「虫の音」「休養」 ひんやりと肌に心地良い涼風を感じてベレトは瞼を開いた。横を向いてみれば少し開いた窓から風が吹き込み、カーテンをはためかせている。
そして彼の横たわっているベッドの傍にはリンハルトが椅子に腰掛け、無表情にベレトの様子を見守っている。
目が覚めて最初に考えたのは自分はどうしてこんなところにいるのだろうという疑問である。意識のないうちに先ほどまで身につけていた法衣も脱がされ、今は呼吸が楽になるように胸元をゆるめた寝衣に着替えさせられていた。
「リンハルト……」
「気がついたみたいですね。体の調子はどうですか?」
「少しだるいが動けないほどじゃない」
リンハルトは彼の不養生を非難するかのような眼差しをベレトへ向けてくる。その視線を受け、ようやく自分が来客との謁見中に倒れた事をベレトは思い出す。
「ダグザからの使者はどうした?」
「陛下が倒れたのでセテスさんが途中から代理で話を聞くことになって、その後お引き取りいただきました」
公的な場面以外で『陛下』という呼び方をあえて使ってくることがリンハルトの不機嫌さを物語っている。彼は伴侶の事を普段は『先生』親密な時間を過ごす時は『ベレト』と呼ぶからだ。
「そうか関税についての相談はどうなった?」
「知りません。後でセテスさんに直接聞いてください」
公務の続きを行うためにベッドから降り、立ち上がろうとするベレトをリンハルトが肩を掴んで押しとどめる。
「いいかげんにしてください。3日くらいろくに眠っていないでしょう?いくらあなたが頑丈でも体が持ちませんよ。ここは大人しく休んでください」
リンハルトはいつになく厳しい口調でベレトを諫めた。
1週間ほど前から港での関税について調整がありベレトは各地域の代表者との重要な協議に出席していた。それに加えて通常の仕事もこなし非常に多忙な日々を過ごしていた。
睡眠時間は平均で2~3時間程度で食事と風呂以外はほぼ外交や執務に費やされていた。
「すまない」
珍しく伴侶に叱られたベレトは肩を落として謝る。
だが厳しい表情をすぐにやわらげ、リンハルトはベレトの手に自らの手のひらを重ねた。
「こうして時間もできたことですし、仕事の事は忘れて今は僕と一緒にゆっくりしましょう。たまには夜のお茶会もいいものです。あっその前にお腹が空いていませんか?先生ときたら、ここしばらくは食事もきちんと摂っていませんでしたものね」
「そうだな……」
リンハルトに指摘されベレトは己の空腹を意識する。リンハルトは微笑むと侍女に命じて彼らの私室へ夕食を運ばせた。
ここ数日分の食欲が一気に爆発したかのように次から次へと料理の皿を空にしていくベレトを食卓を囲みながら、リンハルトは頬を緩めて眺めていた。
夕食後、ベレトの体調が回復してきたため彼らはテラスへテーブルを出し二人きりで茶会を開いた。夜空にぽっかりと浮かんだ満月から降り注ぐ明々とした月照の下で談笑を交わす。
紅茶を何口か啜ってベレトは味の違いに気づく。
「東方の着香茶か?だがいつもと少し香りが違うような……」
「はい。滋養強壮、疲労回復効果の強いものを商人に頼んで取り寄せました。眠りも深くなるそうです」
「ありがとう」
ベレトはリンハルトの気遣いに笑顔になる。リンハルトもベレトの穏やかな表情を見て微笑み返す。ランプの光がリンハルトの白皙の顔貌を柔らかな光で照らしだしている。こうして伴侶の笑顔を差し向かいで眺めるのもずいぶんとひさしぶりなような気がする。
蜂蜜とミルクをたっぷり入れて甘く優しい味を楽しむ。
伴侶と水入らずでゆったりとした時間を過ごしながら、ベレトはふと澄んだ虫の音を聴いた。鉄琴を弾くような高く鋭い音色が耳朶を打つ。つがいを求める恋の歌がそこかしこから声高に響き、秋の訪れを感じさせた。
「もうそんな季節だったか……虫の声など久しく聴いていなかったな」
「一週間くらい前からそれはもう五月蠅いくらいに鳴いていましたよ。先生がお仕事に励んでいる間もずっと」
虫の鳴き声に耳を傾ける心のゆとりもなく、ただ仕事に没頭していたことにそこでベレトは気が付く。リンハルトは紅茶を喫飲しながら微笑する。
「まあ気づかないのも無理ありませんね。僕もずいぶんとお声がけしたんですが、先生は忙しいからとつれなくおっしゃるばかりでしたものね」
そこでリンハルトにも寂しい思いをさせていたことにようやくベレトは思い至る。ベレトはリンハルトの滑らかな手をとり包み込む。
「すまない。君をほったらかしにしてしまって……」
「独り寝もそろそろ飽きましたよベレト。あなたがお忙しい身なのは僕も重々承知してはいるんですけどね」
少し拗(す)ねたように言ってみせてから、リンハルトはベレトへ艶然と微笑みかける。
「なので今夜くらいはあなたを独占させてもらいますよ。」
ベレトのほうもそれで異存はなかった。リンハルトは席から立ち上がり、ベレトの肩に手を添えると唇を重ねた。軽くキスを交わしてからリンハルトはベレトの疲れた顔を見つめ優しく声をかける。
「今日は早めに床につきましょうねベレト。本当は肌を合わせたいところですが、それはもう少しあなたの体調が良くなってからにしましょう」
一緒の時間にベッドへ入るのも実に数週間ぶりである。ひどい時は執務室の机で短時間の睡眠を取るだけの日もあった。リンハルトが抱きしめてくれるのであればぐっすり眠れるだろうとベレトは思う。
秋の匂いを運ぶ涼やかな音色が遠く近く鳴り響いていた。