水浴び ジジジジジ……と蝉の大合唱が授業を妨げる真夏の猛暑日。
かんかんと照りつける陽射しが窓際の席に座る生徒達を熱で蝕んでいく。黙っていても額や頬から玉の汗が滲んでは、ぱたぱたと滴り落ちていく。生徒達は合間を見ては手や紙でしきりに体を仰いでいた。元気なのはペトラのように暑い地方から来た生徒だけであった。
窓枠から外を眺めれば、どこまでも青く雲一つない空が遠方の山脈まで綺麗に広がっていた。
鐘の音とともに授業から解放された生徒達は一斉に立ちあがり、飲み物や涼を求めて散り散りになり、教室を出て行った。
授業に使用した教材や専門書をベレトが片付けていると、リンハルトが近づいてきた。
この暑さで艶やかな長い髪も心なしかじっとりと濡れてみえる。ハンカチで汗を拭いながらリンハルトはベレトへ尋ねる。
「先生、この後何か予定はありますか?」
「いや特には」
「もしよければ僕と少しだけ遠くにいきませんか?あんまり暑いので湖に行きたいななんて思って」
リンハルトのほうから遠出の誘いとは珍しいとベレトは二つ返事で了承しかけた……があることを思い出し、判断に迷う。
「それはかまわないが、近場ならともかく特定の生徒一人を遠方まで連れまわすのは感心しないと前にセテスに注意されて……」
「セテスさんは頭が固すぎるんですよ。湖のある森までは歩いても行ける距離ですし……それにほら先生は今日制服じゃないですか。生徒と連れ立って歩いていてもそんなには目立ちませんよ」
あまりにも暑いため、今日のベレトは生徒が着用するものと同じ夏服を着ていた。
「……たしかに君の言うとおりかもしれないな。わかった、ではこれを片付けたら行こう」
「ありがとうございます。じゃあ僕も準備しますね」
二人は各々の準備を済ませると、厩(うまや)の前で待ち合わせガルグ=マクにほど近い森へと馬に乗って向かった。
湖に辿り着いた頃、太陽は益々盛んに下界を照らしつけていた。草の間から陽炎がむらむらと立ち上っている。
リンハルトにとって少々誤算だったのは、思いの外彼ら二人以外に湖を利用する生徒が多かったことである。この炎天下では無理もないが、学級の隔てなくそれなりの人数が集まって湖で遊んでいた。水深の浅いところで上着を脱ぎ、ズボンの裾と腕をまくってバシャバシャと水をかけあったり、草鉄砲をして遊んでいる。中には氷魔法を利用して涼んでいる生徒も見かけた。
ベレトとリンハルトもズボンの裾をめくりあげると湖のほとりに並んで腰掛け、靴を脱いで裸足になる。水の中に真っ白な素足を浸しながらリンハルトが呟く。
「うーんもう少し人が少なかったら、先生と水浴びもできたんですけど……」
「思いの外(ほか)混んでいるな」
「そうですね。あまり身動きもとれなさそうですし、そんなにゆっくりも浸かっていられません」
リンハルトは残念そうにぱしゃぱしゃと染み一つないつま先を使って水の中で円を描く。
ベレトもそれにならって足で水をかき回してみる。湖に浮かぶ太陽がぐにゃぐにゃと撓(たわ)んだりへこんだりしながらゆらゆらと渦の中に溶けていく。
そうしているうちに、軽く素足が触れあい隣に居たリンハルトとはたと目が合う。ただそれだけのことで細(ささ)やかな幸福感に包まれたベレトは口元を綻ばす。それを見たリンハルトもまた胸の奥に甘い疼きを感じ、ふわりと微笑んでみせる。
「ふふ冷たくていい気持ちですね」
「うん……」
「こうやって足を冷やしながらぼーっと座ってるだけというのも案外悪くないです」
そうやって水を軽く足で跳ね上げ、景色を眺めながら座っていた二人の視界にふいに見知った生徒が入ってくる。それはだらしなく下着一丁になったカスパルであった。カスパルはなんの恥じらいもなく短ズボンに履き替えたラファエルと一緒に水深が深めのところへ盛大に飛び込み、波紋を広げてはしゃいでいた。他にも幾人か腕白そうな男子生徒が同じようにして、ばしゃばしゃと湖水をかき分けて騒いでいる。人と人との間隔が狭く、混み合っているのにもおかまいなしだ。
それを見た女子性徒が何人か眉を潜め、迷惑そうな顔をしているが彼らは周囲の反応などまるで気にしていない。
リンハルトも親友の幼稚な姿にはあ……とため息をつき呆れ声で呟く。
「……まったく昔から変わんないなカスパルは」
なんとなくその様子を目で追っていると、集団の一人がふざけてカスパルにタックルを喰らわせてきた。「うおっ!」とふいをつかれたカスパルは水の中でつんのめり、前方へすっ転ぶ。そしてよりによってリンハルトのすぐ眼前にカスパルは激しく水しぶきをあげて倒れた。カスパルが転瞬、ざぶんと水中へ沈んだのと同時にリンハルトは派手に立ち上がった大波を頭からもろに被ってしまった。
ぷはっと水中から顔を上げたカスパルはずぶ濡れになって顔をしかめるリンハルトを見て、申し訳なさそうに詫びる。
「あっ!リンハルト……わりい」
「もう!子供じゃないんだから、水遊びなら人のいないとこでやってよ……」
リンハルトは苦情を言いながら猫のようにぷるぷると首を振って水気を吹き飛ばす。
ベレトが荷物からタオルを取り出し渡してくるが、少しふいた程度ではとても乾きそうにない。
「あそこに小屋がある。中で制服を脱ぐといい」
ベレトは小屋の方角を指さすと、リンハルトに付き添い荷物を抱えて一緒に中へ入る。この小屋は薪を割る下働きの者などが一時休憩所として使っているものだが、夏の間はあまり使われていない。一応声をかけてから扉を開いたが、予想どおり中には誰もいなかった。
リンハルトがブレザーを脱ぐと、透けたシャツの下から眩しいほど白い肌が露わになり、ベレトは思わず目を逸らす。シャツのボタンを外すとさらにその下にある直肌が外気へ晒される。ほんの一瞬ちらりと隙見しただけなのに首筋から肩にかけてのなだらかな線や細い腰、薄い胸板が瞼の裏に焼き付いてしまう。リンハルトはベレトの初心(うぶ)な反応を見て苦笑する。
「いいんですよ見ても。僕も男なんですから」
「そうなんだが……」
ベレトはこくりと唾を飲み込み、リンハルトに背を向けた状態で自分のブレザーに手をかける。徐(おもむろ)に夏服の上衣を脱ぎはじめたのを見て今度はリンハルトがどきりとする。シャツの下から程よく引き締まった大人の上半身が曝け出される。
(あれこの流れもしかして?)
それなら願ってもない機会だとリンハルトは内心、猥(みだ)らな期待を膨らませてしまうがベレトはリンハルトに指一本触れることなく視線を逸らしたまま自分のシャツを差し出してきた。
「この天気だ。外に干しておけば君の制服もすぐに乾くだろう。それまで着ているといい」
(真面目な先生らしいな……)
くすりと笑って受け取ると、リンハルトはベレトの汗が染みこんだシャツを身につけ一番上の一つだけボタンを留めた。丈はリンハルトのふともものあたりまである。あやうい箇所がぎりぎり隠れるくらいの長さである。リンハルトは戯れに口元までシャツの袖を持ってきて臭いを嗅いでみた。
「先生の臭いがしますね」
「暑いからな……少し我慢してくれ」
「不快だなんて言ってませんよ。むしろ落ち着きます」
微笑みながらリンハルトはひょいっと一足飛びにベレトの前へ立つ。
ベレトは困惑した表情で逆に一歩後退する。彼の背後には仮眠用のベッドが置いてあった。
「リンハルト、きちんと全部ボタンを留めないとその……前が見えてしまう」
「あなたなら構いませんよ」
リンハルトはベレトの二の腕を両方掴んで、己の体重をかけた。足下が濡れていたのと、動揺とでベレトはバランスを崩し後ろにあったベッドへ倒れ込む。そうするとリンハルトが半ばベレトへのしかかる格好になる。
リンハルトの潤んだ双眸が一心にベレトを見つめてくる。濡れた長い髪が裸の上半身にかかる。
「先生は僕に興味がありますよね」
興味がありますか?という疑問形でなく興味がありますよねという確信である。
ベレトは数度瞬きをしてから、感情の読みとりにくい声で答えた。
「君は自分の大切な生徒の一人だからね。もちろん興味はあるよ」
「はぐらかさないでください……それとも本当に僕の言いたいことがわかりませんか?」
リンハルトの指がベレトの顎のあたりをするりと撫でる。その瞬間、じわりと胸の奥に熱がともるような感覚をベレトは感じた。そのせいか自然と頬が熱くなってくる。今までこんなふうに色情のこもった視線を直に向けられた経験がなく、ベレトはどう対処していいのかわからない。
「こうしてあなたの肌に触れて、僕は今とてもどきどきしていますよ先生。先生は何も感じませんか?」
視線を揺らすベレトの片手をとり、リンハルトは自らの胸に当てた。すべすべした肌のその下からたしかな鼓動が伝わってくる。触れたところが焼けるように熱く感じられた。
いくらか和(やわ)らいだ陽光の中でベレトの両眼に映るリンハルトの顔がゆっくりと拡大されていく。長い睫や菫色の瞳そしてわずかに色づいた唇がベレトに近づいていき……。
「おーい先生!リンハルトー!」
しかしその時彼らを大声で呼ぶ者があった。カスパルの声である。ベレトはがばっと身を起こし、リンハルトの肩を掴んで引き剥がすと声のほうへ耳を傾ける。
シャツ一枚のリンハルトを小屋の内側に残し、ベレトは扉を開ける。するとそれほど離れていない草むらに下着一丁のカスパルが立っていた。
「あっ先生、聞いてくれよ。湖のところで女子が一人倒れちゃってさ。たぶん熱射病だと思うんだけど看てくれねえか?そこにリンハルトがいたら一緒に連れてきてほしいんだ」
「わかった今行く」
ベレトが扉の内側を振り返ると、微妙に不機嫌そうな表情でまだ濡れている制服をのろのろと身につけ救護の準備をするリンハルトの姿があった。
「小屋の中は日陰になっているからここに連れてきたほうが良さそうだな。自分がその子を運んでくる。君はライブをかけてくれるか?」
「はあ……しかたないですね……」
リンハルトはとても残念そうな様子だったが、ベレトは内心胸をなで下ろす。
カスパルが来てくれて正直助かった。あのまま状況に流されていたらどうなっていたことか。
渋々といった体(てい)で腰を上げるリンハルトを横目に見つつベレトは考える。
先ほどは本当に危なかった。このままではいつか生徒である彼と不適切な関係を持ってしまいかねないなと。
これまで以上に注意しようと自分に言い聞かせながらベレトは要救護者の待つ湖へ向かうのだった。