祝祭#3と言っても、そうそううまくはいかないのが現実というものである。
紬と家族になるという約束をしてから、いつの間にか時間は過ぎ去り、初秋の優しい風が流れていた今でさえ、話は平行線を引いていた。もうこの時期になってくると、暑さすら散漫としていて、秋の穂が豊作だと言わんばかりにその秋の風を攫っているというのに、いまだにあのうざったい湿気がまとわり付いてくるように、夏から何も進展していない。潔はため息をつきながら、大きい大通りにある秋特有の木枯らしとイチョウの葉のカーペットを擦る。今日も何も足を踏み出せなかった話し合いに、木枯らしの絨毯に足を絡め取られるようで、段々と足が重くなった。潔の周りには秋特有の木枯らしのように、様々な親と小さい子達の色のついた幸せが吹いて捲れていて、少しばかり羨ましくその情景を流していく。きゃっきゃと高い声が耳を踊る中、潔は薄く笑うとまた足を進めていった。
まず、紬のような血のつながっていない孤児院出身の子供と親子関係になるには、何通りかあるのだ。
一つは里親制度と言って、これは血のつながっていない子供と大人の間に法的な親子関係はないものの、様々な条件で親が子供を育てられない代わりに他者が一緒に暮らして世話するというものである。これは、潔と紬に法的な関係はなく、あくまでも一時期預かっているというだけの関係だ。しかし、暴力的な虐待はないものの、精神的な虐待を受けていそうな兆候がある紬が、向こうの要望とあらばすぐに親元に引き取られてしまうという不安があり、孤児院との話し合いから却下となった。
そうなると残る選択肢は完全に縁を切って潔との親子関係を法的に結ぶ特別養子縁組か、縁組をした後も実親と親子関係を持つという普通養子縁組である。前者は紬が潔の姓を名乗り、実親と共に紬を養う義務が発生するが、後者は完全に生んだ親子の縁が切れ、潔に子供を養う義務が発生すると言うものだ。
上記の通り、少なからず虐待を受けているのではと言う疑惑がうっすらあった紬を、実親が親権を握ったままだと少なからず危うい。もしかしたら、実親が紬を連れ戻すことだってあり得るのだと、孤児院のシスターと話し合ったところ、紬を守るためにも実親との縁は切った方がいいのではないか、と言うのが満場一致の意見だった。そこまでは結構早く決まったのだが、その後の条件が大変だったとは当時の潔は思いもしなかったのだ。
その中で一番大変だったのは、養子縁組の資格を登録するための最初の前提条件である”法律上結婚していること”ということである。
最初、それをみた時には潔は困り果てた。
何せ、今までに好きになったりいい感じになった人もいないし、サッカー選手を電撃的に引退して消息を立った今、余計に恋愛というものに縁もゆかりもないまま、今まで孤児院に足繁く通って子供と触れ合ってばかりだったのだ。サッカーだけをやってきた上に子供としか触れ合ってこなかった潔は、他の選手とは違って恋愛に興味がなかったせいで今になって、女性とお付き合いをして結婚するまでの関係になる方法も、手段もわからなかった。唯一知っている相性をマッチさせるマッチングアプリも、潔が色々な意味で有名人のため、リテラシーの関係上使えそうもない。結局、知らない女性とマッチングしても恋愛に発展しなさそうだなと思った潔は、そのアプリを入れずじまいになってしまった。
かといって、日本内で昔よりも同性婚の目が厳しくなくなり、同性婚の法律の改正がされたことで選択肢が拡大したとはいえ、おいそれと友達や周りの人に戸籍だけ貸してくれなんて頼めそうもないのが現状である。潔はそっとため息をついた。
「はぁ〜.......本当にどうしよう」
「も〜、そんなにため息ついてると幸せ逃げてくぞ、あいぼぉ〜」
「そうだぞ、エゴイスト。昔のお前だったら悩むよりも思考、即行動だったろ」
「”元”な」
「もとぉなぁんてかんけいないよ、いさぎはぁいあぎじゃん」
「蜂楽、ストローを咥えて喋らない。メロンソーダの雫が飛んでるぞ」
「にゃはは〜、潔って監獄出てから余計なんかお母さんに似てきたよね。お節介なところとか、小言が多いこととか」
「一言余計だっつーの」
空の青が水気を含んで蜃気楼の暑さを照りつけているような夏が尾をひく一日。外で夏蝉の音に合わせて熱気が揺らいでいるが、それを模るように硝子窓の近くで蜂楽がメロンソーダの入ったパフェのような容器のストローを加えては小さく振り回し、その真正面に座っている糸師冴が陶器に入ったカフェオレを嗜むためか少しばかり伏せ目になって、優雅にカップを煽っていた。いつもは日本から程遠いスペインの互いに違うホームで戦っている二人だが、オフシーズンになると日本に帰ってきて、こうして半ば投げやりにサッカーをやめた今でも会ってくれる友人である。潔は蜂楽の茶化しに息を吐きながら目の前に置かれたチーズケーキを切り分けて口に運んだ。程よい甘味が口に広がって、今の心配事が甘さに溶かされていくようだ。
「それで、何をそんなにぐちぐち悩んでんだ」
「そーだよ、潔、俺たち相棒じゃん、なんで教えてくれないのさ」
気を取り直してと言わんばかりに冴がカフェオレから口を離して潔に問いかけると、蜂楽も同調すると言わんばかりに身を乗り出す。冴が静かに潔の様子を伺っているのに対して、目の前にあるメロンソーダのコップを倒すほどに身を乗り込みながら潔のみを案じている蜂楽は、サッカーにしか興味がないであろうに優しい言葉をかけられて潔はそっと笑った。この二人なら、きっと潔の苦悩を理解してくれるだろう。潔はどうしようか、思考を宙で視線を絡め取り、ひらひらと蜂楽と冴に戻ってくると決したように硬い口を開いた。
「あー....それがさー。俺、子供ができることになったんだけど」
潔が小さく言葉をこぼすと、蜂楽は大きく口を開けてメロンソーダの中のストローから口を離し、冴は飲んでいたカフェオレから口元を離して眉を顰めている。正しく、時間が止まったと言わんばかりに、周りのお客さんが動いているのにも関わらず、潔たちのテーブルだけがスローに動いていた。蜂楽はともかく、冴でさえ瞳孔を細めて信じられないと言わんばかりに潔を見ているものだから、潔は自分の手元にあったミルクティーをストローでかき混ぜる。さすがエゴイスト、周りが動揺を示しているのをしているのにも関わらず、平然とミルクティーを飲もうとしているところは青い監獄の申し子と言わんばかりにマイペースであった。蜂楽はさすがは俺が認めた相棒だけど......と思ったが、もっと話を聞く必要があると言葉をさらに加える。
「え......え、?ごめん、俺の聞き間違えだったかもしれないからもう一回言ってくれない?」
「ん?あ、えー、えっと子供ができることになったんだけどさ」
「......お前、あの報道は本当だったのか?」
「ほ、報道?」
「俺も潔に隠し子がいるんだって、スペインで一緒にやってるチームメイトが教えてくれたけど、嘘だと思ってた.....いつ結婚したの!?てか、お母さんお父さんには言ったの?!」
「え、結婚?!」
蜂楽も、あまつさえ表情がいつでも凪いでいる冴でさえ、動揺の色を隠そうともせず、ビー玉のような瞳をコロコロと動かしながら潔を見ている。その鼻筋の通った二つの美形の顔が、目がいつもより緩み、口が引き攣って眉が吊り下がっているのを見て、潔は冗談ではないのかと声を重ねた。と、いうよりは普段冗談を言わない冴や、ふざけることはすれど、蜂楽自身のお母さんに言われたからと嘘だけはつかない蜂楽が、チリジリと焼けそうな視線を向けて来るので、信じるほかない、と言った具合だったが。兎に角、潔は心を落ち着けるようにもう一度ミルクティーを煽り、切り分けたチーズケーキを口に含む。ミルクティーによって残った仄かな甘味が、チーズケーキの甘味と混ざって美味しい。潔は呑気にも手を口に当てながら、口を押さえるようにして二人に向き合った。
「多分、二人とも誤解してるよ」
「誤解って言ったって......だって、潔、子供ができたんでしょ?いつ、奥さんと結婚したの?それとも旦那さん?...まさか、凛ちゃんとか?!」
「り、凛!?なんで、凛の話が出てくるんだよ!」
「だって、潔って、ブルーロックにいる時はそうでもなかったけど、出る時にさ、凛ちゃんのこと気になるって言う目してたから」
「はぁ?!え、いや、違くて」
潔は蜂楽の言葉に顔がかっと熱くなって持っていたフォークを机に置くと、がちゃんと金属がかち合うような危うい音が波を打って広がった。すんで胸が熱くなり、悲鳴を上げる金属が痛そうに金切り声をあげたその声と同じように取り繕う言葉で潔の声に高さが混じる。どくどくと心臓が跳ねながらも、なぜか恥ずかしくなって二人の顔がみていられなり、俯いた視線の先にあった磨かれたフォークに映っていた自分の顔が少し赤らんでいるのをみて、羞恥心からフォークで自分の顔を隠した。フォークはまるで今の恥ずかしがっている潔の顔を笑うように、嬉々として輝いている。今は不躾なのを承知で、目の前にあるフォークを思いのまま握って、目の前の絶品のチーズケーキの甘さに溺れたかった。
「......まぁ、凛ちゃんも凛ちゃんだけどね」
「確かに、言葉にしないくせに一丁前に独占欲だけはあるのは馬鹿だな」
潔がチーズケーキが半分切り取られた白い陶器皿に映えるほど赤くなっているのを尻目に、目を背けられている蜂楽と冴はつぶやいた。店内には空調が効いているのだと言うのに、小麦肌には汗が滲んで、朱色に染まった肌を湿らせている。昔から嘘が苦手な人は純粋な心の持ち主だとは言われているが、潔ったら昔から嘘が下手くそだなーと蜂楽は相棒ながら、潔の純粋さが心配になった。あまりの純粋さに、これ以上、からかってやるのは流石に相棒として可哀そうになってきてしまった。蜂楽はブルーロックを経てプロになり、大人の社会にもまれたので、分別は弁えられるようになったのである。
「.....それで、潔は子供ができるんだよね?」
「あーうん。えーと、その子は孤児院で仲良くなった子なんだけどさ。この子と仲良くなって、それでどうにかして家族になりたいって思ったから養子に迎えようと思ったんだけど、申請が思ったより難しくて.......」
「申請?」
「申請にも種類があって、俺は訳あって元の親族と縁を切る申請をしたいんだけど、その前提の条件が婚姻関係のある夫婦がいることって書いてあって....」
「あー、それは確かに厳しいねぇ.....」
「そうなんだよ。しかも、俺はサッカーばっかやってきたから、”そういう”機会なんてなくて.....婚約アプリに頼って、笑顔が素敵な女性と付き合ってもいいんだけどさ.....今からそういう関係になるってなると大変で.....」
蜂楽も潔も困り果てたように、うーんと唸る。
ここにはサッカーを生業にして、サッカーに生きてきた男たちしかいなかったせいか、どうも恋だの愛だの言う本来だったら一度は体験するだろう甘酸っぱいイベントなどとは程遠く、誰一人として潔の言葉の後に続こうとしない。潔は、だよなと薄ら笑いを浮かべながら、熱した思考を冷ますように、今だに冷たいへこんだ硝子のコップを手の皺を伸ばすように包んだ。
これが可愛い女優やアイドル、アナウンサーなどと結婚したいと宣っていた閃堂だったら話は別なのだろうが、ここにいるサッカーに身を捧げている一行のうち、蜂楽は相変わらずうーんと眉を潜めてヴァイオリンで引っ掻くような低い唸り声をあげてしまっているし、冴はその翡翠をうすらと開きながら、長い睫毛を濡らすほど今だに熱気をあげているカフェオレを傾けて、思考を燻っていた。皆、三者三様ではあるが、潔と同じように、正しく途方に暮れていると言わんばかりである。
困ったなー、やっぱりわかんないかーと今だに包んだ手を潰しているからか、桃色を帯びているコップの中のミルクが溶け切っておらず、マーブルになっているミルクティーをかき混ぜるように思考を薄らと溶かして夢見がちに目を細める。
「しかも、俺たちもう30じゃん?もうそろそろ、結婚してもいいかなぁーって思っちゃうんだけど、かといって相手がいるかというとそうでもないんだよなぁ」
「....なら、俺はお前に似合う適任を知ってる」
「え、冴ちゃんって女の人と交流あったっけ?」
「......俺だって、女性と人並みに交流ぐらいある」
「だって、冴が女の人と喋ったって言う経験はミズノの企業担当の女性とか、アディタスの企業担当の女性とか、ナイキの企業担当の女性とかだろ。それにほら、この前はプーマの広報担当の女性に名刺渡されてたじゃん」
「うるせー、スポンサーのパーティーとかで社交辞令とかやんだろ」
「やったとしてもいつもつっけんどんにあしらう冴に、挑んだ女の人が撃沈していくのをみてたんだけどな.....」
「......てか、これ以上はぐらかすんじゃねぇよ、潔。今大事なのはお前の話だ」
小言を挟みながらも、冴は自分のことをからかってはしたり顔を浮かべている潔を手で弾くように嗜めた。潔はその合図が、冴が先ほどとは打って変わって真面目な話をするのだというのを感じ取って、自分の洋服をぴんとアイロンで伸ばしたように、背筋を伸ばす。隣の蜂楽は鈴が転がされた音を追いかけるようにきょとんと冴を見つめていた。
「確かに、俺たちはサッカー選手と元サッカー選手だがもうすぐ30歳だし、結婚に対しても大胆になるのもわかる。特にお前なんかは子供と縁を持つっていう理由があるんだから尚更な」
「......それが何だっていうんだよ」
「俺らはサッカーっていう悪魔に魂を売ったと言っても過言じゃないくらい、サッカー以外に興味の持てなかった化け物だ。だから、自分の道は自分で決めたし、泣き言も辛いことも全部自分で消化して、自分の思考を飲み込んで、殺し殺される才能の世界の真っ只中にいて、文字通り普通に生きられない化け物になった。だからこそ、結婚という過程も支え合って子供を育てていくという経験も全てを捨てたわけだ」
「....なに、じゃあ、俺が今から家庭を持って、子供を育てるのは無理だって言ってんの」
「そうとは言ってない。お前が求めている結婚っていうのは、そいつだったら何にでも話せて、泣き言も苦しみも全てを受け止めてくれるような信用性にあんだろうなって、俺の両親を見ていて思っただけだ。子育てっていうのは、成人になってから答え合わせをするもんだというしな」
冴は昔、凛に手を焼いていた両親が自分の物差しで自分たち兄弟を測って、無理やり凡人に仕立てようとした後悔を行動の節々から感じる母の様子を思い出して、息を吐いた。確かに”普通”ではなかった凛をどう育てていくのか難しいであろうことは冴にも理解できたが、それでも母は口で注意したみたり、壊そうとするもの物を取り上げたり、きつく叱ったり、軽い”指導”をするだけでどうにか凛を普通にする事ばかり固執していたし、父は父で母の相談にもどこ吹く風で仕事に没頭するだけだった。子育てにおいて本当に大事なのは、目の見えない子にどうして目が見えないのとただ叱ってばかりなだけではなく、目の見えずらい子には眼鏡を掛けるように、凛の取り扱い説明書のような物を作って凛を理解して、何か対策してやることなのに。
父も父で仕事で忙しかったのか、凛のことでしょっちゅう喧嘩している声が深夜に聞こえたし、その会話の最中、冴は聞き分けがいい子なのになぜ凛はいう事を聞いてくれないのかとぼやく声がこだましていた冴は、視線を落としていたベージュの月の中の自分が揺れたのをみて、冴はそれを煽った。兄弟揃ってサッカーという必要以上の習い事をやらせてくれた上に、高校まで行かせてくれて、さらには一軒家を持っていたので裕福の部類ではあったし、身内自身いい家ではあったとは思うのだが、それでもどこか余裕がないのが糸師家だった。冴は遥昔に撮った自分たちの家族写真を記憶から手繰り寄せるようにして、その翡翠に睫毛のレースをかける。まるで、本当に言いたいことをいうか、隠してしまうようなその仕草は、物事をスパスパと言ってしまう冴にしては珍しかった。
「なぁ」
「何、冴?」
「俺は確かにお前にお似合いの適任がいると言ったが、お前がもしサッカーで死にきれないまま引退して、”周りに支えるやつ”もいないから養子をとって血縁を結ぼうとしているならやめた方がいい」
「.....冴は凛と同じようなこと言うんだね」
「...俺はあいつとは違って冗談で言ってるだけだ。お前が真剣なのはとっくに知ってる。言っても聞かないところもな。だからこそ、お前が適当に決めたやつじゃなくて、ちゃんとしっかり決めなくちゃいけないと思ってる。その子供のためにもな」
「あはは...冴って冗談もいうんだな.....」
糸師冴は知っていた。
かつて悪魔に魂を売って、全てを投げ打った目の前の弱々しく笑う男が、サッカーを初めてサッカーが大好きになって、サッカーを好きになったばっかりにブルーロックという場所に呼ばれて矢面に立たされ、結果が全ての世界で急に歓声が罵声に変わって足元を掬われたり、自分自身も思ったような試合運びができなくて焦ってしまって更にいい結果が出なかったり、プロになってからも舐められやすいアジア人のせいで苦しい思いをしたことも。好きばかりでは到底成功しないサッカーの憎さを一試合ごとに死ぬ気でぶつけていた魔王と呼ばれた潔自身がサッカーで死にきれなかったわけはない、未練はないのだと。
冴もかつて、眩しいほどの光の世界に飛び込んで、今だにそれが幸せなのかわからないまま、それでもサッカーが好きでストライカーになりたいからと無理をして挫折したからこそ、今の潔がどれほど日本人のサッカー選手として苦しい立ち位置で戦ってきたのを知っている。けれど、このテーブルを囲んだ三人は、三者三様、ブルーロックやスペインで自分のエゴのために多くの屍の山を上り頂点に登り詰めたからこそ、幸せから一番程遠いところにいて、誰が子供や世帯を持とうと些か心配なのだ。
「....潔、冴ちゃんはね、心配なんだよ。ほら、他人と生きるのって大変だから。もし、結婚したとしてもさ。潔ってサッカー以外、興味なさそうだから」
蜂楽は冴の霜を踏むように確かにあるようで、すぐに消えてしまいそうな心情に賛同するように、首を振った。どうやら、このスペインの悪戯好きのトリックスターはサッカーを掻き乱すだけではなくて、狂言回しのように誰かの意図を汲み取るのも上手いらしい。蜂楽は、先ほどのおちゃらけた表情とは打って変わって、眉毛を下げて薄く笑った。厄介な親戚みたいなもんだよ、と言葉を結ぶ。蜂楽の冗談に、潔は釣られて手を口に当てて霜を踏み込むように軽く笑う。どうやら、冴と蜂楽に詰められることは覚悟していたらしいが、どこか寄り添っている二人の雰囲気に肩の荷が降りたらしい。更に潔を安心させようと先ほどの喫茶店らしからぬしょっぱい空気を払拭するように、腰に手を当てて、”まぁ?相棒として、俺も潔のこと心配だけどね”とウィンクをすれば、潔はくすくすと硝子を弾くように笑った。
かたわら、潔は誰よりも強いし、一人で生きていけるけど、誰よりも繊細で誰よりも綺麗な男だなと思いながら、目の前で肩を落として笑い、黒髪を揺らしている男をその蜂蜜色を閉じ込めるようにそっと瞬きをする。蜂楽の蜂蜜色の脳裏をいつも象っているのは、ずっと緑色のフィールドを駆け巡る、木炭をキャンパスに擦り付けているように生を焦がれた怪物だ。
サッカーだけを追い求めたあの青い瞳も、彗星の如くボールを追いかける純粋さも、全てが一人でサッカーをしていた蜂楽にとっては苦くて、眩しいものである。だからこそ、彼はサッカー以外の人の気持ちを知らないのだ。化け物だからこそ。子供と住むと言っていた潔に驚きこそすれ、彼のようなサッカー以外不器用な男が世帯を持てることは嬉しいことではあるが、その反面、子供という自分の生き様を生写しにするであろう人間と住んだ時に、彼一人だけだと息が詰まってしまうだろうと姑心が沸いしまうのだ。
きっと、あの小豆色の美麗な男もあの男の熱情に触れたからこそ、”お前の適任を知っている”など宣えたのだろうな、と潔に話しかけている美丈夫が、相変わらずカフェオレのマーブル状になったミルクをかき混ぜながら、静かに問いかけているのを蜂楽は見やる。
「潔、お前は”心残り”はないのか」
「心残り、かぁ......」
潔は空を引っ掛けるように仰いだ。
どこか静けさを持ってどこか月を見上げるように麗らかに、歌でも謳うように静かに空に言葉を吐き出す。両手をきっと結んで陶器のカップを握って瞳を伏せいている様子は、誰か愛おしい人に語りかけるように軽やかだった。潔はきっと想い人だとは思っていないのだろうが、想い人に何も執着などないのだと言わんばかりに顔を緩める仕草はきっと無意識に”誰か”を思っているのがありありと目に見える。
「...俺はあいつの1番の理解者でありたかったんだけどなぁ.....あいつの原動力になりたいし、俺はあいつのために命をかけたいというか......気づいたらあいつのことを考えているというか.....うーん、上手くいえないな。でも互いに一番なものがあったから互いに何も言わなかったけど、向こうも同じこと思ってたんじゃないかな。まぁ、もうちょっとサッカーをやっていたかったのもあるけどな。まだ成長を止めないお前らも全然喰いきれてないし」
「暴食め」
冴が小突くのに対して、小さく囁いた少し高くて甘い声はガソリンのように焦げ、その匂いが鼻をつくように強く、静かな言葉は洞々として燃えた。あまりに熱くて強い芯のあるはずの声色だというのに、もう執着ではなく、自立しているからこそ、その人に胸を明かしたいと言わんばかりに、子猫が鳴いているような言葉の羅列はサッカー選手の潔世一でもない、ただの一般人だった。蜂楽は、まぁその言い方は答え合わせしているみたいなものだよ、と思わなくもなかったが、彼がサッカーに命を売ったころに比べて、等身大になれている気がして氷を溶かすように笑いかける。
「潔はその人のこと、すごくよく見てるんだね」
「うーん、そうなのかな。でも俺があいつに望むのは俺があいつにずっと憧れた部分を共有してくれることだけなんだよな。......本当に、それだけ。俺はもう”できなくなった”し、何より俺はこれから子供ができるんだから、今度はその子を俺が守っていかなくちゃいけないし、今更こんなことでぐちぐち悩んでられねぇよ。それに、その子と俺の選んだ人が上手くいかない可能性もあるだろ」
確かに力強く、それでいて線が薄く笑った潔に冴はこれが”あいつら”がずっと激動の中に身を置いていた反動なのだろうなと脳裏で反芻しながら、同時にバカな奴ら、という言葉を砂糖の入ってないはずのカフェオレのなかに沈ませる。蜂楽はいつも浮かない顔をしていた潔が、やっと表情の氷解が見えていたなと、歯を浮かせて笑いかけた。口ではそう言っているが、彼の瞳の色はずっとその人に染まっているのだから、答えが決まっているようなものである。
「潔は、その人のことが好き?」
「すっ.....!?......えーと、その.....好き、かも、しれない、です」
「おいエゴイスト、煮え切らない返事じゃなくてしゃんとしろ。童貞じゃねぇんだから」
「悪かったな!恋愛すら経験したことないいい年したおっさんで!」
「そんなこと言ってないだろ」
先ほどと比べて、とても恥ずかしそうに頬を染めて手をばたつかせる潔に対して、蜂楽と冴は呆れたように笑って、目線を合わせた。サッカーをやめてからどこか塞ぎがちだった潔が、子供の話でこんなにも明るくなれて、前向きにいてくれることが単純に嬉しいのだ。まだ恥ずかしそうにチーズケーキを口に運んでいる潔を尻目に、冴と蜂楽は蜂蜜と翡翠が明るくなって、細くなった。もう、ここまで言わせたらやることは決まっていると言わんばかりに。
確かに潔が言った通り、子供との相性はあるだろうが、そこは二人で話し合って子供を育てていくのが本来の家族の在り方であるので、どうにかなるだろう。二人は潔の幸せこそ願いはすれ、肝心の潔を幸せにする方法と、その後のアフターケアだけは適当であった。まぁ、もう結婚適齢期である蜂楽も、あまつさえ潔たちよりも四つ年上の冴も周りは結婚して身を固めている選手が多いが、当然二人はサッカーに夢中なあまり婚活の仲介役みたいなものは興味がないので当たり前である。蜂楽の母は蜂楽が楽しいのならそれでいいよと背中を押してくれるのだと言っていたので兎も角として、長男である冴の両親はあまりに息子たちの浮ついた話の無いのでもう両手を手で覆っていたが知ったことではない。
しかし、まだプリプリとしながら、今日の会計は全部冴に持ってもらうからなと言っている潔に、初恋を仲間内で共有し合う高校生かと思わなくなかったが、それは童顔に見られがちな潔が更に怪獣になりそうなので口をつぐんだ。この男は、弟の手綱を握ることはおろか、何よりも孫を義兄と将来に不安な両親に見せてもらわないといけないのだから、と。