すき焼き食う話給料日、と聞いて旬はすぐには理解出来なかった。
それそのものはもちろん知っているが、以前は日雇い労働者とも言えない稼ぎ方をしていたこと、反面現在はドッカンドッカン使い切れないほどの金が入ってくること、どちらを合わせてもその言葉からは縁遠い。おかげで、自分だけではなくハンターという職業に給料日なんてものがあるとは今の今まで思ってもいなかった。
だから、白川から給料日なのでうんぬん、と誘いをかけられて頷きはしたものの、どこに何をしに行くのかは全く覚えていなかったというわけだ。
普段着よりも少しだけ品の良い格好をさせられて、ビル群の合間にあるなんの変哲もない雑居ビルの一室に連れて行かれた。格好と場所が結びつかなくて、扉を潜るまではわざわざ堅苦しい格好をさせられた不満が少しはあったが、その中は趣ある小綺麗な日本家屋風の造りになっていてひとまず溜飲が下がる。
小さな一室に四席ばかりのカウンターと四人がけの座卓ふたつがある小上がり。それだけの店内だ。予約をしていたらしく、小上がりの奥側に通されて座って一息。さて注文を決めるかと周りを見渡して一切メニュー表の様なものがないことに気づいたぐらいで、きっちりした着物の女性がコンロと鍋を運んでくる。
鉄器でそれほど深さのない鍋。次いで、肉や野菜などが並び、コンロに火がつけられると肉の横に添えられていた牛脂が鍋に落とされた。
旬が、すき焼きか、と得心に頷いている間に店員の女性が薄く酒と醤油を敷いて肉を焼き、旬と白川それぞれに配する。
「こんな、本格的なすき焼き初めてです」
「それはよかった。ここのは旨いですから、たくさん食ってください」
「はい。いただきます」
擦り切れてしまっていないのが不思議なほど薄く切られた肉は、一口で食べた口の中でじゅわ、と脂を吐き出しながら解けた。その絶妙なタイミングで日本酒が配される。向いに座る白川が乾杯のためにグラスを掲げるので、合わせてグラスを持ち上げて乾杯した流れでその酒を飲むと、強いアルコールの匂いと舌の根が痺れそうな辛口の味が肉の脂の甘さを流し去った。
「……うま」
アルコールは分解されてしまうが、味まで分からなくなるわけではない。いつの間にかまた焼かれて皿に盛られていた肉と酒が交互に止まらず、また、つきっきりで給仕してくれている店員の対応するタイミングが完璧だった。飲まされて、食わされていることを悟らせないごく自然な給仕に、旬の箸も進む。
しかし、それほど多く肉を食う前に、黄金色のだし汁を足した鍋に今度は野菜や豆腐が投入された。定番の具材は人通り揃っているが、鍋の中に入れられたそれぞれの量はそんなに多くない。案の定、旬と白川がひと口づつを食べたらまた鍋は空になってしまい、残念に思っているうちに再び肉が焼かれ始めた。
「こんなふうに、目の前で作ってもらうのは新鮮でしょう」
「そう、ですね。ちょっと、慣れないせいか緊張してます」
すき焼きも酒も、旨いのだ。けど、緊張もしていた。こんなに立派なところなんだから何か粗相をしてはいけないと、背中から力が抜けない。そしてそれが照れ臭い。
瞬く間にヒーローとなって世界中から注目されているあの水篠旬の、どこにでもいそうな純朴な青年の顔を見てしまった店員が控えめに笑う。白川は白川で、その顔が見たかったとばかりに崩れた相貌で旬のその顔を噛み締めた。
もともと上げ膳据え膳の店だが、そこに白川まで加わってもてなされた旬。旨い旨いと言って食えば食うほど喜ばれ、ただただ旨い飯を堪能しているだけで良かった。
本当に、旨かったからこそ、余計にタチが悪かった。
食事を終わって店を出て、白川の家に帰ってからも言い出せないままずっと腹の奥にあったのは、甘辛い汁と混ざった卵への渇望だ。
そういうわけで、次の週末。もちろん給料日などでは全然ない日。あの日あの店で食ったのと同じ材料を近所のスーパーで揃えた旬は、白川の家でホットプレートに電源を入れていた。焼肉用に凹凸のある鍋があったり、たこ焼きプレートがあったりするそのホットプレートは、少量のカレーなどを作るにも最適の謳い文句があるようにただのホットプレートよりも底が深い。もちろん、すき焼きをするには十分だ。
「そんなにすき焼きが気に入ったんですか?」
つい先週食ったばかりのすき焼きを、わざわざまた家でしようとしている旬に、白川が不思議そうに尋ねる。
「あれは……その、俺の知ってるすき焼きとは全然違うものだったので……」
いわゆる魯山人風のあのすき焼きは、一切砂糖や味醂が使われていなかった。食材が高級だからこそ、わざわざ甘味をつけなくても醤油のしょっぱさがくどくなり過ぎずに食えたが、きっと家で食うには向かないだろう。
あれはあれで旨かった。文句のつけようもない。ただ、自分の知っている味を思い出してしまった旬の自業自得だ。しかし、白川を巻き込まずにはいられなかった。
「白川さん、家ですき焼き食ったことあります?」
「いえ、実はないんです。ハンターになるまで焼肉と寄せ鍋ばかりで、すき焼きを食ったことないと言ったらスポンサーにあの店を紹介していただいて」
「だと思いました。でも、このスーパーの安売り肉のすき焼きも好きだと言い切れます」
旬には自信があった。
たとえ特売品でスジばかりの肉でも、丁寧に包丁で叩いて下拵えをしてやればあとはどうとでもなる。
鍋に水を入れて昆布と鰹節から出汁をとり、醤油と砂糖をたっぷりに味醂と酒と塩を少々。そこに肉も野菜もきのこも豆腐もこんにゃくも、全部一緒にぶち込んで、煮る。あの店のものに比べてとても乱暴な作り方に白川が目を丸くするのを横目に、とんすいに卵を割り入れて軽く溶きほぐしておく。ちなみに申し訳程度に用意した缶ビールはテーブルの端に追いやられたままだ。
「肉はもう良いと思います。卵を絡めて食べてください」
「は、はい。では、いただきます」
ホットプレートの火を一番弱くして、くつくつくつくつ汁の揺れる音を聞きながらちょうど良く炊けた米を混ぜっ返しながら丼に盛った。丼だ。茶碗など使うわけがない。
黄身の濃い色が絡んでテラテラ光る肉を口に放り込んだ白川が、カッと目を見開く。そしてその手がビールの缶に伸びそうになるところに丼を差し出してやると、まるで救世主を見るかのように感極まった顔でそれを受け取った。
旬は、まだ自分が食っていないのに満足していた。この反応に満足しないわけがない。
鼻歌でも歌いそうな気分で、自分も肉と少し中側がとろっと柔らかくなったネギを取って卵に潜らせ、それを米にワンバン。肉とネギを放り込んだ口をそのままぐわっと開いて汁で茶色くなった米も入れる。これが旨くないわけがないのだ。
それから、競うように鍋の中身と米を食った。炊いた米が無くなれば、絶対に要ると思って一緒に買ってきていたうどんの出番だ。肉も野菜も追加して、うどんは少し長めに煮る。肉の脂と甘辛い汁をたっぷり吸ったうどんはふわふわなくらいでちょうどいい。味が濃いのに歯応えだの喉越しだのがあると些か重たい。
最後の一欠片まで丁寧に掬って満腹の腹を抱える。なのに名残惜しそうに残った汁を見る白川に、旬はニヤリと笑った。
「明日は、ここに米と卵を入れて雑炊を作ります」
「……天才か?」
衝撃を受けてふらりと倒れた白川を、旬は重たい腹を抱えて大いに笑った。