傷のある子は「どう? ちゃんとごはんとか食べてる?」
「とかってなに? 大丈夫、ちゃんと食べてるよママ」
自身の部屋の中でスマホを耳に当てながら、コハクはそう返す。
彼女がこうして気兼ねなく話せる相手は少ない。普通よりも、きっと少ない。しかしだからこそ、この時間が幸せである事を彼女自身理解している。作り笑いではなく、無意識に口の端が上がっているのが自分でもわかっていた。
「だってほら、コハク昔から料理苦手だし……」
「ほんと大丈夫だって。心配しすぎだよ」
「じゃあ、たとえば最近何を作ったの?」
「た、たとえば?」
「そう、たとえば」
沈黙が流れる。何故なら真っ先に浮かんだのがゲルと化したうどんだったからだ。しかしここで『ゲルうどん!』とは答えられない。ちゃんとしたもの食べてる? という問いに対してのゲルうどんは絶対にちゃんとしていない。
「う、うどんとか」
目を泳がせまくりながら、コハクはなんとかそれだけ答えた。ゲルは省いた。いやむしろ、元はうどんだったのだからアレは誰がなんと言おうとうどんなのだと自分に言い聞かせて『自分が作ったのはうどんなのだ』と他ならぬ自分自身に対して言い張る。
それからありふれた––––だからこそ幸せだと思えるやり取りを何個か交わして、電話を切った。
そして自身が思ったことに対して、思わず笑みが漏れた。何故だか、胸の奥が暖かくなった。
「幸せか。そっか、幸せか」
ある時期は、自分は幸せとは一番縁遠いものだと理解していた。幸せとは対人関係の先にあるのであって、それが満足にできない自分に幸せは訪れないのだと覚悟していた。いや、或いはただの諦めか。
持っていたスマホをテーブルに置く。上がった口の端はまだ戻らない。胸の奥も、なぜだか暖かいまま。
また、笑みがもれた。
もう一度、大切につぶやいてみる。
「そっか。私いま、幸せなんだ」
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「あの子、最近変わったわね」
電話の先に居たコハクの母が、笑みと共にそう言った。
「変わったって、どこが?」
それに応えたのはコハクの父。冷蔵庫から麦茶と、棚からコップ二つを器用に出して母の対面に腰を下ろす。
「楽しそうというか、明るくなった」
「それが本来のコハクだろう」
言いながら、父はコップ二つに麦茶を注いだ。
当たり前のようなその言葉に、母は申し訳ない気持ちになった。父に対してではない。コハクに対してだ。
「そうね」
自身の言葉を確かめるように言った後、いろんなものを含んだ微笑みを浮かべてもう一度同じ事を言った。そうね。
子育てに悩んだことは勿論あった。勿論コハクに対してではなく、自分たちに対して。
『自分たちはいい親ではなかったのかもしれない』
コハクが傷付き、部屋から出られなくなった時は特にそう思った。どうしようもない程、自責の念に駆られた。
だからこそ、両親はコハクを部屋から無理やり出そうとはしなかった。コハクを変えようとは微塵も思わなかった。
あの子は十分に頑張った。十分すぎるほどに苦労をした。それなのに、何故あの子の方が変わらなければならない。あの子は、あの子のままでいい。それだけでいい。
ただ、望みが叶うとするなら、あの子が、あの子の事を事を真っ当に見てくれる人達に出会えますように。そう、心から願っていた。
それが、ようやく叶った気がする。強く、強く願っていた事が、ようやく。
「まあ、俺は心配していなかったけどな。悪いことにはならないって最初からわかってた」
強がりなのか、それとも本心なのか、父が笑いながら言う。
「私だって、わかってたわよ」
しかしこれは、強がりだった。わかっていなかった。不安で、心配で、仕方がなかった。だから、自身の子供の事を信じてやれなかった事を今でさえどうしようもなく後ろめたく思っている。申し訳ないと思わずにはいられないでいる。
だから母は言葉を繋げる。
心からの、本心を。
「傷のある子は優しく育つんだから。そんな子が報われなくて、たまるもんですか」