ホットケーキ食う話休みの日の朝は、昼近くまでゆっくり寝坊するのが気持ちいい。日頃節制をしているからこそ、たまには目一杯だらしなくなってもバチは当たらない。それが白川の考えだった。
普段の習慣で朝方に一度目が覚めていたが、二度寝をして太陽が空のてっぺんに近い時間に自然と目が覚めるまで惰眠を貪る。むしろ寝過ぎて体はだるいくらいだが、それこそが醍醐味だろうとさえ思っていた。重たい遮光カーテンを開けて差し込む太陽の光でまだぼんやりしていた目を覚まさせると、ようやく寝室を出る。
リビングには、白川が寝そべることも出来る大きなソファを贅沢に独り占めする旬がいた。昨日レイドがあるからと誘っても家に来なかったのに、いつの間に来ていたのだろうと首を傾げながら歩み寄る。
「おはよう、旬」
「もう昼だぞ。おはようって時間じゃないだろう」
「俺は今起きたんだ。おはようでもいいだろう」
つまらなさそうに白川がインタビューに応じたことで送られてきたファッション誌の献本を捲っていた旬は、口では文句を言いながらもいそいそとその雑誌を閉じてソファに白川が座る場所を作るために足を折り曲げた。
「昨日疲れてるからって来なかっただろう。なのにどうしたんだ?」
「特に意味はない」
「なんだ、俺の顔が見たくなったから、くらい言ってくれてもいいだろ」
「っそ、んな、恥ずかしいこと言うわけないだろ」
すでに顔を赤くさせてどもりながら言っても可愛いだけだと、この年下の恋人はいつ気がつくのだろうと白川はいつも不思議に、かつ楽しく思っている。
立てた膝を抱えるように手をかけて、くるくる両手の親指同士を交互に回している仕草が白川のいたずら心をくすぐった。膝にもたれるように腕を置いて、決して白川と目を合わせようとしない旬の顔を覗き込む。
「そう思ってたのは、否定しないんだな」
にやっと笑った白川から、旬は飛び跳ねながらソファを降りて逃げ出した。悪態すら吐く余裕がなかったのかと隠さず笑い声をあげる白川の頭に、見事なコントロールでプラスチックのコップが飛んでくる。コンッと軽い音の割に痛かったが、なんとか落とさずキャッチ出来た。寝起きなんだから水分を取れ、という優しさの混じった照れ隠しと解釈して、ありがたくテーブルの上の水差しから水を注いで飲む。
さて、キッチンに逃げ込んでいた旬は、深く深呼吸を繰り返して気分を落ち着けていた。ちょっと前の白川は旬の関心を引くためにとにかく優しい尽くす男だったが、最近は旬が絆されきったと安心しているのか少々意地悪になっている。自分が物慣れないことを自覚している旬は、そのせいで調子に乗っている白川になんとか一矢報いたかったが連敗を重ねる日々だ。
「白川さんって、朝から甘いもの平気な人だったっけ?」
「うん? 食えるんならなんでも良いタイプだぞ、俺は」
「それっぽい……」
体が資本の仕事なのだから、いつでもなんでも食べられることは大事だ。ゲートの外にいればなんでも不自由なく手に入れられるが、もしもレッドゲートにでも入ってまともな食料もないまま数日や数週間を過ごさなければならなくなれば、泥水を啜り木の根を齧ってでも生き延びることを優先させなければいけないと、白川は身に染みて知っている。
そんな重い覚悟は必要としていないが、これは人によっては必要だったかもしれない。
「じゃあ、昼飯にホットケーキ焼くから」
「ホットケーキ? いきなりどうして?」
「食べたくなったから」
「ふうん?」
勝手知ったる彼氏の家。旬は我が物顔で大きな冷蔵庫を開けて、ここにくる前に買って来ていたらしいバターと、元から入っていた牛乳と卵を取り出す。それからバターと一緒に買ったらしいホットケーキミックスは、白川が気づかなかっただけでカウンターに置いたままだった。
ごくシンプルな材料が揃って、興味を惹かれた白川がカウンタースツールに腰掛けたところで待ってましたとその前にボウルと泡立て器が置かれる。
「メレンゲ泡立ててくれ」
かっかっか。ボウルのすぐ横の天板に卵が打ち付けられて、ふたつに割れた殻を使って器用に卵黄と卵白が分けられる。卵2個分の卵白と砂糖少々が入ったボウルを、さあどうぞと更に白川の方に押し出された。
白川の家に電動泡立て器なんてものはない。料理をしないからこそ、レンジで温めるだけのパウチの惣菜だとかをストックしておくために大きな冷蔵庫を選んだくらいなので、そもそもまともな皿さえ旬がここで料理をするようになるまでなかった。いわんや調理器具をや。鍋もまな板も包丁も、このボウルや泡立て器も、旬に言われて旬のために揃えた。
つまり、いくら最上級のハンターで疲れるわけではないとはいえ、気分的に面倒くさいメレンゲ作りは調理器具を揃えていない白川が責任を取ってしなければいけない。
大人しくボウルを抑えて泡立て器を持った白川に頷いて見せて、旬は牛乳を量る。きっちり計量カップに注いで、それをまた別のボウルに移す。それをふたつ分。卵黄をひとつずつ入れて、片方にはもうひとつ卵を割り入れた。
流石に泡立て器はひとつしかないので、2本背中合わせに持ったフォークを使って牛乳と卵を混ぜたところに、ホットケーキミックスをそれぞれ一袋入れる。ゴムベラでさっくりさっくり混ぜて、粉の白い塊がなくなるかなくならないか、と言ったところ。卵を追加した方はそれで生地の準備は終わりなので、メレンゲが出来上がるまでに焼いてしまおうとフライパンを火にかけた。
溶けたバターのいい匂いがして、白川の腹の虫が大きく鳴く。しかし開き直って仕方ないだろうと言う顔をするので、旬は思わず吹き出してしまった。
「あと5分待てば、1枚目が焼けるから」
言いながら、バターが溶け切って焦げる直前のフライパンを一度火から離して、濡れ布巾の上で落ち着かせる。弱火にしたコンロの上に戻して高い位置から生地を落とす。じゅわ、と言う音がまた食欲を唆る。
その旬の行動を、腕はしっかりとボウルの中身を掻き回していながら身を乗り出して追う白川は、今だけは虎というより犬のようだった。
しゅわしゅわとバターと生地が馴染む音が落ち着いてしばらくすると、生地のはしっこにふつふつ空気の抜ける穴が空く。それくらいになると生地をさわってしまいたい気持ちになるがグッと我慢して、全体にまで穴が広がるのを待たなければいけない。とはいえ待ちすぎると焦げてしまうので集中と忍耐の勝負になる。そうしてトーストが焼けるのに近い匂いがしてきた瞬間に、旬は素早くフライ返しを差し込んで勢いよく生地をひっくり返した。白川が小さく、おぉ、と感嘆の声を漏らす。
この焼き加減が甘いと、焼けている面が柔らかくて割れてしまったり、固まり切っていないところがこぼれ落ちてしまったり、とにかく悲惨なことになる。ひっくり返し方もきちんと真ん中に着地させなければ、縁に当たった生地がわかりやすく言ってパイ投げのパイと同じ運命を辿ってしまう。その点、旬は完璧だった。フライ返しによってフライパンから浮かされた生地は、燕返しもかくやの勢いで裏表を入れ替えられて、真下に待ち受けるフライパンに吸い込まれるように再び戻った。
そして待つこと2分ほど。裏側もしっかり焼けてホットケーキになった生地を皿に移して、バターをひとかけ。シロップは好きなだけどうぞとボトルのまま一緒に渡して、入れ替わりにしっかりツノの立ったメレンゲのボウルを受け取った。
「お先にどうぞ。俺の分もすぐ焼けるから」
今日ここに来てすぐに作っていた玉ねぎのコンソメスープと、茹でこぼしたササミを裂いてレタスとブロッコリーと一緒にしたサラダもカウンターに並べる。ドレッシングは旬特性刻み玉ねぎとオリーブオイルとポン酢で作ったイタリアンドレッシング。以前使いきれなかった玉ねぎの始末がついて一安心したのは内緒だ。
そしてホットケーキの方はと言うと、残った生地を同じ流れでプライパンに流し込んでから、焼ける間にメレンゲを入れるもう一種類の用意をする。生地にメレンゲを入れるとかメレンゲに生地を入れるとかあるが、とりあえず数回に分けてメレンゲを潰さないように混ぜられればひとまずの格好はつくので、旬はそれほどこだわらない。だってそこまでするほどホットケーキに情熱はないのだ。たまに食いたくなるだけで、食えればなんでもいいのは旬も同じだ。
焼き上がったオーソドックスな方に自分はバターを白川の3倍は乗せる。それが溶けたところにシロップをポタポタ落として、フォークでちぎりながら食べる。シロップは適宜追加。そうしながら、メレンゲ入りの生地を、今度はぽってり小さめサイズでバターを敷き直したフライパンにふたつ分乗せた。さっきは使わなかった蓋をして、じっくり火を通す。
待っている間にスープを飲んでサラダを摘んで、ついでにコンロをもうひとつ使ってベーコンを焼いた。厚目のベーコンは表面をカリカリに、中は油がじゅわじゅわ滲み出る柔らかさ。それが焼けるくらいにホットケーキの方はひっくり返せるくらいには火が通っていて、今度は優しく裏返した。勢いをつけすぎると潰れてしまうので。
そうして焼けたメレンゲ入りふわふわとろとろホットケーキにベーコンを添えて出してやる。
「メレンゲに砂糖入れただろ。だからさっきのより甘くなってるから、シロップいらないと思う」
まあ好みでかければいい、と言い置いて、旬はさっさと自分の分に取り掛かった。
残された白川は、まずは言われた通りシロップをかけないで一口サイズに切ったベーコンとホットケーキを一緒に食う。そういえばこれにはバターも乗せてない、と思いながら、塩っけはベーコンで十分か、なんて思い直す。余所ごとを考えていたからか、ひと噛みするかしないかのうちにじゅわっと溶けたホットケーキに、残ったベーコンだけを噛みながら訳がわからないと言った顔で皿の上を凝視した。
期待通りの反応に、旬は満足げに頷く。残ったサラダをジャクジャク噛み締めながら、緩みそうになる口元を誤魔化した。
きっと、白川はメレンゲホットケーキを食べるのは初めてだろうと思ったのだ。案の定、それがどんなものか知らない白川は驚いた顔を見せてくれた。首を傾げつつ次の一口を食べようとナイフを入れるところ見て、さっきは気づかなかったらしい手応えのなさにまた驚いて肩を跳ねさせるのを、どうせなら動画でも撮っておけばよかったと思いながら眺めていた。
旬は、そして白川も、同じ様なことをしていると最後まで気づかない。