やがてルジェになる話 お天道様が細かい氷をきらきらと溶かしている。カップに入ったいちご風味のかき氷を抱えた子どもは暑さに負けないくらいの笑顔を両側の親に向けた。あの屋台、今日はよく売れそうだな。
この街でこんな平和な光景が見られるのは昼の間くらいだ。まともな親なら日が落ちた中華街に、いやメトロシティに子どもを解き放とうとは思わない。まともじゃない親や聞き分けの悪いガキなら仕方ないが。そんなものを見かけたときは、オレの出番だ。勿論ないに越したことはない。
日差しから逃げるように薬屋のドアを開いた。
全く、昼間から出歩くもんじゃない。額に浮かんだ汗を腕で拭いながら溜息をつく。よくわからない薬や材料の棚で埋められた薄暗い店内と、カウンターから睨んでくる無愛想な店主の方がよっぽど居心地がいい。
ああ、大丈夫だ。わかってる。
本当に自分が逃げたいものくらい、痛いほど自覚している。
釈然としない日は体を動かすに限るってことで、メトロシティの中でも中華街の反対側にある海沿いの散歩道まで足を伸ばした。どうせ日中の紅虎路は春麗姐さんが睨みを利かせている。オレが常に見張っている必要もない。
ランニングがてらとはいえ、こんなところまで来たのには理由がある。バックラーとかいうPMCのトレーニングセンターがここにあるからだ。社員や格闘コースに通う生徒の間を顔パスで抜け、倉庫みたいに四角いレンガ造りの建物に入る。中は床全面がマットになっている。仕方ないから、入口で靴を脱いでやった。そうしている間にもオレの存在に気付いたやつが、中央付近で偉そうに教えている筋肉野郎へ声をかけに走って行く。
「教官、ジェイミーさん来ましたよ」
「ああ? またかよ」
適当に片方へ流した金髪を手櫛で整えながら、ルークは苦い顔でオレを睨んだ。だが気にせずに歩み寄る。周囲のやつらが徐々に距離を空けていく。教官とやらとは違って賢い生徒たちだ。
「よう、脳筋くん」
「よう、じゃねーよ。仕事中にくんなって言ってんだろ!」
「別にいいだろ、実戦見せるのもトレーニングのうちだぜ?」
なんて表面上では取り繕っていても、ルークも他の社員もオレを出禁にしていないのが答えだ。ま、邪険にされないのにもそれなりの理由があるんだが。
「ったく……」
ルークは手にはめたグローブの端を引き、指をぐっぱっと何度か閉じて開いてを繰り返した。よしよし。今日もやる気になってくれたみたいだ。
「やるからには授業にすんぞ」
「勝手にしろよ」
「お前に決定権ねーんだけどな。さあみんな、ちょっと集まってくれー!」
教官の一声で見るからに素人の生徒がオレらの周りに円を作る。さて、今日は何を題材に動いてやろうか。準備運動でステップを踏むオレを無視してルークが余所行きの声で続ける。
「基礎を覚えたらストリートでファイトしたいって思うかもしれないけど、何やってもいいってわけじゃない。ただの喧嘩じゃないからな。ちゃんと挨拶して挑んで、急所は避けるってのがルール……つか暗黙の了解ってやつだ。あんまりやると警察のお世話になっちまうからな!」
どの口が言うんだと笑いそうになるのを抑える。そういう意味ならオレらがファイトしたことは一度もない。あるのは、顔を殴ろうが金的を狙おうがお咎めなしの喧嘩だけだ。そんな関係が平和に続けてられるのはお互い強いから、でしかない。
ルークがオレを見る。仕方ない、今回はそのルールに従ってやろう。差し出した拳にルークの一回りでかい拳をぶつけられる。この手が。この冗談みたいに太い腕が。それで、力任せに殴られるのが。オレは結構嫌いじゃない。
勘違いしないでほしい。オレに変な趣味はない。武術の欠片もない、相手を制圧するための純粋な暴力を振るうこいつとやり合うのはいい刺激になる、ってだけだ。
急所を狙うなと言いながら水月に打ち込んでくる拳を掌で受け止め、お返しに踵をお見舞いした。ちゃんと顔は避けて丈夫な腹を狙ってやったんだから、感謝してくれよな。
マットに受け身を取る。
交通事故かってほどのタックルで吹き飛ばされたオレは、しばらく起き上がらなかった。近寄ってきたルークに寝転んだままヒラヒラと手を振る。
「と、まあ、勝負がついたらそれ以上手を出すのは御法度だ」
周囲に説明しつつ、ルークはオレの手を掴んで引き上げた。当然、そういう『ポーズ』だ。綺麗に負けるってのにも腕がいる。その手本を見せたつもりだが、向こうは気に入らなかったらしい。
「手ぇ抜くなよ」
ガキみたいに唇を尖らせてそう囁いてきた。ふん、と鼻を鳴らして応える。
「ヤりづらくしたのそっちだろーが。ま、ストレス解消くらいにはなったぜ」
「んだよ、なんかあったのか?」
「っいや、」
青く澄んだ目がオレを見つめる。急に真面目な顔をするな。すぐ誤魔化せずに詰まっちまうだろ。
「大したことじゃねえし、大体お前には関係ねえよ」
「そりゃーそうだ」
乾いた笑いを残して、ルークは背を向けた。広すぎるその背中に哀愁を感じた――のは、単なる願望だ。自分で突き放しといてもう少し構ってほしかったなんて思うのは虫が良すぎると自分でも思う。それこそ、ガキじゃあるまいし。
緩いお遊びみたいなファイトだったとはいえ、言った通りに頭は晴れた。やっぱりスッキリしたいときはルークと絡むのが一番いい。何だかんだでオレはこいつに気を許している。後腐れなく喧嘩出来る関係ってのは意外と貴重なモンだ。
「っし、んじゃ飯にすっか!」
突然ルークが手を叩いた。それが生徒や同僚に向けた宣言だと気付いたのは数秒経ってからだった。そうか。日の高いうちに来れば飯を挟むことにもなるか。ぼんやりと考えていたらルークが振り返った。
「お前は? もう食った?」
「いや?」
「いい時間だし食ってけよ。ピザ頼む予定なんだ。何枚食う? 三枚くらいいくか? いくよな?」
「そんなに食わねーよ。お前、オレが部外者だからって経費で落とすつもりじゃ」
「いくよな?」
眉を下げ、口角を上げたルークの目は笑っていない。自分が二枚食うつもりだな、こいつ。いいけどよ。
注文を任せて待つ間、隅っこでマットに直接座って他愛もない話をしていた。普段は何を食ってるのかとか、いつも何時に起きているのかとか、やけにオレの生活について聞かれた。まともな生活を送っていると思われていないらしい。見ている限り、こいつの食生活よりは絶対にマシだと言い切れる。
「お前みたいな飯ばっか食ってたら、おばあにお説教されちまうよ」
「いいじゃねえか。小言でも何でも言ってもらえて」
「まあ、そうだけどよ」
そんな風に言われてしまうと反論が出来ない。これが何も知らないやつの発言なら適当にあしらえるんだが――ルークの場合は本当に羨ましがってる可能性すらある。
子どもの頃に父親を亡くしていると聞かされたのは、出会ってすぐのことだった。どうやって鍛えるんだってくらい太い首に提げているドッグタグは親父さんのものらしい。
「おばあの説教は長いんだよ。お前も一回受けてみればわかるだろーよ」
「あいにく、俺はお前みてーな悪ガキじゃないんでね」
「嘘つけ。どうせ昔っから変わってねえだろ」
「はは、バレた?」
ルークは胡散臭く笑いながら頭を掻いた。余所向けの顔だが、それが逆に心地良い。
オレ達が一番深く触れ合うのは拳や足の先までだ。今日みたいに機嫌か都合が良い日は個人的な話をするときだってある。ただ、それだけだ。過去を明かしてもいい程度には気を許していて、まともに取り合うほど親しくもないし興味もない。
それでいい。それが、いい。
ダッシュイーツが配達した三枚のピザを二人で好き勝手に分け合う。二枚は味が違うから、やれどっちが美味いこっちも食えと手を出す。
この関係が最高じゃないっていうなら、何なんだ?