祝祭 #2潔世一と紬が二人で話していた同じ空のとある日の昼下がり、30を過ぎても現役のサッカー選手としてフランスに在籍している糸師凛はある事のせいで、劣化の如く憤怒していた。まぁ、凛に限ってはいつでも怒っているようなものなのだが、今日はその比ではないほど腹の虫が治らず、先ほどからずっとタタラを踏んで貧乏ゆすりを繰り返している。
その時の機嫌は一瞬にして豪雨になりそうだったが、そんな凛の態度を嘲笑うように、いつも影っているフランスの空は青く染まっていた。太陽の光がチュールのように青い空を装飾している様はまるで”あいつ”がサッカーで凛のことを見ている時のようで更に腹が立ち、青い空を閉じ込めた窓の前にいる兄に舌打ちをうつ。
そんな、不躾な態度を見ても兄は当然というように、というより少し呆れて”そんなに怒るなら今すぐ事実確認でも何でもすりゃあいいのに”と凛がつゆほどの優しさで出してあげたコーヒーを啜っていた。急に押しかけてきて茶の一つを出せと言われたかと思えば、出したコーヒーに”薄いな”と渋い顔をして我が物顔なお兄様に怒りが沸いたが、それよりも冴が言っていたことも一理なので押し黙る。冴は凛がいれた下手くそなコーヒーの入った陶器を置くと、コーヒーカップの前の前にあるとある雑誌を指で叩いた。
”引退後失踪していた潔世一、隠し子がいたか!?”
そんな見出しで語られた、贅沢にも冊子2ページを使って特集されたその雑誌には、確かな証拠になるだろう、潔らしき双葉が揺れている姿とその横に少し気まずそうに後をつける黒髪の子供が複数枚、日本の静かな郊外で撮られている。可笑しいことに、そのどれに映った子供は潔に”似ておらず”、写真の横に添えられているコメントには、”元サッカー選手である潔世一の横にいた子供は、黒髪で茶色の目をした日本人だが全く潔本人には似ていなかった。もし潔が世帯を持っていて子供を産んでいたとなると、現役時代に結婚していたことになるが、いつ頃婚約されていたのだろう。さらにそのことは現役時代を共にしたブルーロックの面々は知っていたのだろうか”と綴られていた。
あまりにも馬鹿げた記事に、凛は雑誌を真面目に読む気がなくなって、投げるように机に置く。目の前にいる冴がお行儀が悪いと言わんばかりに冷ややかな目をこちらに向けてくるが知ったこっちゃ無かった。凛はあまりにも腹の居所が悪いのだ。凛は荒い仕草のまま、自身のコップに入ったミルクコーヒーを煽る。
「で、いつの間に潔世一は結婚してたんだ」
「あんた、こんなしょうもないことで連絡してきたのかよ。馬鹿か」
「いや、あいつは俺が知る限り、サッカーに熱狂していたから結婚なんて縁のないものだと思っていたからびっくりしてお前に聞いただけだ。試合中はともかく、ピッチを降りてからもプライベートの写真も指輪をして無かったからな」
「だからなんで俺に聞くんだよ........わかんねー...」
「お前は最良と言われていたこともあって、あいつと一番仲が良かっただろ?」
冴に曇りなき眼で刺されてから、凛は押し黙った。
確かに、ピッチ上は暴言やら相手を負かさなければいけない性分でもあるのか、相手に対して容赦ない言葉を捲し立てたりはする潔だが、ピッチを降りればチームメイトと当たり障りのない交流をして、それ以上踏み込まない男だ。そのそれ以上踏み込まないというのは、飲みに行こうぜとか二人っきりで話したいとかサッカーに関係のない類のものを、サッカー観戦をするだの居残ってサッカーのシュート練習をするだのアウトプットをするだの言い訳をして、あとはチーム全体の打ち上げには付き合いで数回行くだけで、逃げているような男だった。そんな男が唯一、チームが違えど、同じであれど潔の家と凛の家を行き来して交流を図るのが凛だったというわけである。確かに側から見て仲は良かったのだろう。
_______まぁ、その仲の良さも凛の子供のような怒りの電話で全てなくなってしまうのだが。
いつの間にか思考の渦にハマっているのを掬い出すように、はたまたいつも牙を見せている犬がしおらしいのが珍しく、少し面白がっているのだろうか冴が少し身を屈めて顔を見ようとしているに気づいた凛ははっと身を正す。こうやって思考してしまう癖がついたのは潔の影響なのだろうかと思うと少しばかり、怒りよりも凛のつゆほどしかない罪悪感で体が重くなった。全身が鉛のように重くなってしまったことに気づいたのか、今度は冴がさらに重石を追加するようにはぁ、とため息を吐いたのに体が跳ねる。
糸師凛のお兄ちゃんは朴念仁ツラを引っ提げて、一通りサッカーのことか否かだったり最近どうなのかとか言った後の二言目は悪意のない正論で刺してくるのが定番だったので、身構えてしまったのだ。
「お前、そんなに知りたいなら連絡したらいいじゃねえか、それこそ”馬鹿”だろ」
予想通り、ど正論である言葉が肩に乗って凛の顔に青筋が割れる。
そんな愛嬌がある行為ができているのなら、今日まで潔との交流が続いていただろう。何も知らないくせに平然と難しいこと言ってんじゃねぇよ、と言いたくなったがこういう八つ当たりをしたとて、昔から兄には勝てなかったので口の動きが止まった。サッカー内はともかく、凛はブルーロック時代の潔や兄に当たり散らしていた時代から大人になって、無駄な争いは話が進まないと学んだのだ。だからこそ、弟として生まれた凛には小さな声で反抗するしかなくて、ほぞを噛んだ。くそ、サッカーなら打ち負かしてやれる自信があるのに、と。
「あいつ...今何してるか知らねーし」
「はぁ...」
そういうと冴は何度ついたかわからないため息をついて、少しばかり怯えている自分と同じ冷えた翡翠の目を見た。こいつは、こんな記事が出たぐらいで、癇癪を起こすぐらいに潔世一のことが自分の半身になっているのだというのに、肝心なところで日和ってしまうのか。ブルーロックを出てから、まぁサッカーは見れるようになったとはいえ、肝心なところでは決められないというのに、何がエゴイストだ。冴は、先ほど言ったそんなに気になるなら引き留めておけという言葉に引っ掛けて、潔世一という人間は世間ウケの悪いお前と違って案外引く手数多なのだから、知らないうちにこのような結婚騒動になってしまんだ、と文句を連ねたくなった。
というより、そのまま凛にぶつけてしまったのだが。
言い訳をするのなら、凛が喧嘩別れをしたという事情を聞いていたとはいえ、関係性がどうこういう前に話し合いすらしていない凛にむかついてしまって、少し傷心気味な実の弟に気の使うというものを知らな兄貴だった冴は、抑えきれずに凛に言ってしまったのだ。何せ、一言二言小言を言ってやらないと、わざわざ引退してスペインで生活していた冴が陸続きとはいえフランスにやってきて可愛くない弟の近況を聞いてやっている意味がないし、少しばかり可愛がっていた後輩が気になるのも事実なので、これくらいは許してほしいものである。冴は仕方ないと言わんばかりにスマホを取り出すと、慣れた様子で画面に指を跳ねさせた。タプタプと二人の間にあまりにも可愛い音が鳴り響くこと数分、今度は機械音が波打つ音が部屋に響いて、やがて落ちる。
「もしもし。....潔か?」
「えっ?冴、久しぶり!」
「急にかけて悪いな。今都合悪いか?」
「いや、全然。むしろ暇してたから大丈夫だよ、どうしたの?」
「実は、うちの”馬鹿で阿呆な”弟が、お前に久しぶりに会って食事したいと言ってるんだが、どうだ?」
「................嘘だ〜」
嘲笑を含んだ乾いた笑いが鼓膜を包む。
どこか冗談だと言わんばかりに戯けた声は少しばかり固く電話越しに掠れる。その実、本当は鉄面である冴が嘘も冗談も言わないことを長年の付き合いから知っているはずなのに、どこか認めたくないのかいつもより跳ねた語尾が冴との距離を感じさせた。きっと、潔も潔で喧嘩した時の引け目があって、また気づいたらどうしようとしょうもないことを考えているからこそ嘘だと言って自分を守ろうとしているのだろう。どっちもどっちで面倒臭いなと思いながら、目の前で睨みつけられる凛の視線を交わすように、携帯を持ち直した。
「嘘じゃねぇってわかってんだろ」
「...そっか、うん、だよなぁ。冴が冗談いうわけないもんね」
「どうだ?この馬鹿に会う気になったか?」
「うん、大丈夫。会うよ」
「あぁ、その言葉が聞けて俺も安心した」
「おい!俺はまだ会うって決めてねぇぞ!」
冴はもう潔の事情を聞くことを諦めたと言わんばかりに会話を切って凛に被せようと思ったが、重なるように凛が唸る。それすら呆れた冴は、”あとで絶対に連絡を寄越させるから、絶対に連絡返せよ、いいな?”と再度念を押した。机に座っていた凛は、焦りから来る怒りを冴にぶつけてきたが、知ったもんじゃない。こちとら現役時代から、二人が自分達のエゴを突き通すあまり傷ついてきたのを知っている苦労者として、もうそろそろ鞘に収まってお兄様を安心させてほしいのだから、むしろお釣りが来ても良いぐらいである。潔が了承したのを最後に無機質な音を響かせる携帯を離しながら、背中を逆立てている猫のような凛を見た。
少しばかり辛そうな顔を押さえて、それよりも腹の中から湧いてくる怒りを全て冴にぶつけてくる凛の姿に重なるのは、冬の日に弟を独り立ちさせてやろうと放ったあの日だ。冴としては、弟がサッカーをやる理由を兄である自分に重ねていたことと、そのぬるい凛と同じくらい二人で世界一などという生ぬるい幻想に浸っていた他人のエゴを捨てたかったからに過ぎないが、今の二人はそのエゴに閉じ込められていた昔の弟と自分を見ているようで、冴の胸はムカムカとしていた。
______自分のエゴを押し付けて他人を傷つけた上にそれを抱えて仲違いするとか、こいつらずっと変わってないじゃねぇかよ。どんだけ餓鬼なんだ....。エゴイストもここまでくると面倒くせーな
そこまで思考を書いて止まると、まぁ、あとはこいつがどうにかするだろ、なんて、自分で吹っかけておいて投げやりな冴は、また不躾にも猫の唸りのように上げている凛に対して”お前ら、本当に面倒くせーな”と大分端折って説明してしまったせいで凛の怒りをさらに招くことになるのだが、それは別の話である。
・
「なあ、今日はどこで絵をかくつもりなんだ?」
「また着いてくるの〜...?まぁ、良いけどさ。......今日は小川の近くで絵を描こうと思って」
「小川か〜、小さい魚とか虫とかいるかな〜」
「七月だし、多分結構いると思うよ。潔さんって、虫大丈夫だっけ」
「昔は虫の羽音とかで泣いてたけど、今は大丈夫。ただちょっと見た目がきもいのはまだだめかなぁ......」
「ふふ、子供っぽいね、潔さん」
「そ、そんなことないからな?!もう十分良い大人だし......」
いつの間にか時期はすっかり、緑でできた木漏れ日が二人が歩いている素肌を刺してくる日本特有の夏になっていた。紬と出会った時の春の暖かい陽気はいつの間にか形をひそめ、湿気が肌に張り付いてきて気持ち悪い。ドイツも七月は暑くなる日があるので慣れていると思っていたが、やはり体を動かすたびに日本特有の湿気と日差しには敵わなわそうもなくて、紬の冗談を嗜めるような声を熱波の中に震わせれば、紬は潔に向かって振り返ってニヤッと笑って逃げ出した。線を引くように、手で握りしめていた翡翠色のクレヨンと、その他のクレヨンが入った箱が揺れる音が響く。
「あ、紬君!こら、車が危ないから走らないで!」
蜃気楼が揺れそうなほど揺れるアスファルトと切るようにどんどん先行していく翡翠は、まるでかつて自分が追いかけた色のように、潔の瞳の青を混ぜていく。ぐちゃぐちゃになりながらも手の中で色を発光している緑が遠ざかっている姿は、昔ブルーロックで凛がぐちゃぐちゃになりながらサッカーボールを追いかけているようで、潔は足を段々と弱めていった。幸い、紬が小脇の細道に入って望みの小川をしゃがんでみていたから早歩きでも難なく追いつけていたが、このまま子供が走り去って車にでも跳ねられてしまったら大変だ。理性はそう叫んでいるのに、今の潔の頭に走っているのは全く別のものだった。
潔はしゃがみ込んでいる紬がやっとのことでクロッキー帳を捲り上げて、流れの谷ができている小川をクレヨンで描こうとしている紬の小さな後ろ姿を見た。最初は潔を気にしていたのに、小川に着いた途端無心でクレヨンを動かしている姿は、自分の好きなものとなると周りが見えなくなってしまう凛にも潔にも似ていて、潔は思わず後ろ姿を重ねる。大きいはずなのに小さくてしなやかで力強く、背中の10番を背負って潔の命を脅かすあのは怪獣のことを。
そこで潔は思った。
引退前のチャリティーイベントで見た子供達が可愛かったとか、サッカーから離れて子供を助ける仕事とかがしたいだの、並べ立てた大層な御託は所詮自分を偽善者にするための建前なのだろうなんて思考がかすめてしまったのだ。つまり、潔は凛に後ろめたさを感じているからか、目の前にいる子供に勝手に凛を重ねて、大事に”しまおう”している。昔の柔らかい宝石をずっと大事にしまうように。
きっと紬に構って、あまつさえ一緒に住もうとしている潔のこの思考は、きっと紬が大いに嫌いなエゴの塊そのものなのだろう。サッカーだけで潔のエゴが生まれてあとは凡人だと思っていたが、所詮エゴでしか息できない魚は、そこから離れてしまえば死んでしまうのだから。
だからこそ潔は息をするために、大きく言えば今後の白紙の人生を埋めて寂しくならないように、紬を巻き込もうとしているのだ。小川を覗き込みながら、あ、魚だと声に出した紬に呼応するように呼吸を深める。初めて仲良くなりたいという純粋な思いを押し除けるように、このまま、自分のエゴにこの子を付き合わせていいのか、と言う思考がぐるぐると宙を舞った。これでは下心ありきで近づいているようなものではないか、と頭のどこかで声が響いていく。
「ねぇ、紬君」
「なぁに?」
顔はこちらに向かず、返事も曖昧なふわふわとした軽い言葉が届いた。まるで蝶々のように飛んで、潔の言葉によって蜂のように刺すのだろうかと思いながら、もう全身が毒に侵されてしまったかのように息が吸えなくなる。それ以上の言葉を思いつかなくて推し黙ってしまっても、興味がないのか紬のクレヨンを握る手は止まりそうもなくて、ただただ小川の流れる音だけが鼓膜の糸を張っていた。あるのは潔の罪悪感の流れだけだ。
内臓が潰れそうな思いから早く脱したくて、もう目を背けて紬の絵を見ながら一緒に絵を描こうか、それとも目を背けずに自分が幸せになりたいから君と仲良くなりたいんだよ、と言うべきかと、悶々とした思いが湿気と共に潔の体に張り付く。アスファルトですら水を蒸発する熱が思考を奪って何も考えられなくなってきて、潔はとりあえず今を考えて答えはあとで出そうと紬が絵を書いているその背中に近づいて行った。紬の隣に立って屈んで、自然やら小さい魚やらがクロッキー帳で生きているその画面について、色々聞き出そうと口を開くと、急にその思いの糸が小川の流れの音と共に切れる。
「おい、お前」
「り、凛!?なんでここに...?」
「...週刊誌見てねぇの。お前が現れる場所が撮られてんぞ、メディアに」
「え、えー?そ、そうだったんだー、あはは......」
そう言って、潔の言葉が切れた。
弱々しい勢いの言葉だけが凛に向かって行って軽く小突いたが、その後は見ていられなくなって視線があっちこっちに攪拌されていく。潔とて、凛との再会を喜ばしく思わなくはなかったし、本当は凛の選手としての調子なども詳しく聞きたかったはずなのに、かつて凛と交わした喧嘩という名の言葉の暴力が潔の足を引っ張ってしまって、言葉を出すことを拒否していた。どこを見ていいのかわからなくて、ふにゃふにゃと波打って落ちていった視線は強すぎる光に焦がされ、アスファルトに映る滑稽な自分の影がその足枷を担うように揺らめいている。
どうせ凛もサッカーに生きている男だから、きっと次の一言は”なんでこんなぬりぃところでのうのうと生きてるんだ、サッカーで死ぬんじゃなかったのかよ”と言ったところか。自分が彼の言うぬるいところでのうのうと生きていて、しかもサッカーで消費されなくなったエゴを今度は一人寂しくないようにと子供に押し付けようとしている姿を見たら凛はなんと言うだろう。潔の思いのように像のない影は、ぐにゃぐにゃと液体のように姿を変え、潔を嘲笑うように大きくなった。きっと、後ろにいる紬が気づいて、しゃがんでいる姿から立ったのだろう。背中に困惑の色を感じて、朴念仁で少し怖い雰囲気がある凛は怖いだろうからと少し前に立って壁を作った。
「み、みどり...」
「あ、紬君....あのね、えーと...」
後ろで弱々しくも鈴の声が響き、思わず後ろを振り向く。
一応、潔の友達なのだろうと説明したほうがいいだろうと口を開くと、凛の顔を見ながらクロッキー帳を握りしめている姿が目に入る。やはり、紬よりも遥かに大きい大人は怖いのだろうが、その実、山吹色の瞳の中に緑が宝石のように輝いている。ぎゅっと握った緑色のクレヨンを見て、あぁそうか、凛のあの翡翠も彼が焦がれている緑で、かつて自分もそうだったなと思い立った。そう思うと、もしかしたら二人は気が合いそうだと、潔の口は自然に動いて紬の方を向く。
「紬君、こいつは凛。俺の数少ないお友達の一人」
「は、初め...まして」
「......」
「あ、あー......そして、凛。この子は俺と仲良くしてくれてる子で名前は紬君」
潔が淡々と説明したのにも関わらず、ナイフで体を抉られそうな視線を潔に向けたまま、凛は思慮深く沈黙を貫いたままだった。何を考えているのかは潔にはわからなかったが、今もまだ冷たい刃のように刃物を首元に押し当てている凛に対して、紬は凛を紹介された紬はといえばやはり大きな大人が顔色を変えずに鬼の形相で見下ろしているのが怖いのか、自己紹介を終えるや否や一目散に潔の影に隠れるように隙間に入る。その瞬間に音がなくなって、更にその場にいる三人が互いに沈黙を貫き、気まずい空気が霧のように熱気に溶けていった。しかし、会話はなくとも凛は真正面から、紬は潔の袖に隠れて互いの視線で綱引きしながらお互いを見定めるような延長戦が続いていて、その間に挟まれた潔は二つの視線が痛く刺さった。これが冷戦状態というやつである。
初対面なのだから二人のおぼつかない距離感は当たり前だが、潔と知り合った時以上に人見知りが発動している紬に、大人になったとはいえ自分より遥かに大きくて怒っているように見える大人が急に来たら怖いのも事実だろう。そう思った潔は二人の間を取り持つ様にわざとらしく、一つ咳を落としてみる。その思惑は思ったよりもうまくいったようで、あっという間に二つの視線が集まった。
「とりあえず今日は猛暑だし、これ以上ここにいたら俺たち暑さで死んじまうから場所移動しねぇ?この小川に沿った小道を少し歩いた所に昔ながらの喫茶店があるから、そこで休憩しようぜ。あそこ、モンブランがすごく美味しいんだ」
「...モンブラン」
「そうだよ、モンブラン!あと、あそこパンケーキがふわふわで美味しんだよ」
「パンケーキって......お母さんが作ってくれたっきり、食べたことないかも」
「よっしゃ決まり!ほら、凛も早く行くぞ。こんなところで、スポーツマンが熱中症で倒れたとか報道されたら洒落にならねぇし、早く早く」
「おい、潔、おい!待て、押すな、馬鹿、聞け、おい!死ね!」
「ほらほら、子供の前なんだからいつもの暴言吐かねぇの。教育に悪いだろ」
「お前がいうなよ!お前の試合の映像を見たガキ、全員口揃えてお前の口の悪さに驚くだろうが」
「はいはい、それとこれとは今は別だからな〜。そ、れ、に、仮に俺の口が悪かったとしても、俺の素行の悪さはサッカーだけだから普段もこんなに太々しいお前と違いますよーだ」
凛の後ろに回って、グイグイと押す。
凛はぶつくさ言われながら最終的にはノロノロと足を進め始めたが、如何せんあまり乗り気ではないようで、潔に運んでもらおうと背中に凛の筋肉があたる。潔が年上にも関わらず太々しい態度はブルーロックのままで、それが帰ってきたことに懐かしく思いつつも、あまりにも硬くもありしなやかな無駄のない筋肉がTシャツ越しに手を撫でて、潔は小さく息をのんだ。
潔も引退から退いたとはいえ、ロードワークだの筋トレだのの現役時代の日課をこなしていたが、それすら足らないほどの努力を積み重ねて、いまだに最前線を走り続けている凛はその計り知れない努力で自分のエゴを切り開き、多くのプレッシャーに耐えていたのだろう。その責任から逃げた潔とは違い、チームとサポーターの期待も凛の影の努力も全てのせて戦ってきた凛の背中に潔は小さく顔を寄せた。もし、これで凛が喫茶店を拒否して全体重を潔に乗せてきたら動けなかっただろうが、ぶつくさといいつつなんだかんだ言ってそれをしない凛の優しさに笑みが浮かぶ。凛は周りからもあまり思いやりがないと思われがちだが、彼は思った以上に寂しがり屋で彼の心の内に入れた人をおずおずと大事にしているだけなのだ。彼の不器用な優しさに触れながら、それを返すように後ろにいた紬の手を握って歩き始めた。
かくして小川を沿って少し歩いた所にある、昔ながらの喫茶店に宣言通り入り、潔は夏に効きそうなコーラ、紬はアイスティーのストレートに三段のふわふわパンケーキ、凛はアイスカフェラテとモンブランが机の上に並んでいる。最近ここら辺で紬と遊んでいる最中、ご厚意にしていただいた方の伝に聞いた通り、この喫茶店はノスタルジックな硝子窓と茶色い木目調の家具にかかる少し黄色い照明がたかれたコーヒーの匂いがどこか落ち着いていて、先ほどの胸が締め付けられる思いがするんと喉を通ったようだった。
外の暑い湿気も相まって少し喉が渇いた潔は勢いのままコーヒー牛乳を啜ると、途端に凛にあったことによる筋肉の強張りが解けていく。さらにコーヒー牛乳を飲み込んでほっと一息つくと甘い安堵が喉を伝っていった。飲み物によって口が甘く多少緩くなったので、静かに潔の様子を伺っていた視線を投げていた凛の方を向き直し、口元にストローを引っ掛けながら突く。
「そういえば、さっき気づいたけど凛ってば髪の毛伸びたんだな。俺が現役時代の時はまだ髪を結べるほど長くなかったのに、なんか新鮮」
「あぁ...?あぁ、めんどくさかっただけだ」
「へぇ〜、でもお前髪質サラサラだから、長髪も似合うな。しかも艶々じゃん!」
「うるせぇ...お前も、昔より短けぇじゃねえか」
「......ちょっと、イメチェンに、な」
二人の瞳孔を息を殺しながら伺っていた紬はフォークをグーで持って突き立て、久しぶりにあった友達にしては近しい距離で話し合う二人に挟まれながら甘いパンケーキよりも甘ったるい味が腹に滑り落ちていった。何を見せられているのだろうと、フォークを口に咥えながら、凛の括っている髪の毛の先を撫でて、暖かい眼差しを向けている潔と、それに狼狽えるように言葉が散りと化している凛を交互に盗み見る。友達にしては近い距離と、凛との会話を照れ臭そうに紡いでいる潔からしてきっとこの凛と呼ばれた大人が、潔が言っていた忘れられない友達なのだろう。それにしては、頬を桃色に染めて、はにかんで凛の言葉を今か今かと待っている潔の態度が友達以上になりたいのだと物語っているが、紬は大人に指摘しようとも大人が変わるわけでなかったので、無言を貫いてパンケーキにありつくことにした。
「あ、紬君。ナイフとフォークが反対だ、ごめん、教えてなかったよな」
「あ、えっと、ご、ごめんなさい」
「いやいや、謝らなくていいよ。ほら、逆の手で持ったら、人差し指をここにやって、そうナイフで切り分けて.....あ、出来なくても焦らないで大丈夫だよ。利き手と逆の手で持たなきゃいけないから、大変だよな」
「うん......」
凛との会話をしながら紬と呼ばれた少年を気にかけていた潔は、急に凛との会話を切ると少年の後ろ側に回ってまだ幼い子供の手を包む。潔よりもはるかに小さく、明らかに幼なげなのにも関わらず骨張っているその手に潔の手を重ねられると、少しばかりびくりと肩が跳ねた。やがて強張った体が解けるように緊張を解いて潔の話に耳を傾けている紬は、血のつながっている親子にしてはぎこちない”世間が思い描く理想の父親と子供の像”を体現するように互いの距離感をはかっていて、凛の目からは到底親子にはみえなかった。凛は、不器用にもサッカー以外のことを教えて、それを下唇を噛みながら不器用に実行しようとしている似たもの同士の二人に焦点を凝らすように目を細める。
ここまで何不自由なく育ててくれたとはいえ、親子という形に固執してこなかった凛がそう見えるのだから、相当なのだろう。更に二人の関係を勘繰るように雑踏に凛の耳を傾ける。
「お、いい感じ!そんな感じでちょっとづつでいいから切り分けてみて!もし、難しかったらある程度俺が切り分けるから」
「おい、マナーを教えなきゃいけないのに甘やかしていいのかよ」
「まだまだこの年齢でフォークとナイフ使えたほうがおかしいだろ。お前だって、小さい頃は”お兄ちゃん”に切り分けてもらっただろ?」
「死ね」
「も〜、子供の教育に悪いってば」
「あ?大体、俺はこんな茶番をするためにこんなところにきたわけじゃねぇんだよ...!」
誤魔化すようにおちゃらけていた潔を刺した凛によって、潔の笑顔の仮面が割れて少しばかり申し訳なさそうに眉を下げる。それに合わせて、先ほどから凛の様子を見ていた紬の体も凛の怒号に合わせてびくりと跳ねるが、しかしそれ以降、誰一人として声色を出そうとしなかった。湿気などないさらさらとした空気の中に凛の怒りを含んだ声色が混ざり、それを皮切りにコーヒーの解けた匂いが途端に重たくなる。
紬は母親と別れてから孤児院に身を置くようになってから久しく、他人の怒りというものに触れてこなかったのでもうかつての母の躾なぞ忘れてしまったように思えたが、凛の鋭いナイフのような声は簡単に紬の体をあの時の母親の前だと錯覚させてぎゅっと丸まった。もはや、慣れた自分を守る自己防衛の予備動作は、虫に食われる前の芋虫のようである。いつまで立っても強者のエゴに引きずられる自分に酷く嫌気がさしながらも、酷く怯えている紬のことなんか誰も気にしていないように二人の会話は続いていく。
「でも、お前だって俺と午後に会う約束してたのに、フライングして乗り込んできたんだからおあいこだろ」
「今その話はしてねぇだろうが。俺は、お前がサッカーをやめてこんなぬりぃ環境に身を置いてるのが問題だっつてんだ」
「...それこそ、今話したって意味ないだろ」
「あ?関係無い訳ねぇだろうが。お前みたいなサッカーしか生きてない馬鹿が、簡単にサッカーを捨てたと思えば、今やってることはガキのおもりかよ。こんなにぬるくなってるとは思わなかったぜ、笑わせんなよ」
「...お守りとか言うんじゃねぇよ、この子に失礼だろ」
「は、お守りと何が違うってんだよ。お前は今サッカーで晴らせなかったエゴをこのガキを幸せにすることで満たそうとしてるだろうが」
「......違うってば」
紬は激しくなってくる言い争いに、かつて母と父の己の腹を刺さんばかりとする怒号を思い出して耳を塞いだ。耳を塞げば、水中の中にいるように二人の声は遠く波打つが、それでもまだ二人は紬を無視して会話の殺し合いを続けている。母も、たったの一度の言い争いで家を出てしまった父も、皆結局自分のためと言いながら自分のことしか考えていないのだ。未だに紬は、愛という名の家族の形に縛られているのだと、その奥の瞳孔の中でバチバチと舞う火の粉を散らしながら、金属の針で相手の視線を指している2人の視線の交わる中心に位置するせいで息を殺されそうになりながら思った。
「まだわかってねぇようだからわかりやすく言ってやる。お前はこいつを真っ当に育ててると思ってるかもしれねぇが、その本質はお前の我儘っていうエゴからきてるんだよ」
「...じゃあ、お前に俺の何がわかるってんだよ?周りを破壊すればいいだけで何も周りを見てこなかったサッカー狂いのお前が、俺の何を知ってるってんだ!」
喫茶店にいるにも関わらず、段々と語気が強くなっていき、やがてビリビリと痺れるほどの怒りが、否、悲しい悲鳴が手足を痺れさせる。まるで号令のようにその鋭い声色ですっかり縮こまってしまった紬は、それと同時に凛と呼ばれた大人の分かりきっていた言葉に、体が縛られたように動けなくなった。昔からいつだって大人が激しく相手を負かそうと大きい憤怒をぶつけながら口論するのは自分のことだったが、その度に、会話の中心に自分が居なくとも二人の耳の痛くなるほど突き刺さった会話は今も抜けず、紬の硬く握りしめた手のひらを刺して真っ赤にさせてしまうように苦しくなる。耳を塞いでしまいたくなる事実に、それでも昔から躾けられている紬は耳を塞ぐことすら出来ずに、息を浅くさせていった。
まるで、両親が喧嘩した時も途中まで普通に会話していたのに、紬の学力やら学校生活のこととなった途端喧嘩したあの時みたいにぎゅっと握りしめた拳から血の巡りが止まってしまったように手のひらが冷える。暑かった外と隔離されたように涼しい店内のはずなのに、三人のジュースの中の氷は潔の感情で溶けかけていた。
「引退する時もそうだったけど、お前は何でもかんでも自分の意見が通ると思いやがって!だから自分が言えば俺がサッカーに戻るだろうって、散々俺が引退することに対して文句垂れやがって、お前は何様なんだよ!それで、散々お前のエゴで俺を縛りつけた挙句、今度はお前のお兄ちゃんに会ってくれって頼まれて仕方なくお前と会えって言われて、顔付き合わせたと思えば、やれぬるいだのガキのお守りだのぐちゃぐちゃいいやがる!俺はもう何も知らないお前に振り回されたくねぇんだよ!どんな気持ちで俺が.......俺が....」
「......」
八つ当たりのように石を投げつけていた潔はだんだんとその勢いを落とし、泡となって喫茶店の窓から見える青い空の下へ消えていく。シュワシュワと語気が消えていく様は、今潔の目の前にあるコーラのように弱々しくも自分の意見を主張しようと他人を傷つけて弾けていくのに、体はこわばっているのが、彼のどうしようもない現状を嘆いているようで紬は少しばかり胸が苦しくなった。テレビの中で見た潔世一はキラキラと輝いていたが、今、背中を丸めて両拳を地面に叩き落とすように握りしめているその姿は、紬となんら変わりない子供のような癇癪にも関わらず、凛が子供のように好き勝手サッカーできている姿に羨望を抱いているようだった。潔との付き合いはたかが数ヶ月程度だった紬でも、必死に大人らしさを装って、いろんなものを諦めてきたからこそ、現状子供のような欲求でサッカーができている凛がひどく羨ましいのだろう。
それはまるで、二人の間には同じ時間が流れているのだというのに、凛だけが当時プロだった時の潔を見ているようでもあった。
紬が潔を盗み見る中で、潔は更に溜め込んだ感情を子供のようにぐちゃぐちゃにも吐き出そうと凛を見上げている。しかしながら、ビリビリと硝子が光を通して揺れるほど大きい声を出した潔は言っていることは間違っていないはずなのに、お人好しだった潔は自分が感情を吐露しすぎたことを自覚したのだろう、はっと大人の顔に戻って弱々しく、拳を解く。重たくなった三人の空気の間を何も思っていないのか、カーテンについた白いサテンのカーテンが軽く膨らんで潔の情緒のように萎んでいった。
「......悪い、凛だって、そんなつもりで言ったんじゃないよな。引退した俺にお前が会いにきてくれるなんて滅多にないんだから、お前が俺をライバルとして認めてくれているのは明白なのに......お前は純粋に俺を連れ戻したかったんだろ?でも、俺の人生で守るものは変わっちゃったからさ俺、戻るつもりもないよ」
「.....」
「.......ごめん、また後日改めて食事でもしに行こうよ、それに今日はお互い冷静じゃないから頭を冷やした方がいいし。一旦帰るな。紬君も含めた二人分のお金ここに置いとくから」
「おい、潔!」
凛の静止も虚しく、潔は紬を呼び止めるともうほぼ氷が溶けかけていたグラスを置いて、椅子を引いて立ち上がった。潔はその深い青い瞳を凛から即刻外すと、一刻も早くこの場所から立ち去りたいのか、硝子窓に映る影が酷く潔の顔を曇らせながら大股で靴を床板に跳ねさせ、喫茶店の出口に向かっていく。その間、凛は両手で包んでいたコーヒーカップをぎゅっと強く握って帰らないでくれという音のない言葉を潔に発していたのが見えたが、それを言葉にしなければ伝わらないのが人間である。案の定、言葉のない言葉は潔の服の裾を引こうとしたところで空気が掠め取ってしまい、潔はあっという間に喫茶店から出てしまった。結果残ったのは、甲高い鈴の音と机の上に残された4枚の薄っぺらい千円札だけだ。
一方、潔に呼ばれた紬はというと、潔が残した甲高い鈴の音に心が揺れているであろう、潔に凛と呼んでいた男がこれからどうするのかと、潔の鈴の音の先を見つめている男へ顔を向ける。彼は紬がじっと観察していることも気にならないくらいには顔だけを青白くして、潔に攻め立てられた格好のまま、必死に冷静を装うようにコーヒを優雅に飲んでいた。さながら、何も気にしていないと言わんばかりに。
そんな凛に紬はこの状況に対してえらく冷静だなと思ったが、よく目を凝らしてみると、コーヒーのカップがカタカタと小刻みに揺れている。コーヒーが静かに波打っているのにその表面に映る凛の平常を保とうとする曖昧な仕草は、まるで本当は彼が本当にどうすればいいのかわからないというのを表しているようだった。店内のオレンジの照明に対してみるみると白くなっていく凛は、本当に言わなくていいことまで言って傷ついてしまって、その後悔が今となってのしかかってきているのだろう。
あまりにも寂しそうに瞬く、どうすればいいのかわかりかねている紬よりも少年に見える大人を置いていくこともできなくて、潔の後に続こうとした紬の足が一瞬止まった。紬のことをよく気にかけてくれる潔を追いかけなくてはいけないのに、他人のことを考えてしまうのは、きっと母親に周りの人達に優しくして必ず助けてあげなさい、それがママのためにも、あなたのためにもなるのよという言葉が耳元で囁いているからなのだろう。お母さんが近所から紬くんのこと見ていていいお母さんだよねと言われている様を思い出して、その言葉に殴られているようにズキズキと頭痛に苛まれるようだった。頭の中から百足がカサカサと足音を立てているような気持ち悪さがいやに紬に冷や汗をかかせる。
もうこれ以上頭痛に苛まれることも、何も考えたくなくもなかった紬は凛の方に体を向けて唾を飲み込む。隣の席から見た、宝玉のような緑は濁っていて声をかけることすら躊躇したが、それでも母の言葉が後ろから舐めるように体を抱きしめているのが後押しするのか、首を閉められた喉は、急に軽くなったかのように声が出た。小川のせせらぎを掬った中に、緑が混じったような純粋な色がこちらの目線を弾く。純粋なのに、ひどく鋭い刃のような色に、紬のするする出てきた言葉が止まった。
「あ、あの」
「...あ?」
「その、えっと...あの...」
「.....誰かの顔色を伺ってるみたいにヘラヘラしやがって、うぜぇんだよ」
「ちが、違くて...」
「じゃあ、お前は誰かに言われたから、人に優しくする”ふり”して媚び諂うのか?最初にあった時のあいつにそっくりな心底ぬりぃやつだな。今すぐ消えろ」
きつい眼光が、紬を見透かしたように光る。
蛇に睨まれた蛙とはこのことなのだろう、凛の研ぎ澄まされた刃の瞳が頬を掠めて、傷口が開いたようだった。陽が重たい灰色の雲の中に吸い込まれたことによって影が伸びて、二人の間に隔たりを作る。重たい雨雲に太陽が隠されたことによって、凛の翡翠全てを見透かす如く、燦々と包んだ。彼の怒りを表すかのような、水分を含んだ重たい匂いが鼻を掠める。
そういえば、もうすぐ雨が降ってしまいそうだが、潔は傘を持っていただろうか。
孤児院で見た天気予報には、今日の午後からにわか雨が降り始めると言っていたが、あの様子だったら彼は傘を持っていないだろう。
雨の匂いが背中を押して、更に凛の棘のような言葉が刺さって抜けなくなった紬は途端に逃げ出したくなって、弾かれるように走り出した。凛の顔など振り返らないまま、靴を床に転がす、軋んだ音が響く。やがて、木製の少し重たいドアまで辿り着くと、全てを投げ出してしまいたい気持ちを全てドアにぶつけるように乱雑に開けると、紬の気持ちに相反してひどく綺麗なドアを着飾る鈴の音が鳴った。やがて、つんと鼻を縫うような痛さの雨の匂いが外へ手招き、鼠色の空が頭上を掠める。
「あ、よかった、もうずっと出てこないかと思ったよ」
「あ、潔さん......ずっと、待ってたの?」
「...はは、そりゃあ、だってまだ小さい君を置いていけないじゃん、待つに決まってるよ。これから雨が降るから、尚更な」
「そ、っか」
「それにしても、結構凛と話してたけど何話してたんだ?もしかして、俺を置いて仲良くなったから帰りたくないのかと思っちゃったよ、はは...」
「......」
「紬君?」
___あぁ、もう。
急に押しだまった紬の様子に潔が少し眉を下げて優しく声をかける中、紬は気づいてしまったのだ。
他人を自分が作った物差しで測って、勝手に救おうとしたその生ぬるい傲慢さを。そして、紬の傲慢さで人が動くのだと思った浅はかさも。そして、それをしても尚、無条件に優しくしてくれる人の暖かさも、紬は初めて知った。紬は湿気た空気で肩が重たくなったかのように俯く。
「...潔さんの言った通りだった。他人の心をどれだけノックしたって、自分が変わらなきゃ変われないって」
「あぁ、確かにあの時はそう言ったけど.....それがどうしたんだ?」
「潔さんがいなくなっちゃった後、糸師さんがあまりにも後悔していたから声をかけて、どうにかして仲直りしてもらおうとしたんだ.....でも、これって糸師さんが”可哀想”だからって勝手に決めつけて厚かましくアドバイスして心を動かしてもらおうっていう、貴方達がいつも言っているエゴだよなって思って.....それで」
「うん」
小さな小さな祈りを込めるような声はどうやら潔に届いたらしく、潔は相槌を優しく打ちながら紬の話に耳を傾ける。紬が見下されるのが怖いのだとどこで察したのか、自分の膝が汚くなろうとも足を折って、目線を低くしているその優しさに心臓が締め付けられるようだった。どうして、テレビで見たあの生命を奪うほど冷え上がる青い星が、紬の話を聞く間は雪解けを迎えて、暖かい春野麗らかな日差しのように慈悲溢れたものになるのだろう。潔の瞳の中で浮かぶ光の粒を眺めているうちに潔に抱きしめられているような感覚になって、ふっと力が抜けてするすると言葉が次から次へと溢れた。
「僕、なんで人に優しくしたら善意に心を動かされて、言うことを聞いてくれるって思っちゃったんだろう.......なんで、このままじゃ二人が可哀想だと勝手に決めつけて、救おうとしたんだろう.....」
「......」
「......お母さんが、無条件の善意はいろんな人を救うって言っていたからやっただけなのに.......なんで、僕は善意でかけた言葉が全部自分勝手になっちゃったんだろう....あんなに潔さんを責めて立てたのに、蓋を開けてみれば僕も自己中心的で、何もできなくて.......」
「......紬君」
静かに反面鏡となった湖に小さな石を投じて、乱してしまうように潔の声が波打った。
顔周りがブワッと熱くなっていた紬は、潔の声が静かなる川のせせらぎの様に響いて、するすると激情が萎んでいく。冷えてきた頭は残酷にも冷静になっていき、自分がいかに愚かなことをしたのかをフラッシュバックさせて心すら萎みながらも、おずおずと潔に目線を合わせれば、彼は腰を低くして紬に目線を合わせていた。
青い眼が真っ直ぐに紬にむきよると、ふわっと向日葵が咲いて、視界が淡い青に染まる。茹だるような夏だと言うのに、暖かい温度が紬を包んだ。数秒遅れて、それが潔さんの体温に混じって柔らかい甘い匂いだと知ったが、紬は人と体温を分け合ったことがなかったので、どうすればいいのかわからなくてそっと頭を預けるのが精一杯だった。梱包されたプレゼントのように、優しい鼓動が紬の氷の心を雪解けに変える。
「確かに、人に優しくする”善意”ってやつもエゴに近いよな。俺も、昔ブルーロックに入ってから最初くらいまでかな、人の顔色を窺って、自分が満たされるために勝手に善意を分け与えて、勝手に救った気になって、それで足元を掬われそうになったことだってある。上辺だけのお節介ってやつ。きっと、紬君にも俺の自分勝手な善意で話しかけちゃったからわかると思うけど、俺はきっと君も、過去に善意を与えた奴らのことを見ていなかったんだと思う」
「.......うん」
「でも、君のお母さんの言っていることだって、実は間違ってはいないんだよ。善意って見た目は優しいから、人に好かれやすいし、人に好かれていた方がいいことだってある。けど」
「けど?」
「今回のことは、凛の欲求にはいそうですか、って善意で返せるものじゃなかったんだ。昔とは守りたいもの、やりたいことが違っているからさ。あいつは、サッカーが何よりも大事だからこそ、サッカーで死にたいからその感情を引き出せる俺を戻したかった。でも俺は優先順位がサッカーじゃなくて、君が一番になったから衝突が起きた。これはどうしようもできなかったものだ。それこそ、他人の心をノックできない様に、な。これが俺たちが呼んでいるエゴ。自分の守りたいもの、やりたいことのために戦う」
「守りたいもの......」
「そう。だからもしかしたら、君の俺たちを助けてあげたいという気持ちは、俺のことを少なからず好きでいてくれているのかなって」
優しいひだまりが伸びて頭を撫でているようだった。
煤のように黒くなった雲の隙間から日差しが溢れているかの如く、優しい声色で語りかける青は、紬の体を離すとまたそっと膝をついてただただ純粋に紬のことを見つめている。まるで、紬の本質を見抜く様な、紬を後ろから静かに照らす光は母にも向けられたことがない静かでぬるい心地よいもので、どこかくすぐったい。紬の心に寄り添うように、ヴァイオリンの様な音色が紬の耳を心地よく揺らして、紬は言われたわけでもないのにどこか早く言わない気持ちになって、そっと口を開いた。
「最初は、どうせ僕のこと同情しているんだろうな、って思ったんだ」
「うん」
「ずっと、今まで同情されて自分たちの身勝手な偽善で近寄られたから、どうせまた僕に飽きて一人になるんだろうなって思っていたのに、」
「うん」
「今回だって僕のせいで関係が拗れたのに、何一つ僕を責めようともしないで、そうやってただ僕のそばにいてくれたのが幸せなんだって、やっと、やっと気づいて、潔さんの優しさが偽善なんだとしても、潔さんの身勝手なんだとしても嬉しかったんだ」
「......確かに君を助けようとした俺の行為は偽善だったかもしれないけど、これは君がちゃんと考えて思ったことなんだから、俺君を動かしたんじゃないよ」
膝をついていることによって紬よりも低い目線でものを語る青が、ただ温めたキャラメルのように言葉を紡ぎながら紬のことをただただ優しく抱きしめるようだった。紬はさらに目頭が熱くなって、それでもずっとまっすぐに見てくる青から目を背けられなくて、顔をくしゃっとさせる。
潔の前では弱さを見せたくないのに、鼻を啜ってしまっている紬を知ってか知らずか、寄り添うようにその傷を慰めるのではなく、ずっとここにいるのだと暖かい温度で手を握られる。包まれた手は柔らかいのにどこか掠れていて、トレーニングやボディータックルなどで作ってきた、エゴの証明のための努力なのだろうと思うと、紬は自分が何も知らずにエゴなんて嫌いだと言ってきた行為に胸を締め付けられた。
どれだけ、彼は悪意に晒されようとも偽善に殴られ、偽善に助けられようとも、ずっとピッチ上に立ち続けてきた男の大人の等身大の優しさは、何も知らない孤高の子供には初めて触れる感情だった。紬はさらに顔に力を入れながら、やっと頬に熱いものが伝っているのがわかって、そっと顔を拭う。
「糸師さんのこと、本当にごめんなさ...ごめんなさぃ...」
「紬君のせいじゃないって言っただろ?だから、泣かないで、目が溶けちゃうぞ」
本格的にしゃくりあげながら涙の栓が崩壊したであろう紬が、やっと子供らしく自分の感情を吐露したのを見て、潔は胸を締め付けられる思いがストンと落ちる。いつでも体に見合わない背伸びしてい泣きそうな顔をしているのにも関わらず、それをじっと我慢して、大人を演じ続けている紬はもうどこにもいなくて、潔は紬の擦っている手をそっと外す。これ以上擦ると目が溶けちゃうよ、と声をかけると、一瞬動きを止めた紬は必死に肩をひしゃげて、溢れる涙を止めようともせずに止める前よりも更に涙が流れた。これがきっと紬が抱えていた物の大きさなのだと思うと、潔はそっと手で紬の涙を拭う。
「でも、でも、このままじゃ潔さん、愛想尽かして......」
「尽かさないよ。大丈夫」
「じゃあ、まだ一緒に入れる?家族みたいに、笑っていられる?」
潔の息が止まった。
紬にとって、潔は家族の一員になれていたようで紬がおずおずと控えめに潔を見ているを見て、潔は立ち上がって紬を抱きしめる。ぐえ、と息の吐いた音がしたので抱擁を緩めて、紬の顔を見れば、紬は驚いたようにビー玉のような水気の含んだ目を透き通らせた。
「ずっと一緒にいよう」
「え、」
「家族に、なろう」
それが、潔と他人だった紬が”潔紬”になった運命的な日であった。