過去の話🌸🦐春。出会いの季節。薄紅に身を包んだ桜の花が、一斉に咲き乱れている。
それに溶け込むような、木々たちと同じ色の髪を持ったミューモン──サクラエビ族のクラッシュは、黒に近い深緑のベースケースを背中で揺らしながら歩いていた。
天気は晴れ。素晴らしき花見日和である。どこからか、歌声と共にギターの演奏が聞こえてくる。きっと、突発的な花見ライブだろう。この景色に気持ちが高められたミューモンが居たに違いない。興奮すると音楽を奏でたくなるのが、ミューモンという生き物だ。
クラッシュが、そちらを見に行ってみようか、と考えて足を止めたときだった。後方から声が上がった。
「ねぇ、キミ!」
「……わたし?」
首を傾げながら振り返る。声の主は、白から黒へ変わる髪をツインテールにしている、水兵服を着たミューモンだった。前髪の左側だけを編み込んでおり、クラッシュは兄を思い出すなぁ、と何となしに思う。
クラッシュの他に、周囲にはミューモンが居ないため、呼ばれたのは自分であろうとほとんど確信していたが、彼女に見覚えはない。思い当たる節はなく、ぱちり、とゆっくり瞬きをした。
「キミ、サンプの妹でしょ。ウチのバンド入らない!?」
あぁ、と納得がいった。兄のサンプは、この街ではそれなりに有名なミューモンである。ライブハウスでバイトする傍ら、様々なバンドのヘルプやらサポートやらに入っていたらしい。なんでも、ベース技術が特出して高かったそうな。
クラッシュは兄のベースを聴く機会は多かれど、ライブに行ったことがないためヒトづての情報だが、色々な噂を聞く限り、大きな間違いはないみたいだ。
そんな兄の妹だと知れば、クラッシュに白羽の矢が立つのも合点がいく。
身体ごと振り向けば、背中のベースケースがかた、と音を立てた。
「そうだけど……わたし、まだ始めたばっかだし、兄みたいには出来ないよ。せっかく誘ってくれたのにごめん」
「初心者なのはわかってる! それでも、どうしても入って欲しいの」
お願い! と手を合わせる彼女を見て、クラッシュは眉を下げた。
クラッシュは本当に初心者で、もはや才能があるとかないとか判断できる段階ですらない。未だ頭に殻を被っている状態だ。
どう考えたってバンドに入るほどの技量に達していない。
困った顔でクラッシュは、再度断りを口にしようとする。
「ごめん、お誘いは有難いけどわたし……」
「お願い!」
「だから……」
「お願いします!」
「あの、」
「ホントのホントにお願いします!」
「、えと」
「キミしかいないの!」
*
「と、言うワケで、新メンバーのクラッシュでーす!」
「よ、よろしくお願いします……」
(やっぱり、場違いじゃないかな……)
つい『キミしかいない』という言葉に釣られて頷いてしまったクラッシュは、落ち着かない様子で頭を下げる。頭の触覚はへなへなと芯を失っていた。
目の前にはクラッシュがたった今加入したバンド、『Un Silent Beach』──通称『潮騒』のメンバーが立っている。以前よりスリーピースバンドとして活動しており、クラッシュを勧誘した彼女はそのリーダーに当たるらしい。
彼女たちは、既にライブにも幾度か参加していると聞いた。つまり、ここにはクラッシュよりも経験と技術を持ったミューモンしかいないのである。初心者で、しかも勢いに押し負けただけの覚悟も目標もない自分が居て良い場所だとは思えず、クラッシュとしては大変居心地が悪い。触覚を帽子に無理矢理しまい込んだときのような、妙なむず痒さを感じる。
それに気が付いているのかいないのか、リーダーの彼女が、クラッシュにニコッと笑顔を向けた。
「クラッシュ固いな〜!……まぁいいや! 次こっちの自己紹介ね。ワタシはもうしたけど、一応改めて。潮騒のリーダー兼ギタボのメチ、カモメ族! よろしく!」
ぴょんっと跳ねれば、モノクロの毛先も元気に揺れる。確かにそれは羽を思わせた。
次は、とメチが視線を巡らせた先には、前髪を黄色のヘアバンドで後ろに流した少女がいる。綺麗な黒髪のロングヘアは、毛先で緩くまとめられており、スっと筋の通った表情が印象的で、随分おとなびている。
「アタシはナギラ。ウナギ族でドラム担当。このバカモメが無茶言ったみたいで悪かったね。……困ったことがあったら言って。主にそのバカ関連で」
「バカバカ言いすぎ! そこまでじゃないもん!……たぶん!」
ナギラが呆れた視線をメチに向ければ、メチは頬を膨らませた。文句を言っているが、完全に否定はできていない。自信はないらしい。
それを見て、赤茶けたショートボブのミューモンがカラカラと笑った。
「はは、あのふたり、幼馴染なんだって〜。いっつもあんな感じでじゃれてるから、気にしんでいいでね!」
訛りを含んだ声と、ふわっと笑う表情は朗らかで、それだけでこのミューモンの性格が伝わってくるようだった。
朱色の瞳をやわく弓なりに細め、口を開く。
「私はウミガメ族のカレッタ。ギターやってるよ〜。メチにめっちゃしつこく誘われたんだら? 私もそうだったもんで仲間だね! 根負け流され仲間!これからよろしく〜!」
「あはは、よろしく……」
クラッシュは笑って良いものか考えて、力のない苦笑に留める。流されてここに居るのが己だけではないと知って、少しだけ胸を撫で下ろした。
顔を上げれば、壁の肖像画と目が合って、うろ、と視線を彷徨わせる。目に入るのは学校の音楽室の風景だ。基本的にはスタジオよりも安く借りられるここを使っているらしい。
「なにか珍しいものでもあった?」
「えと、違うの。逆に、どこの学校もあんまり変わらないなって思って」
「なるほどね。ま、向こうも似たようなもんだよね〜」
「そういえばクラッシュって住んでるの南町だっけ?」
カレッタと話していれば、メチがこちらの会話に参加し始める。それに一歩遅れてナギラも隣に並んだ。
この街は一括りに『街』とされているが、三つの区分けがされている。いや、元々あった海沿いの小さな町が統合して出来た場所であるので、その名残りがあるという方が正しい。
クラッシュが暮らしているのは『南町』、ここは『西町』だ。正式名称は別にあるのだが、わかりやすさからこの呼び方が多い。もう一つ、内陸部が多く、他と比べればライブハウスなど商業施設が発達している『北町』もあるが、どこにせよ、立地が多少違うだけで海に面している田舎なところが特徴である。
「カレッタも南だよね。知り合いだった?」
「うーん、話したことはあんまりなかったけん、小学校も同じだったし、全く知らん訳じゃあないかな」
クラッシュもうん、と頷いて同意する。
クラスが同じだったこともある記憶があるが、正直ふたりで話したような覚えはない。カレッタは色々なグループをふらふら歩き回るタイプである印象があり、一所に留まりがちなクラッシュとは関わりが少ない。クラッシュの交友関係が狭すぎるとも言うが。
「……って言っても、たぶんクラッシュが思ってるよりはそれなりに知ってると思うけんね」
「えっ……」
驚いてカレッタに目を向けると、彼女は呆れとも、いたずらっぽいとも取れる笑みを浮かべた。
「ほら、お兄さん目立つじゃん。必然的にというか……」
「そういうことか。サンプって南町でそんな目立つ感じだったんだ?」
「う〜ん、なんでも出来るヒトだったからねぇ。周りが勝手に注目してたんだに」
「カレッタ! サンプ関連の話初めて聞いたんだけど!? 前にワタシが聞いても『知らな〜い』としか言わなかったじゃん!」
ちょっと! とメチがカレッタの肩を掴めば、カレッタはキュッと顔のパーツを中央に寄せてしわくちゃになる。
「だってメチに言ったら質問攻めにするら? 詳しくないのは確かだし、何よりめんどくさいし〜」
「しなっ……いやするけど! でもさぁ! バンド仲間の好でさぁ!」
「だからそれがめんどいんだって〜……」
「あーもう喧しい。離れろバカ」
ナギラがメチの襟元を掴んで引き剥がす。
その一連の流れを見ていたクラッシュが首を傾げた。
「メチはサン兄のこと、気になるの?」
「めっっちゃ気になる!」
「コイツ、貴方の兄のファン。割と厄介な方の」
「厄介じゃない!」
「強引に妹誘ってる時点で厄介なんだよなあ」
腕を振り上げるメチを、ナギラがあしらっている。クラッシュはそれを眺めながら、納得した顔で軽く頷く。
(だからわたしが誘われたのか。ただ上手いベーシストの妹、ってだけではなくて、憧れのミューモンの妹……)
初心者で実力もわからないクラッシュを、必死に勧誘するわけである。上手いベーシストは他に居れど、サンプはひとりだけなのだから。
「……なんか、自分の兄のファンが目の前にいるって、不思議な気分」
「あれ、でも、お兄さんが出演したライブで会うことも多かったんじゃない? なかなか慣れんものかもしれんけんさ」
「実は、兄のライブって行ったことなくて……」
「え、そうなの?」
「うん。来るなって言われてたの。夜に出歩くといい顔されないから、他のバンドのライブもあんまり」
クラッシュが「別に平気なのにね」と軽く笑いながら零す。つられてカレッタも「心配性だ」と笑えば、和やかな雰囲気が広がる。
そんな中、視界の端で、モノクロのツインテールが揺れた気がしてそちらを見やれば、メチが視線を下げて震えている。その様子に面を食らって、どうしたのか声をかける前に、パッとメチが顔を上げた。
「もったいない!」
「……うん?」
「せっかく……! せっかく、いつ出演するかも、どこのサポートに入るかもわからないサンプの予定を直接聞けるのに、観に行かないとかもったいなさすぎる……!」
砂を噛んだような表情で、グッと拳を握り力説するメチに、クラッシュの目が点になる。
ナギラが「貴方、話聞いてた? そのサンプ自身に止められてたって話だけど」と呆れたように言っても、「そんなんバレなきゃいいんだよ! 例え怒られても貴重な経験だよ!」と威勢よく言い返す。ナギラはドン引いた顔をしているし、カレッタは若干目が死んだ。しかし驚いてはいないので慣れているらしい。更にメチの前髪の編み込みが目に入る。
なるほど、メチが兄のファンなのは間違いないみたいだ。
「あ〜! 悔しい! ワタシのことじゃないのにめちゃくちゃ悔しい……!」
「そんなこと言ったってどうしようもないでしょうよ」
「そりゃそうだけど!気分の問題なの!……クラッシュ!」
「ひぇっ!?」
「ライブ行こう!」
「え、」
「サンプは出ないかもだけど、とりあえず観に行こ! ほら、ウチらがやるときの参考にもなるしさ!」
両肩を力強く掴まれ、ギラギラとした視線に晒される。
返答に困り、ナギラを見やれば「まあ、勉強になるのは確かだし、クラッシュが行けるならいいんじゃない」と肩を竦めた。
「わ、わかった。行ってみる」
「ヤッタ! どこのハコ行く!? どのバンド観る!!? ていうか今からッ、いっ……た〜!」
スパンッと子気味良い音を響かせながら、ナギラがメチの頭をはたいた。メチははたかれた箇所を抑えて唸っている。
「焦りすぎ。興奮しすぎ。今からは練習。わかった?」
「ハイ……」
ナギラの底冷えするような視線に晒され、メチはおとなしく頷く。バンドの実質のリーダーがわかった気がした。
そんなこんなでクラッシュ加入後の初練習がやっと始まったのである。
なお、カレッタはいつの間にかギターの手入れをしていた。なかなかに肝が据わってるミューモンみたいだ。
*
コンコンコン、と硬質な木製の扉をノックする。
「サン兄、ちょっといい?」
「……なに」
クラッシュが声をかければ、サンプはぶっきらぼうに返事をしながら自室の扉を開けた。いつもはキッチリ編み込まれている左側だけ長い前髪は、三つ編みが少し緩くなっており、いくらか毛束が遊んでいる。桜色のグラデーションがかかった後ろ髪も元々の癖毛のためわかりづらいが、よりフワフワとまとまりがないように見えた。
「ごめん、寝てた?」
「起きてはいた」
夕方の睡魔に誘われて昼寝をしていたが、しばらく前には起きていたといったところだろうか。クラッシュは適当に推測して流した。ノックで無理矢理起こしていないのなら良い。
「で、何か用」
「……時間あるときだけでいいから、ベース教えて欲しいんだけど……」
「おまえ、この間自力で練習するから別にいいって言ってなかったか」
怪訝な顔で問うサンプから、クラッシュはそろりと瞳を外した。
クラッシュは今日のバンド練習で、早急にベース技術を上達させる必要があることを強く感じたのだ。元よりわかっていたことではあるが、共に演奏をすれば、なおのこと色濃く己の実力不足が浮かび上がる。
それに何より、バンドメンバーたちの落胆が恐ろしかった。きっと、表に出すつもりも、クラッシュに伝えるつもりもなかったのだろう。知らぬ間に生まれた感情が零れた、といった風で、彼女たちはすぐに表情を隠して、切り替えてはいた。だが、それがよりいっそう一瞬の感情が本音であると物語ったのだ。
『サンプの妹なのに』
過去、幾度となく自身に放たれた言葉を思い出す。
今回は、まだチャンスが与えられている。メチは『ライブ出演の目標は夏!』とクラッシュに笑った。それまでに技術を向上させることは急務だ。今のままではライブに出ることなどできるはずもない。独学で練習したとしても、付け焼き刃にすらならないだろう。
クラッシュがベースの教えを乞えるミューモンなど、目の前の兄以外には存在しない。
以前、ベースを譲り受けた際に兄から打診があったが断っていた。そのときは、まだバンドに入るなど思っておらず、ゆっくり練習していけば良いと考えていたから。
しかし、状況が変わった。随分な手のひら返しだが、頼れる先が他にないのだから仕方がない。
「……ちょっと、夏までに数曲弾けるくらいにはなりたくて……」
「ふうん?」
少し考えるように口をへの字に曲げたサンプは、数秒の沈黙の後に「バンドか?」と問う。
クラッシュはギクリと身をすくませた。桜の視線がチラチラ舞うのを見れば、図星であるのは明白だった。
その反応に、軽く呆れた表情を見せたサンプだったが、ため息をひとつ零すと普段の仏頂面に戻り、自室に引っこもうとする。
「ま、待って……! その、確かにバンド入ったから早く上手くなりたいんだけど、それだけじゃないと言うか……ど、独学に限界を感じたから教えて欲しいと言うか……」
「……なにごちゃごちゃ言ってんだ。今からなら見てやるからさっさと入れ」
バンドに入ったことを反対されるのではと危惧していたクラッシュは、特に言及もなく了承したサンプに拍子抜けした。てっきり、何か言われるものだと思っていた。
しかし、どうして反対しないのか、などと兄に言えばやぶ蛇もいいところだ。疑問には思うが、こういうときは黙っていた方が良い。
「……ありがと」
それだけ言って部屋に入り、扉を閉めた。
*
結論から言って、兄を師事していればなんとか夏には間に合いそうである。
ただし、兄の扱きに耐えることを前提で。
兄の練習は基礎練に次ぐ基礎練と、慣れてきたらさらに基礎練を増やされる。基礎が大事なのは重々承知だが、限度というものがある。一度始めたら完璧主義な兄らしいといえばらしいが、凡庸な妹としては大変厳しい。さすがに毎日数時間連続でやっていれば飽きがくるのだ、普通は。クラッシュは飽きたとしてもサンプにせっつかれるため、たまの休憩以外ぶっ続けでやらされたが。速いだ遅いだ、その弾き方は癖が付くからやめろだ言われながら練習をし、よくもまぁ兄はこれを自主的にできるものだと尊敬と呆れがない交ぜになった。
最後には「身体にリズムを染み込ませろ。ベースは絶対狂わせるな」とのことで、メトロノームを渡された。四六時中聞いていろということらしい。
ついついしょっぱい顔をしたクラッシュだが、いくらキツくとも、夏に間に合わせるためにはやるしかない。あの兄ができると言ったのだ。その教えの通りやれば、なんとか形にはなるはずだ。
というわけで、もはや息抜きと化しているバンド練習である。いや、もちろん全力で取り組んでいるのだが、いかにせん兄との練習が前述の通りであるため、良い清涼剤になっているのだ。クラッシュとしては救われる心持ちである。
そんな練習後、メチがピッと指の間に挟んだチケットを見せた。
「クラッシュこの後空いてる? ライブ行こう!」
「突然ごめん。譲ってもらったやつだから時間調整できなくてね……」
満面の笑みのメチとは対照的に、ナギラは少し申し訳なさそうで、「断ってもいいから」と後に付け足した。
クラッシュは、これからの予定を思い起こすが、兄は仕事に行っているはずなので、家に帰ってからは自主練しかやることはない。
「大丈夫。むしろ誘ってくれて嬉しい」
「よっしゃ!」
「それ私の分もある?」
「もち! カレッタも行こ!」
「やった〜、どこのバンド?」
カレッタがギターを片付けながらそう聞けば、メチはフフ、と得意げに笑った。そして持っていたチケットの文字全体が見えるよう両手で広げると、バンド名が露わになる。
「『ラジイズ』だよ!」
*
ワァァア! と熱気の籠る歓声が会場を包んでいる。
サンプが以前所属していた、正しくはサポートに入っていたバンド『RadicaRise』、通称『ラジイズ』のライブである。
どうせならクラッシュが多少名前を聞いたことのあるバンドが良いだろうと、チケットを手に入れるためにツテを使ったのだ。極力そのツテを使いたくなかったメチの反発もあり少々苦労したが、その分楽しめるのだからナギラとしては問題はない。ここ近辺で人気なバンドのチケットを直前に入手するなど、その経由以外では不可能に近いのだ。
ナギラは音の振動をメロディシアンで感じながら、盛り上がる観客と眩いステージを後方から見ていた。
手始めの一曲が終わり、ステージライトが全体を照らすようにいくらか明るくなる。
「どーもオマエら、RadicaRiseだぜ」
ユルっとした陽気な笑顔で歓声を収めたのは、ギターボーカルの男だ。藍色がかった黒髪の長身でステージから客席を見下ろしている。
「オレらは、ア〜……ウン、それぞれ隣のヤツに聞けばそれなりに分かると思うから、紹介は巻きで」
男は歌っている間の華やかさや艶など捨て去って、少し考えてからあっけらかんと言い放つ。それに対して「しっかりやれ〜!」などと野次が飛ぶが、手をぷらぷらと振って「ヤ、だって適当言うとコイツはキレるし、ソイツには怒られる。良いことナシなんだわ。それよりも別のこと話したいし」とにべもない態度をとっている。コイツ、と示されたキーボード担当の少年は激昂しており、既に手遅れであった。
客席から更に野次が飛び、ソイツと呼ばれたドラムの男に何がしか言われたところで、ようやく心底面倒そうなため息を吐いて、男はマイクを握り直す。
「わァかったわかった、やるって! オレはマナツ。ボーカルとギターな。女の子のファンはファンレターにでも連絡先書いといてくれ。で、ソッチはドラム担当のルイード」
マナツがヒョイ、と腕で示した先にはドラムの前に座る、長い銀髪をポニーテールにした男がいる。ソロでドラムを叩き終われば、想像より柔和な笑みで手を振った。
「ドラム始めた理由は好きな子にフラれたから。怒ると怖い。次、キーボードとボーカル担当コトビ」
マナツの紹介に、ルイードが「ふざけんなよお前!」と声を上げるが、マナツは黙殺してマイペースに続ける。
次、と水を向けられたキーボードは、エメラルドの髪と、背中に半透明の羽を持った少年だ。先程の怒りがまだ冷めぬようで、短く切られた髪を揺らしながらキーボードを弾く手つきは、少々荒々しい。年は潮騒のメンバーより一つ下だが、その更に上のミューモンと演奏しても遜色なく、実力は折り紙つきだ。
「オマエらの好きな天才サマだぜ。チビだけど態度は一番デカい。以上。ヨロシク」
「お前はいちいち一言多いんですよ!」
「ホラ、すぐキレる」
コトビが堪らず口を出せば、マナツは彼の隣に立ち、どうどう、と小さな子供を窘めるように頭を抑えた。それがまた気に入らなかったのか、コトビはぎゃいぎゃいと文句を言って、ルイードが間に入るまで続いた。
(いつも通り、だなあ)
ナギラは彼らの会話をぼんやり聞きながら思う。
サンプがバンドを抜けてから初めてライブに来たが、彼らの様子にほとんど変化は見られない。狙っているのかは知らないが、野次が入る前提のマナツのMCに、観客そっちのけで始まるステージ上の言い合い、脱線した話を途中で修正するルイード。
毎度の如くしていた、サンプへの正式加入の勧誘は、彼が居ないためもちろんないが、雰囲気も流れも似たようなものだ。
違うとすれば、やはり演奏か。
他がいつも通りだからこそ、そのほんの少しの違いが際立ってしまう。
演奏自体はレーベルにスカウトされたこともあるバンドなだけあって、その完成度はプロにも見劣りしないだろう。結局その時のスカウトは断ってしまったらしいが、変わらずライブに参加しては場を盛り上げ続けている。
ただ、サンプが抜けてからは音のまとまりが弱いように感じる。バンドの土台のベースが抜けているのだから仕方がない。むしろその程度で済ませているのだから、メンバーの実力が十分にある証明でもあるとも取れるが、どうしたって、『もったいない』と思うのだ。
良い音楽が損なわれることが残念でならない。
プロへのスカウトが何かしらの分岐だったのか、それと同じタイミングでバンドを離れたサンプは、他のバンドメンバーとの間で方向性の違いがあったのかもしれない。はたまた元からそういう約束だったのか。本当のところなど、イチ観客であるナギラにはわからない。
のっぴきならない理由があったのでは、と思慮は出来ても、その音楽を失うことを残念に思う気持ちはなくならない。裏側の事情なんてものは所詮他ミューモンの事であり、観客に関係などないのだ。いっそ冷たく、ただ最高の結果である音楽を求めるのはミューモンの性だろうか。いや、自身が特別冷たいだけなのかもしれない。
ステージの喧騒を聞き流しながら、ナギラはつらつらと考える。
ちら、と右隣を見れば、件のサンプの妹であるクラッシュが目を輝かせている。楽しめているようで何よりだ。
早々に前方集団へ飛び込んで行ったメチとカレッタのふたりは、こちらからだと見つけられない。まあおそらく、彼女たちなら自由気ままに楽しんでいるだろうから気にすることはないか、と意識を逸らす。
バンドの裏側の事情など、観客には知る由もないのだが、その身内が近くに居るのであればその限りでは無い。きっと、正面から尋ねてしまえば、彼女が知っている分は答えを貰えるのだろう。
『何があってサンプはバンドを離れたのか』
『どうして彼らはプロ入りを断ったのか』
『バンドを抜けたサンプは、どこで何をしているのか』
『なぜ貴方がサンプのベースを使っているのか』
言葉が浮かんでは会場の熱気に溶けていく。
その疑問を実際にクラッシュにぶつけたことはない。ナギラが幼馴染のメチほどは熱心に追っかけをしていなかったことも大きいが、何より、彼女との距離を測りかねているのだ。
元来、ナギラの周りには、主張がハッキリとしたミューモンが多かった。そしてナギラ自身も、白と黒はキッパリ分けてしまうべき、と生きてきたために、自己主張の薄いミューモンとの関わり方がわからない。苦手である、と言い切ってしまっても良い。
出会ってまだ数週間。遠慮が残る言動も仕方ないのであろう。しかしながら、それに壁を感じて踏み込めないのも事実である。
せっかく縁あって同じバンドになったのだから、仲良くしたいとは思うのだ。
思うけれど、その壁に邪魔をされて躊躇いが生じる。
(メチくらいの勢いと思い切りがあれば……)
いや、とナギラは首を振る。あれはほぼ暴走機関車だ。それが上手く転がることもあれば、面倒な事態を引き起こすこともある。
メチが初日の練習後にクラッシュを質問攻めしていたが、明らかに彼女の勢いに圧倒されて答えられもせずに困っていた。メチも困らせるのは本意でないだろうに、興奮して周りが見えなくなっていた。彼女の悪い癖だ。
ナギラはそれを慌てて止めて、クラッシュを帰した後、彼女がもう少しバンドの空気に慣れるまで、特にサンプ関連の質問諸々は止めておこうとメチに話した。メチは少々不満気ではあったが、自分がその話題になると暴走する自覚が多少なりともあるのだろう。口を尖らせながら頷いた。
(サンプの話題が地雷って程ではなさそうだけど……何か、変なんだよね)
やけに遠くを見るような瞳を思い出しながら隣の薄茶の頭を見下ろしても、答えは返ってこない。口に出していないのだから当たり前だが。
マナツのMCにふふ、と笑っているクラッシュを見ていれば、彼女は視線に気が付いたのか、どうしたの、と言うように首を傾げた。
それにナギラは「なんでもない」と返事をしてステージに向き直る。前列の観客と話し始めていたマナツをルイードが立ち上がらせたから、もう二曲目が始まるはずだ。
クラッシュは不思議そうな顔をしたが、瞬きを一つすれば、切り替えて同じようにステージに集中する。
さて次はどの曲が、と考えるまでもなく、カウントが始まり、会場は音の濁流に呑まれる。
足場の足りない演奏は、未だ不安定なナギラたちのようでもあった。