尋常ではない驚きようには、鶴丸の方が面食らうほどだった。声をあげたのは長谷部で、彼は説明を求めるように三日月を見た。鶴丸もつられて視線を移すと、その時には三日月は凪いだ湖のように静かな目をしていた。
「坊がよんだ」
三日月がひとことそう言うと、加州が息を呑んだ。長谷部の行動は、もっとわかりやすかった。彼は大きく一歩三日月に近づくと、その胸ぐらを掴んで強く引いた。
「貴様」
長谷部の声は低く、怒りに震えていた。加州が制止の腕を伸ばしたようだったが、長谷部はそれを振り払って続けた。
「あれほど主に可愛がられていながら、裏切るのか」
三日月は、動揺する素振りもなかった。もとより彼は胸ぐらを掴まれながら少しもよろめかなかった。代わりに幼子が、火のついたように泣き出した。一連の流れを呆気に取られながら眺めていた鶴丸は、はっとして二振りの間に割って入った。
「なんだなんだ、子供の前で喧嘩はよせよ」
長谷部は、そこではじめて鶴丸の存在を意識したかのようにうろたえた顔をした。彼は鶴丸にも何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わないまま、ふいと目をそらして三日月から手を離した。三日月は、今も大声で泣き続ける幼子を器用に抱いたまま、片手で乱れた襟元を直した。
「皆に説明したい。人を集めてくれ」
「わかった。行こう、長谷部」
三日月の言葉に、返事をしたのは加州だった。加州は押し黙って何も言わない長谷部の背を押して、二振りはそのまま部屋を出ていった。残された鶴丸は、気まずい空気の中で幼子の泣き声を聞き続けた。と思うと、不意に三日月が幼子の背を撫でながら、鶴丸に笑いかけてきた。
「騒がしいところを見せてすまなかったな。我らはおぬしを歓迎しよう、鶴丸国永」
友好的なその笑顔に、正直言って鶴丸は救われた。とんだ歓迎だと思っていたところだったのだ。三日月は、しかしその笑みを消して一歩鶴丸へ近づくと、美しい顔を鼻先まで寄せて鶴丸へこう囁いてきた。
「単刀直入に言う。この本丸は今、解体の危機に瀕している。だが、おぬしが救ってくれるやもしれぬ」
「は」
「顕現早々悪いが、早急にお前を皆に紹介せねばならぬ。ついてきてくれ」
「それは構わんが、三日月――」
「近侍、と」
三日月の名を呼んだ瞬間、彼は指を鶴丸の唇に置いて制止した。鶴丸は当然面食らった。三日月は、また、囁くような低い声でこう続けた。
「俺はこの本丸で近侍をつとめている。俺のことは、近侍と呼んでくれ」
「近侍、もう、みんな集まるって」
ちょうど扉のかげから顔を出した加州が、三日月のことをそう呼んだ。鶴丸は、その他人行儀に響く音に違和感を覚えた。すぐに行く、と応じた三日月に首肯した加州は、鶴丸のことを複雑そうに一瞥して去っていった。
鶴丸は、いよいよ訳が分からなかった。だが訳の分からない状況に身を投じるのは、嫌いではない。
「ふむ、そうだな。坊を抱いてくれ。お前が抱くのが、相応しいだろう」
とはいえまだ少しぐずっている幼子を三日月から手渡された時、鶴丸は柄にもなくうろたえてしまった。子供の扱いには詳しくない。どう支えたらよいものかと目で助けを求めると、つい先程まで危なげなく坊と呼ばれる幼子を抱きこなしていた三日月は、笑った。
「きちんと尻を支えてやってくれ。この子はお前の主。そして今後、我らの主となるやもしれぬ。それも今後の立ち回り次第だ、さあさあ」
三日月に急かされて部屋を出ると、廊下は部屋よりも大きく一段高くなっていた。それに気がつかなかった鶴丸は、坊を抱いたまま危うくつまずきそうになった。三日月が、それを支えてくれた。
「ここの段差はちと高すぎるな。いやいや、わかるぞ。俺も顕現直後、お前と同じようにつまずいたものだ」
坊は、鶴丸がつまずいた際の揺れが思いがけず愉快だったのか、小さな笑い声をあげていた。機嫌を直した彼の頭を撫でながら、三日月は優しい目をした。
「怪我には気をつけてくれ。お前と坊には、この本丸の命運がかかっている」
三日月の口調は芝居じみていたが、鶴丸は、それを大袈裟だと笑うことは出来なかった。
廊下に出た途端感じたのだ。この本丸は――空気が悪い。
鶴丸が目配せをすると、三日月はすぐに意味ありげな視線を寄越した。二振りの間に走った緊張を知ることもない小さな坊が、ただ無垢に笑う声が響くばかりだった。
この本丸の主は、『余命宣告』を受けている、という。
人としての命の終わりが近いという意味ではない。審神者として本丸を維持していくだけの力がもうあとわずかで失われると、政府より診断が下されている。
兆候は、以前からあった。新たな刀はいつからか一向に顕現しなくなり、手入れの時間は伸びに伸びた。思った通りの時代、場所へ、刀たちを送れなかったこともあった。
それでもだましだまし審神者業をこなしてきたが、ついに誤魔化しきれなくなった。政府にである。定期監査で本丸の戦績と霊力を査定されるたび、最低成績をぎりぎり維持し続けてきた主は、ある日ついに戦力外通告を受けた。
もってあと、数か月だろうと言う。
本丸は決断を迫られた。主の霊力の枯渇と共に消えるか、あるいは時期を選べるうちに自ら消えるか。
それとも、別の手段に出るか。
「本丸の引継ぎには皆消極的だった。だがそれは、後を継ぐ者が居なかったからだろう? 坊は主のひとり息子だ。本丸を継ぐにこれほど相応しい者は居るまい。素質は折り紙付きだ。何しろはじめてで、鶴丸国永を顕現させたのだからな」
まるで店の商品を自慢する商人のように滔々と語る三日月に、応じる者は誰も居なかった。
十二畳の広間である。本丸の刀が全振り集められたと聞いていたが、そこに居る人数は十にも満たなかった。鶴丸は、およそ十振りの刀たちと向かいあってこれまでの経緯を聞いた。坊を膝に乗せながらである。
三日月は、恐らく鶴丸に聞かせるつもりで詳細を語ったのだろう。主の霊力の減衰のこと。政府からの通達のこと。本丸の行く末のこと。刀たちはとうに聞かされた事実であるという無感動な顔でそれらを聞いていたが、話が鶴丸の顕現した経緯に移ると皆一様に息を呑んだ。無遠慮な視線が注がれるのを、鶴丸は正直居心地悪く思った。坊は、怯えたように鶴丸の腹に顔を埋めて黙っている。
「なぜ、勝手に鍛刀した」
沈黙を破り、低く声を発したのは長谷部だった。長谷部はただひとり、鶴丸と坊には目もくれず、三日月を見ていた。彼の視線は鋭く、厳しかった。だが三日月はそれを受け流すように、優雅に笑んだ。
「俺がしたわけではない。知らぬうちに坊がよんだのだ」
「そんな子供が、ひとりでか? 不可能だ。お前が手引きしたんだろう、近侍」
長谷部の言うことは正論のように思えた。膝の上の幼子は、まだ正式に審神者として政府に登録もされていない、何の知識もない人間のはずだ。ただ素質があるというだけの子供が、ひとつの助けもなく刀を喚ぶというのは、考えづらい。
三日月は、反論しなかった。長谷部は己の論の正しさを確信したように、勢いづいて続ける。
「主がここを畳むと言うならばよし。力をなくすまで足掻くと言うならばそれもよし。最後の日まで主に従い、一心に仕えるまでだと皆で合意したはずだ。それが、お前のしたことはなんだ? 独断で刀を顕現させ、あまつさえ引継ぎなどと」
「長谷部」
三日月は静かに、しかしよく通る声で長谷部の名を呼んで彼の発言を遮った。鶴丸は、捲し立てていた長谷部が大人しく口を噤んだのが意外だった。そこに、二振りの力関係を見た。
三日月があくまで穏やかに続ける。
「お前の言うことはわかる。が、そうだとして、坊に素質があることは間違いない」
「それは」
「この事実を皆に公表しておきたかった。まずはそれだけだ。俺たちは、必ずしもこの本丸と心中する必要はない」
ぴん、と部屋の空気が張り詰める音を、鶴丸は聞いたように思った。集まった刀たちは、皆それぞれに視線だけを動かして、互いの様子を窺っていた。
妙な空気だ、と思う。三日月の発言に、皆が何かしらの反論を持っている。そういう雰囲気をひしひしと感じる。
何も感じていないかのように振る舞っているのは、三日月だけだった。
「主は、なんと仰せだ」
しばらくの間を置いて、長谷部が口を開いた。刀たちが皆、顔をあげた。長谷部の言葉は、皆の総意であるかのようだった。
「主は元より引継ぎには反対ではない。皆好きなようにしろと言っている」
「本当なのか」
「何を疑う必要がある? もとより俺の言葉はすなわち主の言葉だ。忘れたのか」
ぎょっとするほど、三日月の言葉は高圧的に響いた。鶴丸がおそるおそる長谷部の顔色を窺うと、彼は憤怒の感情をどうにか抑えている様子で、唇を結んで押し黙っていた。
三日月は、しばらく長谷部の様子を伺い、そして周りの刀たちの顔を見渡した。一巡して、誰からも反論がないのを確認すると、彼は愛想よく笑んだ。
「まあ、そういうことだ」
それが解散の合図だった。
「なんというか、とんでもない時に来ちまったな」