秋色 深手を負ったリンハルトは痛む傷口を清潔な布で押さえながら、ふらふらと歩いていた。追っ手を上手く巻いたものの、森の中で精根尽き果て銀杏の木の下へ倒れ込む。黄金色をした銀杏のクッションへ仰向けに埋もれながらリンハルトは呟く。
「そっか、もう秋だっけ……」
そんなあたりまえの事も彼は激化する戦の中で忘れていた。右手(めて)を虚空へ翳すと、その手の平へはらはらと紅葉が降りてくる。あとからあとから、彼の全身を覆い隠すほどの鮮やかな黄色が降り積もっていく。
黒雲の間から一筋の陽光が鋭く差し込み、彼は眩しさに目を細める。光は黄葉を透かして束の間金色(こんじき)の光輝を宿した。
起き上がろうという気概は厚く積もった柔らかな落ち葉に彼自身が流す血とともに吸い込まれた。
「……疲れたな……もうこのままでもいいか……」リンハルトは朦朧とした意識の中で思う。
先の一戦で敗北を喫した黒鷲遊撃隊は退却の途中で散り散りとなり、生死不明である。他の仲間達は無事逃げおおせただろうか?
ほんの数刻前まで耳朶を打つほど近くにあった剣戟の音が今はひどく遠く聞こえる。冷たい湿った土と葉が彼から徐々に体温を奪っていく。
大の字になり、彼はぼんやりともう一つの事実に気づく。
(そういえば僕、今日が誕生日だっけ?)
それどころではなく、完全に忘れていたが日付と照らし合わせればそうだ。自然と紐付けられた記憶が薄れゆく意識の中で呼び起こされた。彼は去年の秋を思い出す。平和な学園生活……あの時は大好きな先生と一緒だった。
二人きりのお茶会でベレトは古書をプレゼントしてくれた。ハーブティと甘いお菓子の匂い。そして穏やかな先生の微笑……彼が好きなものだけでテーブルは彩られていた。
今はもう失ってしまったもの……。
(もう二度と会えないのかな?)
生きてもう一度ベレトと会うためにリンハルトは仲間達とともに戦場へ身を置いていた。しかし微かな希望は時間が経てば経つほど淡く薄れていった。一年も経つ頃にはほとんどの将兵がベレトを戻らぬものとして扱っていた。
(先生……)
ベレトがすでにこの世を去ったかと思うと……全身から力が抜けていく。その間にもはらはらと木葉は彼の上へ金色を落としていく。
(いや諦めちゃだめだ。先生はきっと生きている)
手元にある枯葉を握りつぶすように掴み、リンハルトは挫けそうになる心を奮い立たせる。赤と黄が彩なす憂鬱(メランコリック)な晩秋の木陰。立ち枯れた草木が運ぶ冬の足音。
(だから僕も生きて、この秋の色をもう一度あなたと見るんだ……)
そしてほっと息を吐くと体力を回復させるために再び目を瞑る。
(でも今は少し休んでもいいよね……)
彼を探す声が遠くから聞こえてきた。
***
「こんなところにいたのかリンハルト。風邪を引くよ」
心配そうな声が頭上から降ってきて、リンハルトはぱちりと目を開けた。逆光の中で沈んだ紺色の髪がぼんやりと滲んで見える。表情は陰になっていたが、優しい視線がこちらへ注がれているのを感じた。
地面に手をつくと、銀杏の葉が指先に触れた。昼食後、庭へ散歩に出かけたリンハルトは秋晴れの陽気にあてられてついうとうとしてしまった。そうしていつの間にか大量に積もった落ち葉の上で彼は昼寝をしていたのだった。眠っている時に髪紐がはずれて昔よりずいぶん伸びた髪が枯れ葉のクッションへ広がっていた。
「今ちょうどケーキが焼けたところだから、そろそろ家の中へ入っておいで。今日は君の誕生日だからね。少し奮発してドライフルーツの砂糖漬けと胡桃も入れた」
精悍な青年がリンハルトの体に付着した枯葉を払いながら、今だ落ち葉に埋もれたままの彼へそっと手を差し伸べてくる。彼を呼ぶ声の主は愛しい伴侶……ベレトだった。
リンハルトは数度瞬き、しげしげとベレトの整った顔貌を見つめる。そうしてこれが夢でないことを確認するとリンハルトは彼の手首を掴んで落ち葉の中へ引きずり込んだ。ぽふっと堆く積み上がった黄金が舞い上がり、陽光の中で散る。
「わっ……」
驚いてバランスを崩し、前のめりに倒れ込んできたベレトを両腕で抱きしめる。逞しい背中を撫で、骨格をなぞり肌の感触を確かめる。鍛えられた胸板をぺたぺたと触り、最後に端正な造りをした頬に指先を滑らせる。
ベレトは何がなんだかわからないという風にぽかんとしてリンハルトに身を任せていた。
全身をくまなく探って、リンハルトはようやく安心した表情になるともう一度力強くベレトを抱擁する。
「良かった……ちゃんと居る。愛してますよ先生……」
そう言いながら頬をすり寄せ、唐突に甘えてきた伴侶に戸惑いつつもベレトは抱きしめ返す。
「あなたがこうして生きていることが僕は嬉しくてしかたないんです」
「そうか……」
昔ベレトがいなくなってしまった頃の夢を見たせいでリンハルトは子供に戻ったように彼へすがりつく。
不思議そうな表情をしながらもベレトはあえて深くは尋ねず、リンハルトの不安に寄り添う。リンハルトはベレトの胸に耳を当てる。そしてとくとくと聞こえてくる心臓の音を愛しむ。
「あなたが此処に、僕の隣にいることがこの上ない幸せです」
「自分もだよ、リンハルト……」
よしよしと頭を撫でてくるその硬い手の平の感触が心地良い。
すっかり冷えてしまった体を温めるように、リンハルトはベレトの腕へもたれかかりながら家路を辿る。
木立を飾る真紅の紅葉や黄金の銀杏を見つめながらゆっくりと歩く。あの日戦場で見た秋の色を今、彼はベレトともに見ていた。
二人の住処である小屋から、焼きたてのケーキと紅茶の良い匂いが漂ってきた。