『I feel the same way』ちか。ちか。
ほし。ほしが、星が見える。
「……」
空中に吐いた湿った息が、白くけぶって星を隠す。目を閉じる度に瞼の裏に浮かぶ、星。いや、星なんかじゃない。これは、ただの眼精疲労。その極致が生み出した幻の星、だ。
けふり。少しだけ噎せて、喉の奥に絡み付いて呼吸の邪魔をしてた塊を吐き出す。頬を流れ落ちるドロリとした感触。強烈な鉄錆の臭いにまずったよなぁ……と音もなく呟く。
遠く、ジングルベルを鳴らす歌が聞こえる。クリスマスには気が早いサンタのための歌が、空しく響き渡る中で、オレはどんより曇った空を地面から眺めてる。
気温の低さからじゃない寒さに指先が冷える。体の感覚が遠い。まったく、らしくないことはするもんじゃないねと、心の中のもうひとりの自分が嗤ってる。
クリスマス前のイベントだった。ウエストの小さい教会……その隅でひっそりと行われてた炊き出しだった。迷える者に救いの手を。誰にも等しくその扉は開かれてた。そう。等しく、だ。
響く爆発音に、たまたまオフで、たまたま近くの顔見知りの飲み屋に行く道すがらだった。真っ昼間のスラムと呼べる地帯の瀬戸際にいるヤツなんか野良犬か浮浪者か。その教会の炊き出し、手伝いの子供、シスターくらいだった。
ついてない。あぁ、本当についてない。カミサマは日頃の行いがすこぶる悪いオレに今年最後の試練ってのをお与えになったんだよ。クソッタレ。
『逃げろ!』
教会の近くに出現したサブスタンス。それを狙ったイクリプス。騒ぎに乗じて炊き出しを奪おうとするヤツ。命あっての物種だと、そこから逃げるよう庇おうとするシスターや神父。まったく、そんなヤツなんか放っておけばいい。ろくでもないヤツはろくでもない死に方がお似合いだ。救いの手に泥を引っかけたヤツに助ける価値なんかねぇだろ。なのに、助けようとする。だから、オレは。助けようとするその、カミサマの遣いを助ける。これで、少しは行いが認められる?良いことがあるかよ?
……なら、オレのたったひとつの願いも。
『危ない!』
そう、声をあげたのは誰か。知らない。聞こえた時には、腹を熱が通り抜けた後だったから。ひとつ、ふたつ。体を撃ち抜いた熱に情けなく声をあげて。悪さしてたヤツはそれで初めて命をとられるって今さら気付いて一目散に逃げ出した。あぁ、ほら。バカみたいだろ?
『は、は……』
残ったシスターが、子供が、神父が。逃げるタイミングを見失って教会の隅で震えてる。祈ってる。願ってる。その前に背中を晒して、乾いた笑いを血と一緒に溢すオレなんかを希望の星でも見るように見守ってる。
違う。違うんだよ。オレは、誰かのなにかになんかなれない。それ、でも。
『それでも』
それでも、と言い続ける。じゃなきゃこの足は簡単に止まっちまうから。後悔にまみれてすぐ歩くことを忘れちまうから。
『ちょっと、付き合ってもらうぜ』
そうして、左目の眼帯をむしり取った。
ちか。ちか。
ほし。星。星が、見える。
「……」
ゆっくりと目を開くと、暖かなものに包まれてた。暖かで、大きいのと小さいのと。声も聞こえる。頑張れ、大丈夫かっていろんな声が聞こえる。
「キース」
その、中に。一際オレの中に響く声がある。何度も名前を呼んで、何度もオレの視界に入るモノがある。
赤くて。少し潤んで見えて。黒くて、熱なんか知らないような鉄の面した仏頂面が。見慣れたはずの、見知らぬ顔がオレを覗き込んでる。小言しか最近、聞いてない気がするその固い声が、目と同じで少し濡れて聞こえる、から。
「は、」
つい、笑っちまった。
「そ………、しな……」
そんな顔、しなくたっていい。
オレはおまえのなににもなれてない。そう、言いたいのに喉に詰まったモノを咳と一緒に吐き出すしかできない。
歪んだお綺麗なツラに、ちか、ちか。星が散ってる。いや、違う。
「ゆ、き」
重い空から落ちる、白。てん、てん。仏頂面の、ブラッドの髪に斑にその白が落ちる、から。おまえはなににも染まっちゃダメだ。おまえはおまえだから。それがいいんだから。
伸ばした指先で、ブラッドの頭に降り注いだ白をそっと払いのけた。
「あの時はマジで死んだかと思ったわ……」
冷えきった指先を暖める珈琲を啜りながらふと、昔を思い出す。あれは……ディノがいなくなって少ししてから。自棄糞起こして一丁前に死に場所なんか探して、それでも望みも願いも捨てきれなくて無駄に足掻いてたクソッタレな時期。自棄糞起こしてたから、冷静になって考えたらオーバーフロウなんか使わなくたって制圧できた相手にうっかり本気を出して、その前に腸ぶち抜かれて重傷を負ってたから。普通に出血多量とオーバーフロウの反動で死にかけた。
「……あの時、」
隣におとなしく座ってたブラッドが重そうに口を開く。両手に握った珈琲の紙コップが少し、形を変える。
「お前が救ったシスターや神父、子供たちの介抱が……助けてくれと駆け込んできたホー……いや、男性の通報がなければ、確かに死んでいた」
一目散に逃げ出した。そう思ってたヤツがそんなことをしてくれたなんて。話を聞かされた時は……まだ、人の善性を信じてもいいのか、なんて思ったっけ。
ブラッドはなにかを振り切るように、すっかり冷めちまった珈琲に口をつける。飲み込んだのは珈琲か、それとも。
「……悪かった」
口から溢れたのは、あの時も口にした謝罪の言葉で。あの時と違うのは、中身があること。
「……なら、軽々しく死んだなどと口にするな」
あの時と違うこと。ブラッドが、泣きそうなツラをしてること。前はこっちを見もしなかった。今思えば、顔を見られたくなかったのかも、なんて。
「あ」
あの時見たのと同じ、少し濡れた目でオレを見つめるブラッドの前に……いや、オレたちの上から降るモノがある。
ひとつひとつは小さな氷の粒だってのに。それが降り積もると景色を一変させるほどになるなんて不思議なモンだよ。
「キース」
「なん……」
だ、という言葉は最後まで言えなかった。
黒皮の手袋に覆われたブラッドの指先が、音もなく静かに伸ばされて……オレの、髪に触れる。いや、なにかを払い落とす。
「お前が、ここに。俺の前に変わらず在ること。それだけでいい」
遠く、ジングルベルを鳴らす歌が聞こえる。気の早いサンタが、少し早くプレゼントをくれたんだって。自分で言ったことが恥ずかしかったんだろうな。口を文字通りへの字に曲げたブラッドの妙な笑顔に頷く。
『I feel the same way』
「……さて、そろそろ行こうぜ。さすがにさみぃ」
「あぁ。夜はお前の家でなにか作るか?」
「そうだな……とりあえず、買い物行くか。酒も切れてたし」
「熱燗が……飲みたい」
「お、いいね~決まりだな」
ちか。ちか。
星。輝く星。光る星。導く星が在る。いや、それは星じゃない。こうして手が届いて、暖かい。
雪に染まりつつある世界の中で、変わらないオレの横に在る景色を眺めて、ゆっくり歩き始めた。