老いた木場修太郎の手記(一)「毒物だと…?」
長い付き合いの幼馴染から、動揺を感じた。
電話口にでたとき、無性に苛立っている
様子だったが、今は愕然としている。
「ああ、あの住込みの信者が入手に関わった
のがわれてな。ありゃあ拝み屋の犬
なんだろう、前の件で察しはついてる」
「前の件とは、なんだ?」
お前が帰ってくるひと月前ぐらいか、
使い込まれた手帳を捲り、受話器を持ち直す。
「どうやらあそこは畜産精肉関係者を信者で
固めて豚だか牛だか鶏の…生き血を毎日
一定量横流しさせてたらしくてな。
しかし、この1年でその信者がだいぶ
抜けたらしい。だから今迄受付窓口だった
住込みが貰いに回っていた。それを、
サツにタレこんだ奴がいたんだよ」
「そんな話は、京極から聞いていない」
「まぁ、気味が悪いから追い払ってくれ程度
の通報だったからなぁ。うちの若いのが
血の使い途についての事情聴取に出張ったが
宗教上の儀式だか祭祀だか…上手い具合に
言いくるめられて帰ってきたよ。
あの拝み屋のじじい、やり手だな?」
いいように丸めこまれた部下共をみて、
自分が出張ってやろうかとも思ったが
宗教だの拝み屋だの、胡散臭い話に態々
首を突っ込むと碌なことにならない。
そういったものに、いい思い出はなかった。
「だが、今回は生き血じゃなくて毒物だ。
しかも一人二人の致死量じゃねえ、
とりあえず住込みの身柄を確保して
署で聴取してるんだが全く口をわらねえ」
「あれは何も喋らない、中身がないから」
「そんな感じだな、で、肝心の拝み屋よ。
何処にいるかがわからねえ、あの家で
寝起きしている痕跡もなかった。お前、
あの拝み屋とよくつるんでたじゃねえか。
何処にいるか、心当たりはねえか」
「丁度いい、今から会いにいくところだ!」
「はぁ!?今からだと?」
今何時だと思ってやがんだと詰る台詞は、
昔から変わらぬ張りのある声に阻まれた。
「どうせそこまで調べがついてるなら、
近いうちに家探しが入るのだろう!」
「…まぁ令状がでてるから、明日朝にもな」
態度や言動は奇人変人の癖に、察しだけは
恐ろしくいい。昔からそうだったが、
老いてから更に磨きがかかったように思う。
「なら尚更だ、有象無象がうじゃうじゃ
出入りされたらじっくり問い質せない!
木場修も、京極の居場所を知りたいのなら
ついてくるといい!」
「お、おいおい、
お前は拝み屋の居場所がわかるのかい」
「わかるぞ、わかるとも。
彼奴は彼処にしかいない、
あの檻を手放さない。
天地がひっくり返ろうとも、
決して明け渡さない」
彼処ってどこだ?檻とはなんだ?
相変わらず此奴の言葉は判り難い。
「毒なんか持ちだして何をしようというのだ。
何をしたって、関はあの虫と混じっている
以上、死なないというのに…」
話が、完全に理解できない領域に入った。
しかも勝手に思考に沈んでいる。
前頭部が年相応に薄くなってきたため、
短く刈り込んだ頭をガリガリと掻く。
「あー、アレだ、つまり、今からなら
拝み屋の居場所に案内してやるって
話で間違いねえな?」
「そうだ。流石修ちゃん!話が早い!
という訳で、さっさと迎えにきなさい」
「はあ…」
盛大にため息を吐き、
チラリと時計に目をやる。
下手をすれば朝になるだろう。
なんでこんな老耄が若手の刑事よろしく
徹夜労働しなきゃならないんだという
理不尽感が募る、やっと来年定年なのだ。
「ちゃんと迎えにきたら、道すがら事情を
説明してやろう。その四角い硬そうな禿頭
をできうる限り柔らかくして来るのだ、
それでも理解できるか保証はせんがな!」
そういえば。
この幼馴染と拝み屋の関係について、
今いちよくわかっていない。
どうせ探偵をしていた頃に知り合って
浮世離れした職種同士つるみ始めたの
だろうと勝手に思っていたが、
どうやらもっと古いようだ。
好奇心の虫が騒ぎ始める。
年をとっても、こればかりは衰えぬ。
「…何十年付き合ってると思ってんだ。
お前の頓珍漢な話なんざ、慣れっこ
なんだよ。こちとら深夜運転なんだ、
眠くならねえ話を用意しといてくれ」
この後、幼馴染の邸宅前まで乗りつければ
時代外れの軍服を纏い、これから戦地に
いざ征かんと言わんばかりの背筋の伸びた
老軍人を拾う羽目になった。
その上、道中で聞かされた話は
今まで其奴の語る頓珍漢な話の中でも、
群を抜く奇天烈怪奇なものであった。
人間でありながら突然化け物になった男。
その男の為に世間を捨て、拝み屋になった男。
隠れ家。
地下牢。
眠たくならない代わりに目眩がしてきた。
日常とは著しく掛け離れた境界にじりじりと
近づいている気がする、胸糞悪い。
だからこうゆう胡散臭い輩が絡む事件は
嫌いなのだ、日常という土俵から離れた場所
での出来事には法律も常識も通用しない。
つまり、自分は無力なのだ。
深夜に車を出したことも、
道中この話を聞いたことも、
酷く後悔し始めていた。
正直、もう帰りたくなっている。
だが、長く張り合ってきた助手席の老軍人
の前で怖じ気づくさまは見せられない。
咥えていた煙草を車中の灰皿に捻じ込むと
信号待ちの間に、運転席の窓をグッと下げる。
冷え込み、秋の終わりを感じる風と
真っ赤に色づいた紅葉が一枚。
するりと車中に入ってきた。
それは、隣の膝にそっと乗った。
薄暗い中でも、
ひっそり赤を主張するそれを。
幼馴染は老いた眼で
ただ、じっと見ていた。