キミは始まりのミーティア 前編 4(1) その日は、耳が痛くなるほど静かな夜だった。雲が月を隠し薄暗い、雨が降ってきそうな空をしている。いつもより肌寒い空気に、何か羽織るものはとクローゼットの中を覗いていた時だ。バルコニーに面した窓を、誰かがノックした。
一瞬フロイドの顔が頭をよぎったが、彼はあの日以来、学園から離れてしまったと聞いた。
(じゃあ誰が?)
恐る恐るカーテンを開けると、黒いフード付きの外套を着込んだ人が、箒を手に立っていた。一瞬、anathemaの人間かと警戒するも、見慣れた銀髪がフードの隙間から見えて、ボクは警戒を解いた。
「アズール、こんな時間に急に……びっくりするだろ」
急いで窓を開けると、辺りを警戒するアズールが、夜闇に紛れてボクの部屋に入り、外から見えないようにカーテンを引いた。そこまでしてやっと息をついて、アズールはフードを脱いだ。その顔にいつもの眼鏡はなく、少し印象が違って見える。それよりも……
「キミ、酷い顔色だよ。少し掛けて待っていて、すぐ温かいハーブティーを淹れるから」
得意でない飛行術で必死にここまで来たのか、今のアズールの顔は見て分かるぐらいに顔色が悪い。お湯を沸かそうと、部屋についた簡易キッチンに向かうが、アズールが「待ってください」とボクを止めた。
「時間が有りません、今すぐこれに着替えてここを出ましょう」
鞄から取り出された洋服と、アズールが着ているものと同じ外套、そして靴などを押し付けるように渡され、とうとうこの日がやってきたのかと、緊張した面持ちでその服を広げたが、これは……
「アズール、キミ……これって、女性の服じゃないか!?」
襟の詰まった茶色のチェック柄したロング丈のリネンのシャツワンピースに、白のケーブルニットベスト、そして爪先が四角い茶色のショートブーツ、派手ではながどう見ても女性用だ。これをボクに着ろと言うのか!?
カッと顔が熱くなり唸るボクに、アズールは至極真面目な顔をして、子供に言い聞かせる様に話す。それがまた腹立たしかった。
「いいですかリドルさん、あなたはここを出た瞬間から『リドル・ローズハート』ではなくなります。子供を産んで育てるなら、当面の性別は女性だと思われた方がいい……」
「それはそうかも知れないが……だけど……!」
眉間にしわを寄せて服を見ていると「早く着替えてください」と再度急かされ。ボクは渋々、サイズピッタリの洋服に腕を通した。その上に羽織る黒い外套には、認識阻害と防魔加工の施され、襟元に小さく S.T.Y.X. ロゴが入っていた。
(イデア先輩に借りたのか? 〝あの〟アズールが??)
それだけじゃない、普段のアズールなら飛行術でここまで来れるはずがない。弱いはずの視力が眼鏡を掛けなくても大丈夫の事も。彼が内包する魔力にも、別の誰かの魔力が混ざっている。それに外套の袖からチラリと見える彼の指や腕には、大ぶりの魔法石が嵌め込まれたアクセサリーがいくつもついていた。アズールの資金でも簡単には用意できないレベルのそれに、友人や先輩の顔が浮かぶ。ボクを逃がすために、手を貸してくれた人がいた事や、その手を借りるために、彼は頭を下げて回ったんだろうか?
ぼんやりと立ち尽くしたボクの頭に、アズールがフードを被せる。
「あなたの赤毛は目立つんです、落ち着くまでは髪を隠すようにしてください」
「わかったよ」
前もって持って行ってもいいものは、足跡が辿れないものだけと言われていたため、ボクは財布の中に入っていた少しのお金だけを、どこにでもある布に包みポケットに入れた。
「本当にそれだけでいいんですか?」
流石のアズールも、ボクがこれだけしか持ち出そうとしない事には驚いた。
この部屋にあるものは、確かにどれも大切なものばかりだった。いつから身につけていたか定かでない王冠のバッジも、勉強のために何度も読み返した本も。お気に入りの出版社から発行されているクロスワード雑誌や、友人や寮生がくれた誕生日プレゼント。その中に混ざる、飾り棚に並んだフロイドからのプレゼントを目に焼き付ける。
大丈夫。思い出はきちんと、ボクの心の中にあるんだから。
身分証と、ナイトレイブンカレッジの学生の証明であるマジカルペンを机に並べておいた。後は迷惑をかけてしまうが、トレイに任せるしか無い。
「大丈夫だよ」と返せば、アズールはボクの手を引いてバルコニーに連れ出した。立て掛けてあった丈夫な箒は、二人で乗っても十分なサイズだ。使い込まれた飴色の箒は、躾も行き届いていて安定感がある。
「今からハーツラビュルの鏡を抜け、鏡舎から学園の外に出ます。外套に認識阻害が掛かっていますが、それでも人に見つからないように気をつけて下さい」
アズールの言葉に頷くと、彼が箒に魔力を流すと、正しく箒に伝わり浮かぶ。ここまではいつも大丈夫だが、コントロールはどうだろうと思えば、それも今日は安定している。ボクの部屋のバルコニーからゆっくりと降下した箒は、ボクたちを安全に鏡の間にまで運んでくれた。
飛行術が得意な生徒から借りたと言ったアズールは、見事な運転技術とは反対に酷く青い顔をしている。ならどうしてそんな顔をしているんだと聞けば「高さと、足元が不安定なのが駄目なんです」と口元を押さえた。せっかくこれほどの運転技術を借りているんだ、景色の一つも楽しめないのは本当に不憫だ。
ハーツラビュルの鏡の間から学園の鏡舎に繋がる鏡に出ると、警戒したアズールが、夜闇に混じり辺りを見回す。物陰に隠れながら鏡舎の外へ出、裏の森に身を潜め一息つくと、アズールがカバンから一本魔法薬を取り出して一気に飲み干した。
「では、もう少し学園の端まで移動してから、箒で北西に出ます。島を離れたら『anathema』の手の者に追われる可能性があります。今以上に、警戒だけは怠らないでください」
「分かった、マジカルペンが無いけれど、ブロットが溜まらない程度の魔法ならボクも使える、何かある時は任せておくれ」
ボクの言葉に、アズールが眉間にしわを寄せる。
「子供の事を最優先に考えて、絶対に無理をしないでください」
心配されて、ボクはまだ薄い自分のお腹を撫でた。
ほんの二日前。自分で行った魔法検査で、お腹に宿った命を確認したばかりだった。もちろん、まだ二人のうちどちらの子供かは分からない。
アズールの中で、まず先に妊娠を確認してからでは逃しようがないと悩んでいた所に、ボクが妊娠を報告したものだから、逃げるのはanathemaに気づかれない今しかないと決行したらしい。
ちなみに、この検査結果を聞かなければ、妊娠確率の上がる秘薬を使って、孕むまで毎日抱くつもりだったと冗談か本気かわからない顔で言われてしまって、ボクは固まってしまった。
箒で出発する前に、アズールがボクの腰と自分の腰をロープで繋ごうとするが、お腹に子供がいるのに腰にロープを巻くことに抵抗があるのか、結ぼうとボクの腰に回した手が止まる。
「大丈夫だよ、ボクの子ならこれぐらい、我慢してくれるよ」
そう言って、彼の手からやんわりとロープを奪い、腰を縛った。
「なるべく無理のない様に、あなたを送り届けるので」
「送り届ける? どこに?」
「それは今は言えません。ただ、今より多少不自由ではあるかもしれません。けれど、リドルさんと子供の安全だけは絶対に保証出来る場所です」
真剣な彼の目に、ボクは頷いた。
「わかった……アズール、キミを信じるよ」
* * *
月の隠れた夜は、海の色を深い黒へと塗りつぶした。見下ろすと真っ暗な海が広がって少し怖い。
ナイトレイブンカレッジから箒に乗って飛び立ち、三時間弱、北西に向かって空を飛んでいた。
このまま進めばいずれは陽光の国の最北端に着くだろう。この頃には、さすがのアズールも高さに慣れたのか、顔色が少し戻っていた。
何も起こらず、目的地に着くことを願うボクたちの前、黎明の国と陽光の国との国境境で、それは起こった。
今にも降り出しそうだと思っていた雨が、ついに降り出したのだ。
ザァザァとボクたちに降り注ぐ雨は、強く外套越しに皮膚を叩く。視界も狭まり、遠くに落ちた落雷に視界を一瞬奪われそうになる。
ここまで三時間近く箒を操っていたアズールの集中力も、この雨の中だと限界だろう。そろそろ運転を代わるべきだ。
「アズール、そろそろ運転を代わ……!?」
声をかけた途端、アズールが何かの気配に気づいた。箒の角度をグッと変えて逸らした先に、渦巻く水流が飛んできたのだ。
「ついに来たか!」チッとアズールが舌を打つ。
気流と豪雨で、箒のコントロールが難しい中での奇襲に、ボクはアズールの外套、肩の部分にあるペンホルダーから、彼のマジカルペンを抜いた。
オクタヴィネルの魔法石は、ボクの魔力四◯パーセントの相性しかないがこの際仕方ない。箒の上で後ろ向きに座り直し、ボクはペンを構える。
「ボクに奇襲をかけるなんて、言い度胸がおありだね!」
敵は十人、まだブロットに染まり切っていない魔法石なら、相性が合わなくてもどうにかなるはずだ。
雷雨の中、水では掻き消されない熱量の火球を魔法で練り上げ敵の箒の穂先に向けて飛ばす。火球は一気に燃え上がり穂先を焼き尽くし、三人海に沈んだ。
次に四人、ボクたちの箒を取り囲む。至近距離では火魔法を使えば、ボクたち自身も危ない。それを見越して取り囲んだのだろう。だが、そんな事で魔法を使えるボクをどうこうできるわけがない。
マジカルペンを振るい、天空から光の塊を降らせる。白い閃光に箒のコントロールが乱れた瞬間、ボクは唇の端を持ち上げる。まだだ、ボクの子を狙うような組織なら、徹底的に、ボクに楯突くということはどういうことか分からせなければならない。
「判決を聞かせてあげよう、評決はあとだ……覚悟はいいかい? 『首を刎ねろ!』」
金属音が響き、ボクの首を刎ねろで魔法を封じられた男たちは、先程に落下したお仲間と同じく、虚しく海面に吸い込まれた。残りは三人……しかし、アズールのマジカルペンに付いた魔法石は、濃いインク染みで汚れ、もう使えそうにない。
後三人は、ボクの魔法に警戒して、距離を取って飛んでいる。どうすればと……このタイミングで、アズールが声を上げる。
「リドルさん箒のコントロールをお任せしても?」
「ああ、分かった! 任せておくれ!!」
アズールのコントロール下にあった箒に僕の魔力を流すと、箒の制御がボクに移る。残り三人の敵から一定の距離を保ち飛んでいると、アズールが召喚魔法で箒を三本取り出した。それぞれの箒を浮かせ、詠唱を始める。
「オレはコイツで、コイツはアイツ。『舞い散る手札』」
「ケイトのユニーク魔法!?」
浮かせた箒の上、アズールは自分の分身を六体用意して、雷鳴がほとばしり空が一等暗くなった瞬間、その場から各々別の方向に散らす。ボクたちはそのうち一体の影に隠れるように身を潜め、いいところで切り離し、ボクらとは別の方角に向かわせた。
「これで、なんとか撒くことが出来ましたね」
海の上に浮かぶ、切り立った岩の島に降り立ち、ボクとアズールは安堵から息をついた。握ったままだったアズールのマジカルペンも、アズールが指につけたリングも、どれも魔法石が酷く汚れ使えそうにない。
「大丈夫ですよ、魔法石のストックはまだあります」
アズールが魔法で温風を起こし、ボクや彼自身の身体に付いた水滴を弾き飛ばし、しばしの休憩だと、鞄から体力回復の魔法薬とサンドイッチを取り出した。魔法薬をちびちび飲みながら、ハムと卵の挟まったそれを口にすると、胃の中が暖かくなった。
「……おいしい」
ぽつりと呟くと、アズールが「そうでしょう、僕が作りましたからね」と嬉しそうに笑った。
「アズール……もしかしなくても、トレイやケイトに、ボクが学校を出る事を言ったのかい?」
「……いいえ、ボクは直接的にあなたの事を口にしていません。ただ、ケイトさんにユニーク魔法を貸して欲しいとお願いしただけです。その時にトレイさんも一緒におられましたが、お二人共リドルさんの事は何もいいませんでした」
けれど、察してはいたと思いますと、アズールが言葉を付け足した。
アズールと契約した後も、二人は察した上でボクに何も言わず、いつも通りに振る舞っていてくれたのか……
鼻の奥がツンと痛くなって、ボクはぐっと歯を噛み締め、残りのサンドイッチと魔法薬をお腹にしまい込んだ。
その頃には、雨が少し止んでいた。
「ケイトさんのユニーク魔法を解除しました。『anathema』の連中がまた直ぐに戻ってくるかもしれない、ここを早く発ちましょう」
ボクは頷いて、アズールの箒の後ろに跨った。